第2話「禁断の血」
【前回までのあらすじ】
本土帰還前夜、桐人とスニク様は屋敷の地下で信じがたい光景を目撃する。白夜の一族の掟を破り、拉致した少女の血を求める短毛丸と、苦悩の末に息子に従う忠清。スニク様の怒りは頂点に達し、瑠璃色の光と共に、その身を白銀の毛並みを持つ美しいテンの姿へと変えたのだった。
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白い閃光が、地下室の闇を切り裂いた。
スニク様が化した白銀のテンが、床を蹴って短毛丸に襲いかかる。
その動きは、もはや目で追うことすらできない。
鋭い金属音が地下室に響き渡り、短毛丸が素手で受け止めたスニク様の爪が、激しい火花を散らした。
「ぐっ!」
短毛丸は衝撃に耐えきれず、石の床に深い足跡を刻みながら数メートルも後退させられる。
その顔には、初めて見る焦りの色が浮かんでいた。
「なんだよ、この力は……!」
スニク様の両前足が、まるで残像を伴うかのように嵐の如き連撃を繰り出す。
研ぎ澄まされた爪は双剣の如く空を切り裂き、その軌跡が瑠璃色の光となって闇に美しい模様を描く。
それは死の舞踏。
一撃一撃が必殺の威力を持ち、石壁に当たれば深い溝を刻み、床を抉る。
短毛丸は必死に防御するが、その屈強な体に少しずつ、しかし確実に傷が増えていく。
「ちっ、化け物が……!」
短毛丸の悪態に、スニク様の瞳がさらに冷たく光った。
俺も忠清と対峙していた。
腰の打刀に手をかけ、鞘から抜き放つ。瑠璃色の光を反射した刃が、地下室の薄暗がりの中で鈍く光る。
「桐人!」
スニク様の鋭い声が飛んだ。短毛丸との激闘の最中にも、俺への注意を怠らない。
「忠清を殺してはならぬぞ!」
(え?)
一瞬、理解が追いつかなかった。敵を前にして、殺すなとは。
「手足を斬り飛ばすくらいは構わぬが、とどめをさすでないぞ!」
「其方がこれ以上吸血鬼を殺せば、取り返しのつかぬことになるやもしれん」
そうか、俺の吸血鬼化が——
血脈の継承者の宿命。
吸血鬼を倒せば倒すほど、自分も吸血鬼に近づいていく。
スニク様は、俺がその一線を越えることを恐れているのだ。
「わかったぜ!」
俺は刀を構え直した。殺さずに無力化する。言うは易しだが、相手は数百年を生きた吸血鬼だ。
「桐人様、私も本意ではございません」
忠清が静かに刀を抜いた。
その動作は流麗で、無駄が一切ない。型など超えている。
ただ“斬る”という一点に研ぎ澄まされた構えだった。
「だが、短毛丸は私の息子。親として——」
忠清の声に、深い苦悩が滲んでいる。
「息子だから何をしても許されるってのか!」
俺の叫びと共に、二つの刀が激突した。
火花が散る。衝撃が腕を通じて全身に伝わる。
(強い……!)
