逃げる、逃げる。

無柄にひろ

逃げる、逃げる。

 ある冬の夜、どこかへ逃げなくちゃいけないという思いに駆られて、わたしは車に乗り込んだ。

 これはわたしなりの社会への反抗であり、ある種のテロである。誰か一人は共犯者がほしい。LINE を開いて、誰か一人捕まりそうなやつを探す。

 ここはやはりユノだろうな。ユキコでもユズハでもだめだ。あの二人にこれほどの反社会的行為を起こすだけの度量はない。どう考えてもユノが適任だろう。スマホを操作してユノにメッセージを送る。既読はつかない。しばらく待っても既読がつかなかったのでしびれを切らして通話をかける。ほどなくしてユノが出た。

「どこかへ行こう」開口一番にわたしが言った。

「……どこへ?」そう言うユノの声は眠たげだった。寝ていたところを起こしたのだろうと思ったのだろうが、それを申し訳ないとは別に思わない。立場が逆の時もあるからだ。

「わからないよ、適当に車を走らせる」

 数瞬、ユノが押し黙る。そして、

「いいよ」

「じゃあ今から向かうから」

 通話を切り、助手席にスマホを放り投げて私はアクセルを踏んだ。


 ユノのアパートはわたしの部屋から一◯分ほど車を走らせた場所にある。ユノを呼び出すために助手席からスマホを拾い上げたとき、二階にある部屋の前で白い息を吐いているユノの存在に気がついた。彼女が着ているブランド物の厚手のコートに対して真冬にも関わらず露出された脚は見ているだけでも寒々しかった。ユノはわたしの車の姿を認めると、ゆっくりと階段を降りてこちらへ近づいてきた。

「どうしたの? 急に」

 助手席に乗り込みユノが言った。

「なんとなく、なんとなく」

「どういうこと?」

 わたしが何を言わんとしているのか掴めなかったユノは眉をひそめた。

「ちょっとテロでも起こそうかなって」

「はあ?」

 ますますわけがわからないと言わんばかりにユノがこちらを睨んできた。

「それより、どこか行きたい場所はある?」

「……強いて言うならコンビニ」

 その言葉に答える代わりに車を動かす。ここから近いコンビニはどこだろうと考える。

「待って、近所のコンビニは嫌だよ。せめてもう少し遠くのコンビニにして」

「どうして?」

「こういうときくらい遠くのコンビニに行きたいよ」

 彼女が何を言っているのか理解できなかったが、とりあえず言われた通りに車を走らせる。ドアポケットからタバコを取り出して火をつけると、ユノが迷惑そうな顔をして助手席の窓を開けた。

「タバコなんてやめればいいのに」

「こういうときくらい吸わせてよ」

「こういうときじゃなくても吸ってるじゃん」

 いくらか煙を吐き、わたしは運転席の窓を開けた。突き刺さるような冷たい風が外から差し込んできて思わず身体を震わせた。何も言わずにユノが車内の暖房を強める。

 フロントガラスに映る町は深々と微睡んでいて、耳を済ませるとかすかに寝息が聞こえてきそうだった。時折みえる電灯と定期的な動きを繰り返す信号機だけがまだ眠っていないことを主張している。

