空に在る

ナベッチ

第1話 浮かぶ死体

 秋の訪れを感じさせるような青空だった。

しかし、清々しいはずの朝の空気はどこか異様で、空気の粒のひとつひとつが肌にべったりと張り付き、耳の奥で小さく何かを囁いているような気がした。

――そんな朝だった。


 湖面に男の遺体が浮かんでいるのを最初に見つけたのは、管理事務所の職員だった。通報を受けてすぐに駆けつけた若い警官も、現場のあまりの凄惨さに言葉を失った。膝が震え、顔は見る見るうちに青ざめていく。必死に口を押さえながら今にも吐きそうな様子でその場からよろよろと離れ、ついには駆け出すように走り去っていった。

 死後三日は経過しているはずなのに、死体の顔に刻まれた恐怖の表情は生々しく、まるで今なお何かに怯え続けているかのようだった。

「また、か」

真島祐介警部は舌打ちをしながら、ロリポップを口の端に移した。サイダー味の甘さが、現場に漂う死の匂いを僅かに和らげてくれる。四十三歳、刑事歴二十三年。この三か月で七件目の変死体だった。そして、どの死体も同じ表情をしていた——言葉にできない恐怖に支配された、人間が生きながら地獄を見たような表情を。

「真島さん、被害者の身元が判明しました」片桐一警部補が手帳を片手に駆け寄ってくる。二十七歳の若い刑事の顔色は青白く、現場の異様な雰囲気に飲まれそうになっていた。「菊理光さん、三十五歳。フリーのオカルトライターです」

「オカルトライターかえ?」真島は眉をひそめた。「また胡散臭い職業やねえ」

死体は水から引き上げられ、検視が始まっていた。顔面は恐怖に歪み、眼球が今にも飛び出しそうなほど見開かれている。瞳孔は異常に拡張し、その奥に映っているのは虚無だった。まるで魂が抜け落ちてしまったかのような、空っぽの眼差し。口は無言の絶叫を形作ったまま硬直し、唇の端から黒い液体が垂れている。

「真島さん、これを」

片桐が証拠袋に入ったスマートフォンを差し出した。画面は蜘蛛の巣状に割れ、金属製の本体は人の手では不可能なほど激しく変形している。「手にはスマートフォンを(死後硬直にしては異常なほど)かたく握り締められていました。指が…食い込んでいるんです」

確かに、死体の指は端末に深く食い込み、爪の部分は完全に剥がれ落ちていた。最後の瞬間まで、何かに必死にすがりついていたのだろう。

「こりゃあ、相当な握力やねえ」真島は証拠袋を透かして見た。

「鑑識によると、データの一部が復旧できるそうです。最後に受信したメッセージが…」片桐は言葉を濁した。「かなり不可解な内容で」

「どんなメッセージやき?」

「『マガツジュゴンノミヤ』というテキストと、添付された画像です」片桐は別の袋から印刷された写真を取り出した。その手が小刻みに震えている。「この写真を見た鑑識官が一人、気分が悪くなって…」

写真には空に浮かぶ雲が写っていた。だが、それは自然界の法則を完全に逸脱した異形の雲だった。人間の頭蓋骨を精巧に模した形状で、眼窩と鼻腔の部分は不気味なほど深く窪んでいる。そして最も恐ろしいのは、雲の表面に無数の人の顔が浮かんでいることだった。苦悶に歪んだ表情、絶望に満ちた眼差し、無言の叫び——まるで雲そのものが、数え切れない魂の集合体であるかのように。

真島が写真を見つめていると、奇妙な感覚に襲われた。頭蓋骨の眼窩の奥から、確実に何かがこちらを見返している。視線が絡み合った瞬間、頭の奥で鈍い痛みが走った。

「うっ」真島は慌てて写真から目を逸らした。額に冷や汗が浮かび、心拍数が異常に上がっているのを感じた。

「真島さん、大丈夫ですか?」

「なんでもない」真島はロリポップを噛み砕いたが、口の中に広がるはずの甘さが、なぜか鉄錆のような味に感じられた。「とにかく、こりゃあ連続殺人事件じゃ。必ず犯人を見つけ出さんといかん」

「真島さん、死因についてですが」検視官が血相を変えて駆け寄ってきた。三十年のキャリアを持つベテランの顔に、今まで見たことのない恐怖が浮かんでいる。「これは…医学の常識を完全に覆しています」

「どういうことやき?」

「外傷は皆無です。溺死でも毒殺でもない。心臓、脳、内臓すべて正常。しかし…」検視官の声が震えた。「全身の骨が原形を留めないほど粉砕されています。まるで数百メートルの高所から落下したような損傷なのに、皮膚には擦り傷一つない。そして…」

「そして?」

「骨髄が完全に消失しています。骨は粉々なのに、骨髄だけが跡形もなく消えている。さらに、血液の成分が…」検視官は言葉を詰まらせた。「通常の三倍の濃度になっています。まるで体内の水分が何かに吸い取られたかのように」

真島の背筋を氷のような恐怖が走った。科学で説明のつかない死因。そして、あの頭蓋骨の雲に映っていた無数の顔。

「片桐、このマガツなんちゃらについて、徹底的に調べいや」

「はい。それと、被害者には弟がいます。菊理尚、二十歳。引きこもりがちですが、兄の最期について何か知っているかもしれません」

 真島は再び空を見上げた。いつもと変わらない空がなぜか不吉に見えた。そして、視界の端で一瞬、雲が頭蓋骨の形に見えたような気がして——

慌てて視線を戻すと、そこには何の変哲もない雲があるだけだった。だが、心の奥で警鐘が鳴り続けていた。この事件は、人間の理解を超えた何かが関わっている。

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