忠清の剣技は洗練されていた。無駄のない動き、的確な間合い。
数百年の経験が、その一振り一振りに込められている。
俺の成長した身体能力でなければ、とても太刀打ちできない。
いや、それでもギリギリだ。
斬撃の応酬。金属音が連続して響く。
俺は必死に忠清の剣を受け流し、隙を窺う。
一方、スニク様と短毛丸の戦いは激化していた。
「どうした短毛丸!貴様の力はその程度か!」
スニク様が挑発するように吼える。
その声には、失望と怒りが入り混じっている。
白銀の体が宙を舞い、短毛丸の頭上から急降下する。
120センチという大型のテンの体重を活かした攻撃は、まるで白い隕石のようだった。
重力を味方につけた両前足の爪が、凶器と化して振り下ろされる。
短毛丸は横に転がって回避したが——
スニク様の爪が、短毛丸の左肩を深く抉った。
「がああっ!」
肉が裂け、骨が見えるほどの深手。
血が噴水のように吹き出し、石の床を赤く染める。
短毛丸は壁際まで追い詰められていた。
背中が石壁に付き、逃げ場がない。
その顔に焦りの色が濃くなる。呼吸は荒く、全身から汗が吹き出している。
そして——
その視線が、チラリと部屋の隅で転がされている少女に向けられた。
(まさか……)
嫌な予感が走る。あの少女の血を吸えば、形勢逆転できると考えているのか。
「考えておることは分かっておるぞ、短毛丸」
スニク様の声が、さらに低くなった。
地獄の底から響いてくるような、恐ろしい声。
「その娘の血を吸えば、勝機があると思うておるな?」
短毛丸の動きが一瞬止まる。図星を指されて、どう反応すべきか迷っているようだ。
「へへ……バレバレかよ」
短毛丸が血まみれの口元を歪めて笑った。
その笑みは、もはや人間のものではない。獣の、いや、それ以下の何かだ。
「でもよ、このままじゃ——」
スニク様の爪が、短毛丸の頬を掠めた。鋭い風切り音と共に、頬に新たな傷が刻まれる。
「ぐあっ!」
また壁に叩きつけられる短毛丸。
まだ少女からは距離がある。
五メートルはあるだろうか。
短毛丸の超人的な脚力をもってしても、スニク様の隙をついて到達するのは困難に見える。
その時だった。
「桐人!」
スニク様の声が響いた。戦いながらも、状況を完全に把握している。
「その娘を殺せ!」
(え……?)
時間が止まったような感覚に陥った。
殺せ? あの無実の少女を? 俺が?
「短毛丸が立ち直る前に、その娘を殺すのじゃ!」
スニク様の命令は、容赦なく俺の心を抉る。
俺の手が震えた。刀を握る手に、冷たい汗が滲む。
振り返ると、少女は恐怖で震えている。
制服は泥だらけで、涙でぐしゃぐしゃになった顔。
セーラー服の胸元には学校名の刺繍——
きっと修学旅行か何かで沖縄に来て、攫われたのだろう。
猿轡の向こうから、必死に何かを訴えようとしている。
その瞳が、俺を見つめている。
助けて、と言っているような、哀願するような瞳。
(殺せ……だと?)
(目の前の命を奪って、それで正義だと言えるのか? 本当に誰かを救ったと言えるのか?)
「何を迷っておる!」
スニク様が短毛丸を壁に押し付けながら叫ぶ。白銀の体から、怒りのオーラが立ち上る。
「純潔の血は吸血鬼を異常に強化する! 特に十六から十八の生娘の血はな! 短毛丸がその血を吸えば、妾でも手に負えなくなるやもしれん!」
理屈は分かる。頭では理解できる。
この少女一人の命と、短毛丸が強化されて殺すであろう多くの命。
単純に数だけ比べるならば、答えは明白だ。
「そんなこと言われても……!」
俺の声が震えた。
少女の瞳と目が合った。
恐怖に震えながらも、まだ生きたいという意志が宿っている。
まだ希望を捨てていない。俺が助けてくれると信じている。
(こんな子を……俺が殺すのか?)
「躊躇うな!その娘一人の命と、これから短毛丸が殺すであろう何百、何千の命を天秤にかけよ!」
スニク様が短毛丸を牽制しながら、俺の方にじりじりとにじり寄る。
スニク様の言葉が、鋭く心を抉る。正論だ。完璧な正論だ。
でも——
(できない)
俺の中で、何かが激しく抵抗していた。
理性は「殺せ」と言っている。これが最善の選択だと。
でも、心が、魂が、それを拒絶している。
刀を握る手に、力が入らない。足が、前に進まない。
その時、突然、地下室の空気が粘性を帯びて重くなった。
「へへへ……とっておきを使わせてもらうぜ」
壁際に追い詰められていた短毛丸が、血まみれの顔で不気味に笑う。
その両手から、黒い霧のようなものが立ち上り始めた。
「永劫の夜より響くは、断絶の鎖」
呪文の詠唱が始まった。
その声は、地の底から響いてくるような不気味な響きを持っている。
(なんだ……?)