「ねえ、さっきのどういうこと?」

 ユノが言った。

「さっきのって?」

「ほら、テロがどうこうってやつ」

「特に深い意味はない……というかそのままの意味だよ。テロを起こすんだよ」

 わたしがそう言うとユノは身体を乗り出して後部座席を振り返った。

「何もないじゃん。銃や爆弾は?」

「そんなのないけど」

「テロを起こすなら必要じゃないの?」

「テロを起こすのにそんなの必要?」

 わけがわからないと言いたげな様子でユノは肩をすくめた。

 しばらく大通りを進むと、反対車線側にコンビニが見えた。他に道行く車はない。わたしは大きくハンドルを切ってコンビニに入り、駐車場に車を止めた。

「何を買うの?」

「飲み物と、軽く食べるもの。ずっと寝てて昼から何も食べてない」

 そう言ってユノは助手席から降りた。つられるようにわたしも降りる。

「あれ、何か買うの?」

「なんとなくだよ。わたしも飲み物がほしい」

 バタン、と少しだけ大きな音を立ててドアを閉める。ユノが店の中に入っていく姿が見えたので、早歩きで追いかける。店に入ると外との寒暖差が少しだけ気持ち悪かった。

「ねえ、突然こんな時間にどこかへ行きたいってどうしたのさ」買い物かごを手に取りながらユノが言った。

「うん――まあ、いいじゃん」

「深くは訊かないけど……なんかあった?」

「訊いてるじゃん」

 店内にわたしたちの他に人影はない。店員は店の奥に引っ込んでいるようだ。店内放送の当たり障りもないトークラジオと暖房器具による不自然な暖気が眠気を運んでくる。飲み物棚を物色しながら居心地の悪さを感じる。

「どこへ行こうか」ふとそんな言葉がついて出た。

「とにかく走らせればいいんじゃない? わたしは何も言わずにただついていくよ」メロンパンを手に取りながらユノが答える。

 買い物を済ませたわたしたちは車に乗り込んだ。購入しておおよそ三年、ローンがまだ残っている中古の軽自動車。どこへ行くにもわたしはこいつと一緒だった。

「あのさ、ひとまず中央公園に行かない?」

 車に乗り込むとユノが言った。

「中央公園? あの高台の?」

「うん。きっと静かで心地良いよ。寒いだけかもしれないけど。でも、だからこそ他に人はいないんじゃないかな」

 どちらにしてもありだな、とわたしは思った。

 エンジンをつけると次第に車内が暖まってくる。心地よい暖かさに思わずあくびをする。

「会うのは久しぶりなわけだけど、最近どうなの?」メロンパンを喰みながらユノが言った。ドリンクホルダーに差した買ったばかりのホットミルクティーを片手で開けると、甘ったるい匂いが鼻腔をくすぐった。

「何も変わらないよ。ユノは?」

「あー、ちょっとだけ太ったかも。本当ちょっとだけ」

「そうなんだ」

 同性のわたしが言うのも何だけれどもユノはとても可愛い。ユキコやハルカもかわいいけれど、ユノのかわいいさは別格だ。メロンパンを食べているその仕草だけでも十分に映えている。袋越しにメロンパンを持つ細い指と、懸命にメロンパンを咀嚼するその姿が愛くるしい。それに比べてハンドルを握るわたしの指と、バックミラーに映るわたしの顔は醜い。

 ふとスマホの通知音が鳴った。わたしのスマホではなく、ユノのスマホだ。しかしユノは気にせずメロンパンを咀嚼し続ける。わたしといるとき、ユノはいつもスマホを見ない。彼女なりの気遣いなのだろう。彼女の外見と普段の言動からよく勘違いされがちだが、彼女は決して大雑把な性格などではない。むしろユノはこういう細かいところに気配りができる人だった。

 会話もないまま車を走らせる。ユノが指定した高台の公園までおおよそ五分と言ったところだろう。学生時代に一度だけそこでユノと二人で花見をしたことがあるのだが、わたしたちが行った頃にはすでに桜は散っていた。完全に時期を間違えたね、とユノは笑っていた。ユノはまだそのことを覚えているだろうか。

 しばらく直進し、立て続けに二回右折したあと、やがて公園の駐車場にたどり着いた。わたしたちの他に車の姿はなく、ただ電灯の光だけがわたしたちを照らしている。大した距離ではないけれど、ここからは歩いていかなくてはならない。

 車から降りたわたしたちは何も言わずに並んで歩き始める。公園までの道のりは木組みの階段で舗装されている。一段一段を踏みしめるように登っていく。

 並んで歩いて改めて思ったがユノはわたしより一回り小さい。頼りなさげな華奢な身体つきは今にも折れてしまいそうだ。わたしは少しだけ彼女に身体を近づけた。

 そして公園にたどり着く。ユノの予想通りわたしたちの他に人影はなく、芝生と、桜の並木と、少しの星々だけがみえる。桜の樹たちはあの頃と同じく、その枝先に何も咲かせていなかった。

