第2話 引きこもりの証言
菊理尚の住むアパートは、N市郊外の古びた建物だった。エレベーターはなく、薄暗い階段を上がった三階の奥まった部屋。廊下には湿気とカビの匂いが充満し、蛍光灯が不気味に明滅している。真島と片桐が訪問したとき、ドア越しに聞こえてきたのは、AIで編集加工された明るい女性の声だった。
「やっほ〜!カルにゃんだよ!みんな今日も元気に頑張ってこ〜!」
真島は眉をひそめた。「なんやき、あの声は?」
片桐がインターホンを押すと、部屋の中で慌ただしい物音がした。何かを隠すような、急いで片付けるような音。数分の沈黙の後、ようやくドアが僅かに開いた。現れたのは小柄で痩せこけた青年——菊理尚、二十歳。眼鏡の奥の目は血走り、肩まで伸びた髪で顔を隠すように項垂れている。
「警察の人ですか…。もしかして、兄のことで…」
2人が提示した警察手帳を交互に見つめながら、尚の声は蚊の鳴くようにか細く、恐怖に震えていた。
「菊理尚さんやねえ? お兄さんの光さんのことやけんど、ちっくと聞きたいことがあるがよ。」
「はぁ…。まぁ、どうぞ。」
尚は、2人を部屋の中へと招き入れた。
真島は部屋の中を見回した。最新のPC機器が所狭しと並び、複数のモニターが青白い光を放っている。だが、部屋の隅々に漂う異様な空気——まるで何か邪悪なものが住み着いているかのような、重苦しい雰囲気があった。
「あの…。兄のこと、本当に事故だったんですか?」尚は怯えるような目で二人を見た。その瞳の奥に、深い恐怖と絶望が宿っている。「あの場所に行くって言ったとき、僕は必死に止めたんです。でも…でも聞いてくれなくて…」
「あの場所?」片桐が手帳を取り出した。
「マガツジュゴンノミヤです」尚の声がさらに小さくなり、その名前を口にした瞬間、部屋の温度が急激に下がったような気がした。「兄は最近、その場所について調べていました。古い土着信仰の神社があった場所だって…でも、そこは…。そこは人が行ってはいけない場所だったんです」
真島は椅子に座り込んだ。部屋の空気は淀んでいるが、青年の恐怖は紛れもなく本物だった。
「その神社がどうしたがやき?」
「兄は言ってました。最近、その周辺で異変が起きてるって。誰も近づかない山奥なのに、夜中に不気味な現象が報告されているんだそうです」尚は震え声で続けた。「でも、それを調べに行った人は…調べに行った人は…」
「何じゃ?」
「みんな、空を見上げるようになるんです。そして、数日後に姿を消してしまう」
尚はPCの画面を操作し、ブラウザを開いた。画面には動画サイトのページが表示される。
「これです。三か月前にアップされた動画。でも…。見ない方がいいかもしれません」
動画のタイトルは『心霊スポット突撃!廃墟の神社で本物の霊と遭遇!?』。投稿者はゴーストハンター田中というハンドルネームで、サムネイルには派手な髪型をした軽薄そうな青年が写っている。
動画が再生される。最初は他愛のない雑談から始まったが、田中が山道を歩き始めると、画面の雰囲気が一変した。
『どうも〜!ゴーストハンター田中でっス!今回は超ヤバイ心霊スポットに突撃しちゃいます!マガツジュゴンノミヤっていう、地元の人も絶対近づかない場所らしいです!』
田中の声は明るいが、画面越しでも感じられる異様な空気があった。
人気のない山道を進む。懐中電灯の光が揺れるたび、木の間に何かが見えた気がした。
『うわ、この雰囲気ガチでパネェ〜。でも俺はゴーストハンター!ビビらずにみんなのために行くぜ〜!』
やがて森の奥に朽ち果てた鳥居が現れる。その瞬間、動画の音声に微かなノイズが混じり始めた。
『これがマガツジュゴンノミヤの入り口!ガチで不気味なんですけど〜…。あれ?なんか変な感じが…』
田中も異変に気づいたようだ。懐中電灯で辺りを照らすが、光が届く範囲に異常は見当たらない。しかし、画面を通してでも感じられる不穏な気配が濃くなっていく。
