第16話 「行き止まりの、その先は」
空を見上げながら、ゆっくりと通りを歩く。
夕暮れの赤が、静かに町を染めていた。
提灯が少しずつ、ぽつぽつと灯っていく。
どこかで、ぱち、ぱち、と焚き火が鳴っている。
目の端を、何かが通りすぎた。
背中に風船をつけた子どもが、提灯の下を駆けていく。
提灯の光が髪に跳ねて、足音と笑い声が弾けた。
その後ろから、ざわざわと音が押し寄せてくる。
太鼓。笛。歌声。
思い思いの音が、道を連なる屋台と、遠くのやぐらを浮かび上がらせていた。
──あれ。いつの間に、こんなに賑やかになっていたんだろう。
ぼんやりと、遠くのやぐらを見つめる。
そういえば、今日は祭りなんだっけ。
確か、ティナさんが、そんなことを言っていたような──
「ティナさんの屋台は、通りを抜けた先の広場にあるようです」
ザズが、俺の隣でそう言った。
「……おう……」
俺の口が、勝手に返事をしていた。
足が、人の流れに合わせて動いている。
両脇をすり抜ける甘い匂いと、焦げた油のにおい。
祭りの熱気も、音も、匂いも──すべてが、透明な膜に隔てられている感覚。
……俺の時間は、あの時から、まだ動けていないみたいだった。
何もなくなった、あの場所。
枯れた苔。ひび割れた土。
リクガキの群れがいた、はずの場所。
なのに。
気づけば、世界はもう、次に進んでいた。
何事もなかったみたいに、世界は──こんなにも、変わらない顔で、今日を祝っていた。
──ダメだ。
これ以上、この熱の中にいたら、何かが壊れてしまいそうだった。
わらを掴むように、人混みの中に知った顔を探す。
遠くに、ダリオさんやティナさんの姿が見えた。
彼らは大きな盃を掲げて、腹の底から笑っていた。
その笑い声が、ガラスの破片みたいに胸に突き刺さった。
「──悠真さん。汗がすごいですよ。……熱中症の初期症状です。冷蔵庫の野菜室へ避難しましょう」
……俺は、食材か。
額を拭うと、手が、冷たい汗でじっとりと濡れた。
声は出なかったけど、ザズが声をかけてくれたことで、少しだけ安心できた。
そういえば、ティナさんに「遊びに来てね!」って言われてた。……けど。
正直──いまは無理だ。
「……ザズ、ちょっと休むか」
足を止めて、人混みから少し離れる方向へ歩き出す。
あの賑やかさは、いまの俺には受け止めきれない。
通りの裏側へ周り、木にもたれかかって息をつく。
屋台の裏手は、熱気の裏返しみたいにひんやりしていた。
提灯の光も、人々の声も、どこか遠くで、ぼんやりと揺れていた。
「……俺、どうすりゃいいんだろうな」
あの日以来、ずっと、みんなとどう接したらいいのかわからない。
答えなんて出るはずないとわかっていても、口をついて出た言葉だった。
なにかを求めるように、視線が薄暗い広場をさまよう。
そして──気づいた。
祭りの熱から、ほんの少しだけ距離を取るように、
一本の大きな木の下で、誰かが立っていた。
「リッテルアさん……?」
やぐらの下で弾ける音も、笑い声も、
彼女のいる場所だけは、まるで音のない絵の中みたいに見えた。
彼女は、祭りの喧騒を、どこか遠くのもののように見つめていた。
それだけなのに、不思議と目が離せなかった。
あの夜の声が、ふいによみがえる。
──「努力して、頑張って、必死に結果出して……なにか良いこと、あったのかしら?」
もしかして彼女も、あの輪の中には入れない人なんじゃないか。
──「私、スキル使えないのに」
あの、諦めたような声と、苦笑いの横顔。
……そうかもしれない。
彼女も、この熱の外で、立ち止まっていたのかもしれない。
「リッテルアさ──」
仲間を見つけたみたいに、俺は、声をかけようとして──立ちすくんだ。
彼女は、一人じゃなかった。
気づけば、彼女のまわりには人の輪ができていた。
子どもたちが、彼女のそばをくるくると駆けまわり、
討伐員らしき若者が、すれ違いざまに軽く手を上げる。
彼女も、それにさりげなく頷き返していた。
その笑顔が、焚き火の灯のように穏やかで。
彼女は、この祭りの「外」なんかじゃなかった。
むしろ──「中心」だった。
その現実に、言葉をなくして、
俺は、ただ、立ち尽くすしかなかった。
リッテルアさんが、ふと、こちらを見る。
しばらく俺を見つめた後、少し笑って、小さくため息を吐いた。
軽く首を傾けて、子どもたちに目配せを送る。
小さな笑い声が散って、輪が広がった。
その隙間を縫うように、彼女が一歩、こちらへ向き直った。
ほんの一瞬、言葉を選ぶように、空を見上げて──
「『無理して来ました』って顔に書いてあるわよ」
笑っているのに、ちゃんと刺さる。
──いつもの彼女の声だった。
「……そう、見えますか」
驚くほど、自然と、言葉が出ていた。
どうしてだろう。
この人の言葉は、いつも、俺の痛いところにだけ優しい。
「そりゃね。……手に取るようにわかるわ」
リッテルアさんは、ゆっくりと頷いた。
少し、笑って。少し、寂しそうに。
「……怖くなっちゃったんでしょ。自分が、なにかを壊した気がして」
その言葉に、胸の奥を撫でられたような気がした。
図星だった。けど、怒る気にはなれなかった。
「──なんで、わかるんですか」
リッテルアさんは、ふっと視線を逸らして、
遠くのやぐらの灯を見つめた。
「……わたしも、ずっとそうだったから」
その言葉に、驚いて顔上げる。
彼女は、通ってきた道を振り返るように、静かに笑っていた。
「……なんかね、どこにも行っちゃいけないような気がしてたの。
踏み出した先に、また“何もない”って思うのが、怖くて」
「ずっと、って……」
言いかけて、言葉が途切れる。
リッテルアさんの横顔が、焚き火の灯に照らされていた。
まるで、風の中で瞬いているみたいだった。
……じゃあ、どうして今、
彼女はこんなふうに、笑っていられるんだろう。
なんとか絞り出した声に、リッテルアさんはすぐには答えなかった。
夜風に身をゆだねるように、遠く空を見ていた。
「──でもね」
そう言って、彼女はくるりと踵を返す。
そして、やぐらの方へ向き直り、片手を──まるで空に合図を送るみたいに──高く掲げた。
「先輩として教えておいてあげる」
彼女の手が、空に掲げられた、その瞬間──
ドンッ。
ドンッ、ドンッ──!
