夜明けがいちばん遠い場所

蒼乃

第一章 夜に触れる

夜の匂いが、肌にまとわりついていた。


人気のないオフィスビルの非常階段。

モップの先から立ちのぼる湿気と埃の混ざったにおいに、三崎は慣れた手つきで階段を磨いていく。


耳にかすかに響くのは、外気の風音と、空調が止まったフロアから漏れてくるわずかな機械音。

それ以外は、ただ静寂。


いつもと同じ、何も起こらない夜のはずだった。


「……っ」


微かに聞こえた呻き声に、清掃の手を止めた。

上の階からだ。耳を澄ますと、また一度、今度は少し長く、かすれた息遣いが届いてくる。


階段を数段登ると、踊り場の片隅に、男が座り込んでいた。


スーツの上着を乱して、ネクタイは緩み、顔の半分を腕で覆っている。

その傍らには、アルコール缶が転がっていた。


「……大丈夫ですか?」


三崎が声をかけると、男は顔を上げもせず、かすかに笑った。

それは返事というより、吐息に紛れた自嘲のようだった。


「……若そうなのに、こんな夜中に、清掃か」


問いかけのようでいて、答えを求めてはいなかった。

ただの独り言。

けれど、その言葉には、無意識に滲んだ優越感とも、哀れみともつかない影があった。


三崎はわずかに眉を動かし、モップの柄を握り直す。


「……あなたに、関係ありますか?」


声は静かだった。けれど、その一言には、冷たく確かな壁があった。


男がようやく顔を上げる。

夜の暗がりに浮かぶ顔立ちは、疲労と酔いのせいで陰を落としていたが、それでも整った輪郭と鋭い眼差しが印象に残った。


「ここ、関係者以外は立ち入り禁止なんで。……長居されるなら、警備に連絡しますけど」


「は?」


一瞬、酔いが覚めたような顔をした男は、軽く息を吐いた。それは苦笑とも、照れ隠しともとれる、曖昧な反応だった。


「酔ってただけだっての。いちいち、堅いな」


「だったら、他の場所で寝てください」


相手を睨むでもなく、三崎は淡々と言った。その冷たさは、酔った相手にとって、かえって骨身に染みるものだったのかもしれない。


男は数秒、三崎の顔を見ていた。

その目には、何かを探るような光があった。


結局、言い返すこともなく、無言で立ち上がる。


コートの裾が重たそうに揺れた。

ふらつきながら階段を降りかけ、途中でふと振り返る。


「……お前、名前は?」


答えなかった。


ただ静かに、踊り場の隅に置いたバケツへと視線を戻した。

無言のままモップを取り、何事もなかったかのように清掃を再開する。


その背中に、男は、しばらく視線を注いでいたが、やがて音もなく階段を降りていった。


静寂が戻る。


だが、三崎の中には、どこかに小さな波紋が残っていた。

その名前を、あえて名乗らなかったこと。名乗らなかったのに、なぜか、忘れられる気がしなかったこと。


何も変わらない夜だったはずが、いつの間にか、その輪郭はわずかに歪みはじめていた。

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