空気が重くなる。まるで水の中を動いているような、粘りつくような感覚。
「抗いも逃れも許さぬ停滞の律」
短毛丸の周囲に、黒い紋様が浮かび上がる。
それは鎖のような形をしており、虚空に浮かんでいる。
「汝が時よ、昏き淵に沈め」
詠唱と共に、黒い鎖の幻影が増えていく。
地下室全体が、見えない鎖で満たされていくような錯覚。
「まずい!」スニク様の声に焦りが滲む。
「《闇夜の枷鎖(あんやのかせ)》!」
短毛丸が叫んだ瞬間、影でできた無数の鎖が、俺とスニク様の体に絡みついた。
直接触れているわけではないのに、全身に見えない重りを付けられたかのような、圧倒的な重圧がのしかかる。
「ぐっ……体が、重い……!」
まるで重力が倍になった中を動いているようだ。スニク様の動きも、明らかに鈍くなっていた。
「へへ、これで少しは楽になったぜ」
形勢が逆転したことを確信し、短毛丸の視線が俺に向けられた。
「邪魔なんだよ、偽善者が!」
その言葉と共に、短毛丸の姿が目の前から消えた。
呪文で動きが鈍った俺には、反応することすらできない。
「がはっ!」
脇腹に、鉄槌で殴られたかのような強烈な衝撃。
鈍い音を立てて、俺の肋骨が砕ける感触があった。
体は宙を舞い、為す術もなく背中から石壁に叩きつけられる。
「ぐあああっ!」
激痛で視界が赤く染まり、呼吸ができない。
折れた肋骨が肺に突き刺さったかのように、息を吸うだけで意識が飛びそうになる。
痛みと呪文の二重苦で、指一本動かせなかった。
「申し訳ございません、桐人様」
遠のく意識の中、忠清の声が聞こえる。
彼は、恐怖に震える少女を抱え上げると、ゆっくりと短毛丸の元へと運んでいく。
(やめろ……)
声にならない叫びが、喉の奥で空しく響く。
少女の瞳が、俺を捉えていた。助けを求めるように、必死に。
(ごめん……俺は……守れない……)
無力感が、俺の心を完全に折り砕いた。
「短毛丸!」忠清が叫ぶ。「今だ!」
「へへへ……待ちかねたぜ!」
短毛丸の目が、餓えた獣のように獰猛に光った。
彼は少女の白い首筋に顔を埋めると、その牙を深く、深く突き立てた。
「いやああああっ!」
少女の絶叫が、地下室に木霊する。
俺は、その地獄絵図をただ見ていることしかできなかった。
少女の桜色だった頬から急速に血の気が失われ、ふっくらとしていた肌が萎んでいく。
まるで美しい花が、根から命を吸い尽くされて枯れていくように。
やがて、少女の体がぐったりと力を失う。
その最後の瞬間、彼女の瞳がもう一度、俺を見た。
そこにはもう、助けを求める光はなかった。
ただ、深い、深い諦めだけが、その瞳の奥に静かに宿っていた。
ごめん。ごめんなさい。俺は涙を流しながら、心の中で何度も謝り続けた。
少女の瞳から光が消え、その体は干からびたミイラのように床に崩れ落ちた。
彼女が人間であった証は、泥に汚れた制服と、胸ポケットから覗く小さなキーホルダーだけだった。
「ははははは! やはり純潔の血は格別だ! 力が、力が湧いてくる!」
短毛丸が狂喜の声を上げる。少女の血を吸った彼の体は、見る見るうちに変化を遂げていた。
深手だった傷は瞬時に塞がり、筋肉が異常なまでに隆起し、体が一回りも大きくなる。
その姿はもはや、俺が知る短毛丸ではなかった。
「今の俺なら、お前にも勝てるぞ、白テン!」
新たな力を得た化け物が、スニク様に向かって、獰猛な笑みを浮かべた。
「桐人、秀豊に知らせるのじゃ、ここは妾がおさえる」
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