太鼓の音が、空気を叩いた。
地面が揺れるほどの音が、やぐらの上から響いてくる。
周囲の提灯に、次々と明かりが灯っていく。
裏手の薄暗い通りが、一気に色づいた。
光が広がり、陰の中にいた俺たちも、そっと照らし出されていく。
続いて、笛の音が跳ねるように走った。
手拍子が響き、足音が地面を鳴らし始める。
熱が、波のように押し寄せてくる。
リッテルアさんは、その光と音のすべてを背負って、顔だけでこちらを振り返った。
笑っていた。
「死んだように歩いたって、朝は勝手に来るのよ」
リッテルアさんが、走った──
背中に、帯の端がふわりと浮かぶ。
屋台の灯りが、彼女の髪に跳ねて流れていく。
やぐらの下、踊りの輪の中心──
彼女がそこに滑り込んだ、その瞬間。
「──ハッ!」
一際高く、彼女の鋭い掛け声が響いた。
空気が震える。
「ヨイ、ヨイ、ヨイヤサーッ!」
群衆の声が、夜空に跳ね上がった。
一斉に動き出した身体が、音と光をまとって回り始める。
まるで、世界そのものがリッテルアさんに応えたようだった。
音と光の渦の中で、俺は、ただ目を奪われていた。
太鼓の音を聞きつけて、町の人が集まってきていた。
誰かが走り、誰かが笑いながらやぐらのまわりに滑り込む。
輪ができて、音に合わせて身体が動き始める。
誰かが先にいて、誰かがそこに混ざっていく。
リッテルアさんの背中が、音の渦の中で跳ねていた。
ただ楽しそうに、ただ懸命に、世界と息を合わせていた。
その姿が、不思議と、俺の中の何かを揺らしてくる。
──いつの間にか、そこに、俺と世界を隔てていた壁はなかった。
なんでだろう。
熱が、体に染み込んでくる。
ただ賑やかなだけの音じゃない。
押し寄せてくるだけの光じゃない。
……この輪の中に、混ざれたら、いいのに。
そのときだった。
「悠真!」
人混みの向こうから、名前を呼ばれた。
「踊るわよ!」
リッテルアさんの声が、人混みのざわめきを突き破って、俺に届く。
やぐらのすぐそばで、彼女はこっちを振り返りながら、片手を高く掲げていた。
もう、踊りの中心にいるのに。
まるで、俺の手を引きにきたみたいな顔で。
「いや、そう言われても……振りがわからない……!」
思わず口に出ていた。
身体が反応しかけて、でも足が止まる。
無理だ、俺にはできない──
知らない場所で、知らない踊りで、知らない人たちと。
そんな輪に、飛び込むなんて。
「そんなもん、適当でいいのよ!」
リッテルアさんは笑って、ステップを踏みながら身振りで応えてくる。
こっちに手を振って、ほら、来なさいって言うみたいに。
「でも、俺……!」
わからない。
できる気がしない。
怖い──いや、なにが?
この輪の中に、入ることが?
それとも、踏み出して「何もなかったら」って、また思うのが?
「悠真!」
その声が、もう一度、強く届いた。
「どうしたいの!? 心の声を聞け!」
……心の、声。
自分でも驚いた。
その言葉に、勝手に足が一歩、前に出ていた。
その一歩に、どんな意味があるかなんて、わからないのに。
でもいまは──そんなことどうでもよかった。
輪が、回っていた。
笑い、転び、手を貸し合って、また回る。
色とりどりの音が、夜の空気に重なっていく。
「動きの正確さは……正直に申し上げて、壊滅的でした」
「うるさいな。こっちは必死だったんだよ」
「でも、楽しかったなら、それでよろしいのでは?」
……そうかもしれない、なんて思った。
祭りの音はまだ、遠く、響いていた。
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