その愛は三大欲求のひとつの形
あー……インフルエンザだね、今流行ってるからねー、薬出すから安静にして寝てたら治るよ。
医者に言われて3日目、ベッドに貼り付く虫となってしまった俺は水分と栄養のあるゼリーだけをなんとか口にして高熱と頭痛と関節痛に耐えていた。スマホで調べたら発症してから3日くらいはこの苦痛に見舞われるらしい。もうこうなれば嵐が過ぎ去るのを待つしかない。
熱が出た日は朝から大学の講義があったが、熱と関節痛が酷くてもう休むことにした。クロッカスに休むことをラインして、その日の夕方に見舞いに来てくれたが、数日前、府内にインフルエンザ警報が発令とニュース通知が来ていたので顔は見せなかった。ドアノブに食べ物と飲み物の入った袋を下げて帰ってくれたので本当にそれが助かった。
家で暮らしてた時は体調を崩すと母さんが色々看病をしてくれていて、今本当にその有り難さが身に染みた。
寝返りを打つと頭が割れるように痛む。もうこうなったら眠る以外快適な時間はなくて布団を被って目を閉じた。
――ポコン、と小さな音を立ててスマホが震えた。そしてそのあと、続け様にまた同じ鳴き声を発するそれに眠ろうとしていた顔を上げてもう一度スマホを見つめる。ラインの通知だった。
『もしかして、具合悪いですか?』
『ここ数日、おでかけされてないので』
隣に住むミスティアからだった。なんで出掛けてないこと知ってるんだと思ったが、身体の痛みが強くて考えられない。 何か返信しないと、と癖のように画面を開いた。忙しいとでも、なんでもいい。返信、しないと――
耳障りな機械音に沈んでいた思考が浮き上がった。目を開けると手の中のスマホは真っ暗で、枕元の時計はもう昼の12時と言ったところだった。4時間ほど寝ていて、インターフォンの音に起こされたらしい。何か頼んでいた覚えはない。オートロックのマンションで、勧誘なんて来ない。クロッカスや大学の友人からは見舞いに来るなんて連絡も――
『心配なのでそちらに行きますね』
ミスティアから2分前に送られたラインだった。よく見ると朝来たラインに返信していない。返信を書く前に寝落ちたのか一言だけ「い」と書き込みボックスに残されてる。
2回目のインターフォンが鳴り響いた。壁に設置されたドアホンまで歩くのも辛くてスマホを叩いて頭に押し当てた。ワンコールもしないうちに出たミスティアの大丈夫ですか? が痛む頭を突き抜ける。堪らなくてスピーカーにして耳から離した。
「大丈夫」
「声に覇気がないです」
「ちょっと、風邪引いただけだから」
「え、ちょっ――」
聞き慣れた終了音と共にスマホをベッドに押し付けて息を吐き出した。とにかく今はあの子の相手をしてられる余裕が――
ピンポーンとまたインターフォンが鳴る。なんだか嫌な予感がした。まだ手の中に収まっていたスマホがまた鳴き声を上げる。
『絶対大丈夫じゃないです!』
『出てくれるまでインターフォン押し続けますからね! 嫌なら開けてください!』
「嘘だろ……」
その宣言通り、部屋の中でインターフォンの音が木霊している。俺が女の子なら絶対110番してるぞ。だが、もうこうなれば開けるしかない。
なんとか起き上がって、マスクをとりあえず付けるとドアホンを無視して玄関に急ぐ。鍵を開けて扉を開いた先で見慣れた金髪が何故か驚いた顔をして立っていた。そして――
「酷い顔!」
「あのな……こっちは一昨日から」
「もしかしてインフルですか?」
ミスティアの言葉に返事ができなくて黙り込む。分かったならさっさと帰れ、一人暮らし同士、寝込むのは嫌だろ。
「とりあえずお布団に戻ってください」
「おい……」
易易と部屋に入り込んだミスティアにか細い文句が漏れた。グイグイと押されて中に入れてしまったが、男の一人暮らしだぞ、それに目の前の男は今インフルエンザだぞ、と出かかった。