鳥居をくぐり、崩れかけた石段を上がっていく。やがて半壊した社が見えてきた。
『おお、これがマガツジュゴンノミヤってやつッスか!ガチ怖え〜!早速中に入ってみましょう!』
社をずかずかと土足で踏み込んだ瞬間、空気が変わっ
湿った土の匂いと、長く締め切られていた木の匂いが鼻をつく。
足を進めるたびに、板の間がギシリ…ギシリと軋む。
最奥。
そこに、しめ縄で厳重に封じられた観音開きの扉があった。
その手前に、何かが――こちらを向いて、鎮座していた。
『……像、か……?』
懐中電灯の光を向ける。
浮かび上がったのは、祭壇の上に鎮座している拳ほどの石像。
その全身には、びっしりと細かい文字のようなものが刻まれていた。
読めない。しかし、それが“書”ではなく“封”のような意味を持つと、本能が告げていた。
『…。こ、これがもしかして御神体ってやつ?ショボくない?こんなのが怖いとか、ウケるんですけど〜』
田中は引き攣った笑みを浮かべ、カメラの前で無理に虚勢を張っていた。
祭壇から御神体を取り上げると、ためらいもなく、それを地面に叩きつけた。
石の像は、乾いた音を立てて砕け散った。
その瞬間——
動画の画面が一瞬ブラックアウトした。音声も途切れ、数秒間の完全な静寂が流れる。そして画面が戻ったとき、今までヘラヘラ笑っていた田中の表情は一変していた。
『え?なに?何この感じ…』
田中の声は震え、懐中電灯を持つ手がガタガタと震えている。画面が空を映したとき、真島は息を呑んだ。
雲が渦を巻くように集まり、明らかに人間の頭蓋骨の形を作り始めているのだ。
『やばい、やばいって!何これ、ガチでやばい!』
田中の声は完全に恐怖に支配されていた。髑髏の雲は完全に形を成し、その眼窩の部分から何かがじっと見下ろしているようだった。
動画はそこで途切れている。
「この配信者、本名は田中圭っていう男なんですが」尚は震え声で続けた。「動画をアップした翌日に失踪して、三日後にM山の電波塔で見つかったんです。避雷針に腹を貫かれて…」
真島と片桐は顔を見合わせた。田中の事件は彼らが三か月前から捜査している連続変死事件の最初のケースだった。
「やはりか」真島は呟いた。
「この顔、見たことある気がしちょったがよ。田中圭の事件から始まっちょったがやねえ」
「兄はこの事件と最近の連続失踪事件に関連があると考えて、現地調査に向かったんです」尚は涙ぐんでいる。「僕は止めたのに…危険だから行くなって…」
「菊理さん」片桐が優しい声で尋ねた。「お兄さんが最後に連絡してきたのはいつですか?」
「三日前の夜です。『マガツジュゴンノミヤに着いた』ってメッセージが来て…その後、あの写真が送られてきました」
尚は自分のスマートフォンを操作し、受信した画像を表示した。それは兄の携帯から送られてきたものと同じ頭蓋骨の雲の写真だった。
「兄は最後に『すまない。お前が正しかった』って送ってきました。でも、その後は…」
真島は立ち上がった。科学的な説明のつかない現象。だが、事実として人が死んでいる。そして、その死に様は常軌を逸していた。
「片桐。このマガツジュゴンノミヤの場所、突き止めるぞね。現地調査が要るがやき。」
アパートを後にした真島は、無言で運転席に座り、ロリポップを口に放り込んだ。
「現地調査って…。真島さん、まさか本当に行くんですか?」
助手席に座った片桐の顔は青ざめていた。
「当たり前やがやき。犯人がそこにおるかもしれん。」
真島は強がってそう言ったが、内心では──
動画で見た“髑髏の雲”が、脳裏に焼き付いて離れなかった。
部屋を出る間際、尚が最後に呟いた言葉が、今も耳に残っている。
「警察の人でも…。きっと無理です。あの場所には、人間の力じゃどうしようもない“何か”がいるんです。僕も──いずれ…」
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