“当たってますよ”から、恋になった。

凪野 ゆう

第1話 「その胸、当たってますよ」

「……あ、すみません」

患者さんの右奥歯を処置しているとき、

不意に胸元が頬に触れてしまった。

ピンクのスクラブ越しに感じた、わずかな接触。

すぐに姿勢を正して、平然を装ったけれど――

(今の、気づかれた……?)

不安になってそっと目をやると、

その男性は目をつむったまま、何も言わなかった。

でも、その頬がほんの少し、赤く染まっていた。

(やっぱり……当たってたよね)

いつもなら、そんなことはすぐに忘れて、

次の患者さんへと気持ちを切り替えられる。

だけど今日は、なぜか胸のあたりがソワソワしていた。

**

「おつかれさまー、由紀さん。

なんか今日、顔赤くなってません?」

後輩の川崎彩音ちゃんに指摘され、慌てて鏡をのぞく。

「……そう? そんなことないよ、たぶん」

なんでもないフリをしながら、内心はドキドキしていた。

(あれは……偶然だよね。

私だって、わざと当てたわけじゃない)

でも、もし“わざと”だったとしたら……?

そんな想像をした自分に、思わず頬が熱くなる。

**

次の日も、その男性はやってきた。

倉田 遼さん。

少し年上で、無口で落ち着いた雰囲気の人。

予約表に書かれた名前を見た瞬間、

指先に力が入っていることに気づいた。

(あの人……今日も来るんだ)

ユニットに通された倉田さんは、いつも通り静かに座った。

「じゃあ、クリーニングから始めますね。

少し顔を右に向けてください」

自然な動作のはずなのに、手が、背中が、少し震えていた。

(……また、当たったらどうしよう)

そう思ったのに――

気づけば私は、わざと身体を深く沈めていた。

彼の頬に、自分の胸がふわりと触れる角度で。

**

「……由紀さん」

処置を終えて、器具を片づけていたとき、

倉田さんがふいに名前を呼んだ。

「……はい?」

「その……今日も、ありがとうございました」

「いえ、こちらこそ……」

沈黙のあいだ、私は呼吸するのがやっとだった。

(“今日も”って、どういう意味?

何か、気づいてるの?)

なにも言わずに帰っていった彼の背中を見送りながら、

私は自分の鼓動が早くなっていることに気づいた。

(なに、これ……)

ドキドキする。

顔が熱い。

だけど、不快じゃない。

むしろ、もっと……触れていたかった。

**

その夜。

湯船に浸かりながら、思い出していたのは――

治療中、彼の頬に触れたときの、

あのわずかな柔らかい反応。

彼の体温。

そして、私の胸元を通して伝わってきた、

確かな“気配”。

(また、明日も……来てくれたらいいな)

そう思ったとき、

私はもう“その感覚”を、忘れられなくなっていた。

それはまだ、「フェチ」という言葉になる前の、

ひそやかな、目覚めだった――。


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