部屋の造りが同じだからだろう。ミスティアは迷うことなくリビングダイニングを抜けて一番奥の寝室へと俺を押し込んだ。具合が悪くて家も荒れているので少し恥ずかしい。
「ごはん何か食べてますか? 病院は? 薬は?」
ベッドに腰掛けた俺に尋問のように疑問をぶつける。
「病院は一昨日行った。薬ももらってる。食事は――差し入れのゼリーとポカリを飲んでる」
「それだけ? レトルトのおかゆとかストックは……」
「ない」
「じゃあずっとカブトムシみたいな食事してたんですか……?」
誰がカブトムシだ。
「とりあえず分かりました。これ、家にあったポカリです。どうぞ」
ずっと持っていたエコバッグからペットボトルが出てきた。冷蔵庫で冷やしていたのか受け取ったそれはとても冷たく気持ちがいい。
「あと冷えピタと、氷枕と……」
氷枕がいつもの枕の場所を奪い、冷えピタは迷うことなく額に貼り付けられた。これも冷蔵庫に入っていたのか冷たくて気持ちよかった。
「とりあえず寝ててください。あと鍵借りますよ。買い物してきますね」
返事を待たずに出ていってしまったので1人残される。また静寂に戻った世界に呆然としながらも手の内と額にある冷たさが現実と知らしめてくる。もうなんだかどうでも良くなって、布団に潜り込んだ。またポコン、と通知が飛んできた。ミスティアからだ。
『嫌いな食べ物とアレルギーってありますか?』
ない、とだけ返信するとすぐにピンクのうさぎが頬を揉みながらOK! と言ったスタンプが返ってきた。女子高生らしい可愛いスタンプだった。
「ふ……っ」
思わず笑ってしまって、スマホを枕元に置くと冷たい氷枕に頭を下ろした。冷たくて気持ちいい。元気になったら今後のために冷えピタと氷枕買っておこう。あとレトルトのおかゆと、あと――
この部屋では絶対にしない優しくて懐かしい匂いに目を開ける。またいつの間にか寝ていたようだった。時計を確認すると40分程度しか経っていなかった。起き上がると氷枕と冷えピタのおかげかさっきよりかは幾分マシに思う。貰ったポカリはちょっと温くなっていて、ボトルに結露が浮かんでいた。それでも、熱が籠もる身体には冷たくてとても美味しかった。
「あ、起きましたか? おうどん食べますか?」
遠慮なく寝室の扉が開け放たれ、ミスティアが顔を出した。さっきとは違い、一応マスクで感染対策をしているようだ。
頷くと「じゃあ作りますね、これ、レンジで温めたタオルです。汗かいて気持ち悪いでしょう? 気力があるなら服も着替えちゃった方がいいです」とミスティアはテキパキと動いてさっさと寝室から出ていってしまった。
なんだか最初に話したと感じが違うなぁと頭の片隅で感じながら服を脱いで、まだ少し湯気立つタオルで身体を拭いていく。氷枕で冷えた首筋にじんわりと熱が伝わる。身体が辛くて昨日も一昨日もシャワーを浴びていないことを思い出した。
ある程度身体を拭き清めると、途端身体が少し目覚めたように芯が通った。マスクをして寝室を出ると、料理のしにくそうなあの狭いキッチンにミスティアがいた。
「あ、拭けました? もうできるんで使ったタオルはその辺に置いててください」
「あぁ、悪いな」
テレビの前に置いたローテーブルにはもう鍋敷きと箸とレンゲが準備されていて、自動的にそこに座ることになった。まだまだ身体の節々が痛むが今はなんだか身体が辛くない。
「よいしょ、はいどうぞ」
ミスティアが布巾を乗せた小さな土鍋を目の前に置いた。この家にこんな類のものは置いてなくて首を傾げる。
「なんでこのお家お鍋もフライパンもないんですか?」
なるほど、彼女の私物か。確かにもし鍋を買うにしてもこんな淡いピンクの可愛い鍋は買わないな。
「使わないから」
「えぇ……なんで……。まぁいいや。どうぞ」
