実語教

餅雅

これ学問の始め

 皆さんは『実語教』という本をご存知だろうか。


 約千年前の教科書である。


 有名どころで言うと、旧千円札『福沢諭吉』が書いた『学問のすゝめ』がこの教科書の引用になっている。


 〝『実語教』に、「人学ばざれば智なし、智なき者は愚人なり」とあり。されば賢人と愚人との別は学ぶと学ばざるとによりてできるものなり。〟


 と有るのは皆さんの知る所ではなかろうか。


 ここで一つ考えて頂きたいのがこの『学問のすゝめ』が書かれたのが明治五年〜九年の間。という所である。


 先にも説明したが、この実語教という本、約千年前の教科書である。


 何故、約千年前の教科書を、福沢諭吉が明治に引用したのか?


 福沢諭吉は博識な人だったのだろう。


 それはその通りだろう。


 けれどもここで考えて貰いたい。


 日本にはそういう本が山程有るのだ。


 神話、万葉集、中国から来た論語……


 どれも日本人が長い間大切にしてきた書物である。


 実語教は造詣が深い。


 子供にも解りやすく、一つ一つが短い文で構成されている。


 これは『仁』の本である。


『人は仁なり』


 これは新渡戸稲造の武士道でも引用されている。


 元は論語からの引用である。


 それ程長い間、人々に愛されたロングセラーなのだ。


 じゃあ作者は?


 と言われると、これが分からないのである。


 寺子屋で長い間使われて来た。


 あの二宮金次郎も読んだ本である。


 仏教色の強い本である。


 仏教と聞いて、何だ宗教の本か。と侮る事なかれ。


 易経や儒教も含まれている。


 つまり、この薄い一冊、内容はたったの四十七文だけ読んでおけば、四書五経の触りを網羅できる所謂チート本である。


 言志四録の著者、佐藤一斎曰く、


 〝人の一生の履歴は、幼時と老後とを除けば、概ね四五十年閒に過ぎず。其の聞見する所は、殆一史だにも足らず。

 故に宜 しく歴代の史書を読むべし。上下 数千年の事迹、羅ねて胸臆 に在らば、亦快たらざらんや。眼を著くる処は、最も人情事変の上に在れ。〟


 とある様に、多くの本を読んだ方が良い。


 けれどもこれが下地が無い為に読めない本が有るのだ。


 その下地にうってつけなのが、『実語教』である。


 しかも、後の世の人々もこの実語教を読んで勉強した者が多い。


 実語教からの引用や、その派生文書が多岐に渡る。


 だからあらゆる本の基本になった本と言っても過言ではない。


 つまり、この約千年前に書かれた本、現代でも使える最強本と言っても過言ではない。


 では、仏教の影響を強く受けていると言われている実語教の中身を見ていこう。


 出だしは


〝山高きが故に貴からず 樹有るを以て貴しとす〟

 

 である。


 高い禿山ではなく、人の生活に欠かせない木がある豊かな山の方が貴い。


 つまり、世の中の役に立つ人になろう。


 という意味である。これは真理である。


 易経で言う所の『潜龍』の部分に通じるものがある。


 志を立てよ。という意味である。


 私がこの実語教を手にしたのは上の子を妊娠した時だった。


 何か子供に良いものを……


 貧乏だからお金は残してやれない。


 何か生きる知恵を


 下手に偏りの有るものではなく、長い実績があって、日本人としての基礎になるものを。


 と探した結果、この実語教に辿り着いた。


 恥ずかしながらそれまで全くこんな本が有ることを知らなかった。


 この本を手にとってこの文を読んだ時の衝撃は今でもはっきりと覚えている。


 この本に、子供の頃に出会える縁を引き当てた子らが羨ましいとさえ思った。


 これは大変な本である。


 虚飾に走る現代人が多い中、本の最初にこの文を持ってきたのは、先人の叡智である。


 他にも学問に対しての文章が多い。


 ここで言う学問とは、今で言う受験勉強のことでは無い。


 それは『学』である。


 『学』は子供が冠を被った文字である。


 冠を被っているのは位の高い人、先生である。


 では何故子供が冠を被っているのか?


 これは『真似る』と言う意味がある。


 子供が、先生の真似をする。


 それが『学』である。


 それは机に向かって難しい本を暗唱するとか、難しい計算をするとかいった『学』ではない。


 先生の行動、所作を真似する。


 と言う意味である。


 つまり、中江藤樹の言う所の『知行合一』である。


 先の福沢諭吉の言葉を借りるのであれば、


『人間普通日用に近き〝実学〟』


 論語で言う所の


『先ず其の言を行い、而して後にこれに従う』


 である。


 勉強した事を行動に移してこそ自分の知識となるのである。


 実語教には〝君子〟という言葉も出て来る。


 『学ぶ』とはつまりこの『君子』を目指して学ぶのである。


 けれども昨今、ただ虚しく年齢だけ重ねた大人が多く無いだろうか?


 四大日々に衰え 心神夜々に暗し 幼き時勤学せざれば 老いて後恨み悔ゆといえども 尚所益有ること無し


 と、実語教にもある。


 見た目は大人なのに、考えが小さな子供のように自分勝手で、自分以外の誰かの幸せを妬み、都合が悪くなると癇癪を起こし、周りにご機嫌を取ってもらわないと自分では何も出来ない大人の多い事……


 「少にして学べば、即ち壮にして為すことあり。壮にして学べば、即ち老いて衰えず。老いて学べば、即ち死して朽ちず」


 これは佐藤一斎の言葉である。


 学びは何歳からでも出来る。


 今から学んだって意味無いと仰る方、童子教には


 宋吏は七十にして初めて学を好んで師伝に登る


 とある。


 この人は七十まで田畑を耕していた人である。


 そんな人でも七十から学んだのである。


 今、これを読んでいる皆さんはお幾つだろうか?


 実語教には他にも、孝行についてや人との関わり方についても書かれている。


 と、ここで四十七文全部説明したいところであるが、そこは齋藤孝先生の 『親子で読もう実語教』にお任せしたい。


 とても解りやすく、現代語訳で説明されている。


 是非一度お読み頂きたい。


 貴方の学びの一助になれたなら幸いです。 

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実語教 餅雅 @motimiyabi

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