 桜の並木を奥に進んでいくと町の全域が見下ろせる場所にたどり着く。地元では有名な夜景スポットだ。煌々とした夜景が眼下に広がっている。

「この町でもこんな時間に起きてる人っているんだね」

 ユノが言った。わたしは頷いた。

 すぐ近くにベンチがあったのでわたしたちはそこに座った。わたしのちょうど頭上のあたりに桜の枝がかかっている。太く、立派で、しっかりとした桜の枝だった。

 枝をじっとみていると、ユノがこんなことを言い始めた。

「てるてる坊主の歌って不気味だと思わない?」

「え、ちょっとやめてよ。こんな時間にこんな場所でそんな話」

「あはは。でも、てるてる坊主って可哀想だよね。願いを聞いているうちは優しくしてくれるのに、少しでも役に立たなかったらすぐ殺されちゃう」

「でも、殺してくれるだけマシだとも言えるんじゃない? 願いを叶えてくれるまで延々と吊るされてるよりはよっぽどマシだと思う」

「あー、そう捉える? あはは、ユウカってやっぱ少し変だよね」

 反対側を向くと、電灯の無機質な光に照らされた公衆トイレが目に入った。わたしは思わず目を逸らした。

「そう言えばユウカの好きな本ってなに?」ユノが言った。

「どうしたの急に? 本なんか読むタイプじゃなかったでしょ」

「常連のお客さんがわたしたちと同じくらいの大学生なんだけど、ベッドの上で延々と好きな本について語ってきたんだよ。それで一応オススメされた小説を読んでみたんだ。こうすると客ウケが良いしね」

「どうだった?」

「つまらなかったよ。よくわからなかった。どう読めば良いのかわからなかった」

「ふうん……?」

「なんて言ったら良いんだろうね。ただ淡々と景色のことだけ綴られていて、ほとんど人物の心情が語られないの。あとストーリーが本当に意味わからない」

「ああ……そういう小説あるよね」

「それで好きな本はある? 前は色々読んでたじゃん」

 ユノの言う通り、わたしは昔手当たり次第に本を読んでいた。今となってはまったく読めなくなってしまったけれど、それでもかつて好きだった本のことは覚えてる。

「アンナ・カヴァンの『氷』かな」

「それってどんな話なの?」

「ある男が迫り来る氷の壁から逃げたり、少女を追いかけたりする話」

「なにそれ? 意味わからない」

「でも今のわたしたちと似てない?」

「少女は追いかけてないけどね」

 それから会話が途切れた。静寂だけが流れる。

 ユノの顔をじっと眺める。相変わらず彼女はかわいいし、わたしはかわいくない。ユノの顔を見ていると、困ったような表情でわたしのことを見つめ返してきた。

 わたしはコートのポケットからタバコを取りだして火をつけた。一口目は蒸し、二口目から肺に入れる。寒空の下吐き出した煙が、夜の闇に消えていく。

「ねえ、タバコ一本もらえる?」ユノが言った。

「タバコ嫌いでしょ?」

「なんか吸いたくなっちゃって」

 自分が吸っていたタバコをそのままユノに差し出す。何も言わずにユノは受け取り、そのまま口に含んだ。咳き込むかと思ったが、慣れた様子でタバコを吸い始める。

「慣れてるね」

「わたしがタバコを吸ってるとたまに喜ぶお客さんがいるんだ。だから時々一本だけ貰う」

「喜ぶんだ? 変だねそれ」

「変だよね。所詮タバコなのに。でも、相手が『タバコを吸ってるわたし』を求めてるってことに気づいたら、不思議とわたしもそうするのが正しいって思っちゃう。タバコなんて嫌いなのにね」

「なんだそりゃ。じゃあわたしがタバコを吸ってるユノが見たいと思ったから、ユノはタバコを吸ったってこと?」

「ううん、今はなんとなく吸ってみたいと思っただけなんだよね」

「ますます意味わかんないね」

 そう言って二人で笑った。

 そうして二人でタバコを吸った後、良心の呵責に駆られながら吸い殻をポイ捨てした。「これがテロ?」と悪戯っぽくユノが舌を出す。こういうところがユノらしい。一挙手一投足がいちいちかわいい。