ミスティアの言葉に人肌より少し熱い布巾で蓋を開けるとぶわっと湯気が上がった。その真ん中で出汁を吸って膨れた茶色い揚げとそれに浸食するように火の通った卵がまだまだ柔らかそうに浮かんでいた。くったりと煮えたネギも傍らにあり、それらの合間からつやつやと白く太い麺が顔を出していた。
数日ぶりのまともな食事で食欲がなかったのに急に空腹感が押し寄せてくる。ミスティアが席を立ったので早速箸を取った。
「いただきます」
手を合わせてマスクを外すと顔を覗かせている麺を掬う。ふわふわと上がっていく湯気に息を吹きかけて、一本啜っていく。
「――うま」
思わず声が漏れた。本当に久しぶりのまともな食事で、それでいて、いつも食べているものとは比べ物にならないくらい美味しかった。出汁の垂れ落ちる揚げも、箸で割ると溢れ出た蕩けた半熟の黄身も、くたったネギも全てが美味しくて、しばらく無我夢中で食べた。
「ジルバさん、食べ終わったら洗わなくていいんで流しに浸けといてください。また明日にでも洗いに来ます。あと、夜ご飯用におにぎり作っておいたんでまた食べてくださいね。冷蔵庫です」
それだけ言うとさっさと帰ってしまったミスティアに礼も何もできなかった。その後汁まで飲み干すと、一息吐いて水を飲み干した。いつもは感じられない満腹感に天井を仰いで食べて熱くなった息を吐き出す。まだまだ痛む身体だが、食事をとったことで少し元気になってきた。
ミスティアの言葉通り鍋を水に浸ける。さっき冷蔵庫に何かしらあると言ってたのを思い出して流しの後ろに置いた冷蔵庫の扉を開いた。普段家で食事をとらないのですっからかんの冷蔵庫のど真ん中に小さな三角の白い塊が皿に乗って、そしてその上からラップがかけられて鎮座している。そしてその隣には綺麗に巻かれた卵焼きが2本こちらもラップをかけられておにぎりの横で食べられるのを待っていた。
「うまそう……」
思わずまた声が出た。
翌日になると熱は下がっていて、ジルバは残ったおにぎりをまた朝に食べた。昨日、冷蔵庫から取り出すとラップにメモ書きが張り付いていて、並んだおにぎりに矢印で右が梅干し、左がツナマヨと書かれていて、さらにその下には『冷凍室にアイスもあるよ』とあった。開けるとちょっとお高いアイスが入っていて、なんだかこういう時の食に対する解像度が高いな……、と感心する。
おにぎりは小さくて米に塩味が利いていてこれも美味しかった。きっとこれがあの子の手の大きさなんだな、と思うとちょっと愛おしさを感じる。
「……いや、いやいやいやあの子高校生だから」
まだ15の子だぞ。何考えてるんだ。違う違う。
違う、と言いながら荒れていた部屋を片付けてゴミを袋に押し込んでいく。そんなことをしていると、インターフォンが鳴った。
「あ、洗っておいてくれたんですか。ありがとうございます」
「いや……こっちこそありがとう。助かった」
まだ咳と鼻水は出るが、熱が下がったことで動けるようにはなってた。ミスティアは俺の言葉に子どものように笑って頬を赤らめた。
お買い物行けないと思って色々買ってきました、とエコバッグを差し出される。中には色んなレトルト食品とあと紙皿で、多分この部屋の実情を知ってだろう。余計に申し訳なくなってきた。
「昨日の分も合わせてまたレシートを渡してくれ。払うから」
「え……、まぁそう言ってもらえると嬉しいです。それよりも、いつもあんなカブトムシみたいなご飯食べてるんですか?」
「誰がカブトムシだ。普段はまだちゃんとしたの食べてるよ」
ちょっと失礼だよなこの子、でも笑った顔は本当に可愛らしい。
「でもお鍋もフライパンもないし、お米もないし、冷蔵庫空だし……かろうじてお皿とカトラリーはあったけど」
「――料理が苦手で。いや、こっちに来る前はちょっと練習したんだけど、簡単なのしかできなかったから」
そう、高校を卒業してこちらに来るまで実家で母さんにしごかれたが結局卵焼きくらい簡単なものしかできなかった。