「暗いから降りる時は気をつけなきゃね」と言いながらユノはわたしに手を差し出してきた。黙ってわたしは彼女の手取る。ユノの手は冷たかったし、わたしの手も冷たかった。二人で並んで一歩ずつ木の階段を降りていく。

「寒いね」降りながらユノが言う。

「本当に寒い。こんな日にテロなんて辞めればよかった」

「こんな日だからテロを起こそうと思ったんじゃないの?」

「そうかも」

「ねえ、ユウカの言うテロってなんのこと?」

「決まってるでしょ。社会への反抗だよ」

「どうしてわたしを誘ったの?」

「どうしてって……」そこでわたしは立ち止まった。ユノも立ち止まった。「ユノも同じなんじゃないかって思ったから」

「同じ?」

「うん。わたしと同じでテロを起こしたいんじゃないかなって」

 わたしがそう言うとユノが繋いでいる手に強く力を込め、こう言った。「うんきっと、わたしも同じことを考えていたと思う」

「じゃあやっぱ共犯者だね」

「一緒にタバコポイ捨てしたしね」

 階段を降りきって二人で一緒に車に乗り込んだ。エンジンをかけるとヒーターがものすごい音を立てて車内を暖め始めた。ガソリンメーターは十分だし、特にお腹も空いていない。おそらくユノも同じだろう。そっとアクセルを踏んだ。

 それから三◯分ほど、特に会話をすることもなく、公道を走り続けた。東の空が白み始めて、窓に流れる景色もずいぶん変わり、建物や家々が多く見えてくる。ホットミルクティーはとっくに空っぽだった。

「人生で最も楽しかった思い出って何かある?」不意にユノが呟いた。

「うーん。ああ、五年前、四人で行ったディズニーとか?」

「ああ」あくびをしながらユノが答える。「あの時なんだ」 

「あれが一番楽しかったかも」

「マジで? それってなんか、寂しくない?」

「そうかな。わたしにとってはこれまでで一番楽しかった思い出だよ。ユノにとって一番楽しかった思い出は?」

「昨日お客さんと一緒に食べに行った焼肉」

 ユノらしいなと思った。

「いつも思うんだよね。とっくに人生のピークなんて越えていて、あとはつまらないだけなんじゃないかなって」ポツリとユノが言った。

 彼女の言葉の真意を考えていると信号が赤になった。窓の外に古ぼけたビルが見える。無意識のままにそのビルが何階建てなのか数えている自分がいることに気がつく。

「もし本当にそうだったとしたらユノはどうするの?」

 下から数えた後、上からも数える。五階建てだった。

「さあ……だからと言って何もしないよ。本当にそうだったとしても確かめようないじゃん? 考えるだけ無駄だよ」

 遠くの方から赤い光が顔を覗かせて、群青色の空を割いている。それでも車内はまだ静かだった。

「このままどこまでも行けたら良いんだけどね」ハンドルを握りながらわたしが言う。

「いけるよ、わたしたちならね」

 ユノは目を瞑っている。本気で言っているのかどうなのか判別がつかない。もしかしたら寝言かもしれない。

 わたしの車の後ろや対向車線に続々と車が並び始める。随分と長い信号だなと思った。

 ユノの方を見ると彼女の白い肌に浮き出ているような血色の良いくちびるが目に付いた。彼女は変わらず目を瞑っている。そのくちびるに惹かれるようにわたしは彼女にそっとキスをした。

 ユノの顔を見つめる。ユノは目を開けない。

 どこへいこうかと考える。このままブラブラと当てもなくどこかへ向かうのも良いし、引き返して帰っても良い。いずれどこかへはたどり着く。どこであろうと、そこがわたしたちの目的地になる。

 信号が青になる。他の車たちが動き始める。それでも車内は静かだったし、わたしたちは二人だった。このまま世界に溶けていけば良いのにな、とわたしは思った。

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