それでも最初はまだ作ろうとしていたが、授業も多くて大変で、大学に行ったら学食もあってあまり困らないことに気付いてしまったのだ。
「大学行く日は3食学食だし、休みの日はバイトのまかないで済ましてる。流石にパンくらいは焼けるぞ」
「だから朝いっつも早いんですね。実はもしかして具合悪いのかなと思ったのもそれなんです。だから――」
「あぁなるほど」
疑問が晴れた。確かに決まった時間に出ていた人間がその通りに動かないのは不審だろう。
「それで提案なんですけど、良かったら私がご飯作っちゃだめですか?」
……
…………
「………………なんでだよ!?」
なんでだよ、なんでそうなる。
「いつもお世話になってるのにお礼もできてなくて心苦しかったんです」
世話なんてしてない。したとしたら重いもの買いたいんで手伝ってください、と言われて買い出しに手伝ったくらいだ。
「いや、でも」
「一汁一菜ですけど、ある程度のものは作れますよ」
腹の底が熱くなる。昨日食べたあのうどん、なんと出汁と砂糖分けて作られていた卵焼き、そしてあの小さくて可愛いおにぎり、あれが、毎日……!?
抗いきれない魅力に、髪をかき混ぜる。
「――夜だけ、頼めるか?」
「夜だけでいいんですか? 私毎日お弁当作ってるんでお昼も作りますよ?」
「そこまではいい。学食食うから。あと食費も出す」
「ありがたいです。じゃあ今晩はどうします?」
「しばらくはいい。まだ治りきってないし、一緒に食べて
お互いマスクしてるが、流石に食事はまずい。治り切るまではレトルトでやり過ごそう。
「でも、元気になったら今回のことのお礼をさせてくれ」
「えへへ、じゃあ考えておきます」
土鍋を持って笑ったミスティアが出ていき、少しして隣の部屋の扉が閉まる音が響いた。
「かっわいいなっ!」
ガン! と、扉を叩いて悶える。抑えきれない感情が口から飛び出した。まずい、これは非常に良くない。我慢してたのに最後のはにかんだ顔で完全に陥落した。こんなことで心を奪われるとは思わなかった。むしろ弱ってる時にアレをされて落ちない男がいるのか!?
「だめだ、また熱が出る。そうだまだ熱で頭が変になってるんだ。寝よう、うん」
無理やりそう片付けてベッドに転がった。
おまけ
◯看病(?)のお礼と言うことでふたりで映画を見ました。
飲み物を買って席に着く頃にはもう上映前の予告が始まっていた。ミスティアが見たい映画があると言ったので、2人で見に行くことにしたのだ。テレビで何度も宣伝している感動ラブストーリーだ。俺としては一月前に公開された洋画の冒険活劇の方が好みだが、この前のお礼なので俺に選択肢はない。
どうやらお互い予告もしっかり見る派のようで、まだ始まっていないのに公開予定の映画の予告が延々流れていく様を真剣に見つめた。
春に公開される子供向けアニメの予告が終わった瞬間、耳障りな音と共にスクリーンが真っ黒になった。どうやら来月公開されるホラー映画の予告に入ったらしい。原作が爆発的な人気になったのは知っていたが、その後映画化が決定していたらしい。恐怖を駆り立てる構成でも作り物とわかっているからそんなに怖くは――
「ひゃ――っ!」
隣で聞き慣れない声がした。そして小さくて温かい手が肘掛けに乗せた手に覆い被さった。
「――っ!」
(かっわいいなっほんとに!)
暗さに慣れた目がミスティアのアンバーの瞳に浮かぶ涙をとらえる。ホラー映画の予告が終わり、本編が始まったのにミスティアは上に重なった手を離さない。
(なんの拷問だこれ、え、もしかしてこれで2時間過ごすのか?)
勘弁してくれ……、もう映画どころではなくなり、結局この日見た映画の内容は何一つ頭に入ることはなかった。
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