第5話「ナクセリ討伐局・受付係―もとい。守護者リッテルア」

ギルドの扉を前に、俺は立ち尽くしていた。


――引き返せ。


そんな警告めいた声が、頭の奥で渦を巻く。

足が縫い留められたように動かない。


そこへ、荒い声が近づいてきた。条件反射で半歩、後ずさる。


バンッ。


木製の扉がはじけるように開き、装備を着けた男女三人が飛び出してきた。


「やってらんねぇっての!」 「てか、あの様式変更マジ何!? 」 「リーダー、どこ行ったし!」


俺の存在など見えていないらしく、肩がかすめる勢いですれ違っていく。


……やばい所に来たかもしれん。


バクバクする心臓を抑えながら、恐る恐る中をのぞく。


その瞬間、いくつもの鋭い視線が突き刺さって、慌てて目をそらした。


「……なあ、今から帰るって選択肢、ある?」


「もちろんありますよ。ただ──この町で日銭を稼げそうな場所が、他に見当たりません」


「……そうかよ」


ギルドの中は、先ほどの怒号が嘘のように静まり返っていた。


張りつめた空気の中、青いホログラム――“光帳(ひかりちょう)”と呼ばれるそれを睨むように操作する人々。


乾いたインクの匂いが鼻をかすめ、紙をめくる音が、耳の奥でしつこく残響していた。


ただ事じゃないだろこれ……。俺、絶対歓迎されてない。


思わず踵を返しかけたその時、空気を裂く声が場を揺らした。


「──お待たせ、次の人!」


決して大きくはないのに、耳に残る、透き通るような声だった。


同時に、歯車が一斉に回り始めたように、人々が動き出す。


「奉納報告は昨日と様式が違うわ! “品質改善案”の記入様式は机の上! 0.5刻み、そこで止めると撥ねられるから!」


「……大丈夫、それで通る。次の人!」


「ん? それ違う報告書。明日用だよ。今日の分は手前の引き出し!」


「“再発防止案”はチェックだけでOKにしてある! ここ、ここ、ここ──あとは転写して!」


──火花みたいだ。


赤い光が走ったような、一瞬、何かが爆ぜたような錯覚。

薄琥珀の瞳と赤い髪が、光に切り取られて、頭の奥に焼きついた。


声の主――机の向こうの女性は、左手で光帳を打ち込み、右手で紙の帳票に走り書きし、視線は絶えず次の焦点を捉えていた。


あらゆる動きが連動し、一人の動作とは思えないほど、滑らかで、それでいて鋭い。


気がつけば、俺の周りもざわついていた。


……聞こえてきた断片から察するに、何かが昨日と変わったらしい。


「また様式変更? 今日は配置変更もあるんじゃないの? 奉納局、正気かよ……」


「朝イチで出せって言うくせに、朝イチで指示出すなよな。もう1時間無駄にしてんだけど」


誰かのぼやきに、すかさず「同感!」の声が返る。


なるほど。混乱の理由はひとつじゃなさそうだ。


……ここホントに討伐者ギルド? 愚痴に親近感ありすぎて逆に怖いんだが。


「リッテルアさん! もう出発しないと間に合わない! 書いてる暇なんて──!」


入口近くで焦燥の声が上がる。


「OK! じゃあ今日は適当で!」


彼女は手を止めず、視線だけで相手を射抜く。


「必須だけ適当に埋めて、残りは空欄! “私がそう伝えました”で通すから!」


「いってらっしゃい!」と軽く手を振る。

討伐者は一瞬戸惑いながらも、慌ただしく踵を返した。


「……このままだと、配置の変更、どうにもならないわね。ダリオさんの現場、たぶん崩れる」


彼女の小さな独り言に、近くの同僚が即座に反応する。


「どうせ上は細かいとこなんか見てませんよ。スルーします?」


「いいえ。そのままで。申し訳ないけど、今日はむしろ現場の混乱を数字に残しておいた方がいい。本人には私が伝えておく」


「了解!」


熱のこもった空気が、彼女を中心に渦を巻いているようだった。


俺は、呆然とその光景を見ていた。


そして突然――


「あの、そちらの方々」


呼びかけられたのは、たぶん俺たちだ。……たぶん、いや、絶対そうだ。


視線を上げると、忙しなく手を動かしていた彼女が、こちらに顔を向けていた。


光をまっすぐ跳ね返すような、鋭い瞳。


深い色のベストに白いシャツ。赤い髪は左右でゆるくまとめられ、耳元で揺れている。

腰には、使い込まれたポーチと、金具の擦れたバインダーらしきもの。


派手な格好じゃないのに、どこか目を引いた。

……手際のせいか、それとも、この眼差しか。


「お待たせしました。どんなご要件ですか?」


きちんと整った声音。手を止め、返答を待っている。


不意をつかれ、手のひらにじっとり汗がにじんだ。


「えっと……その、仕事を探していて。登録、みたいなのができればと……」


声が妙に上ずる。自分でもわかるほど頼りない。


その瞬間、彼女の眼が、ごくわずかに見開いた。


「登録ですね。承りました。……ただ今、処理が立て込んでいまして。三十分ほど、お待ちいただけますか?」


「いえ、全然……他の方が先で構いません。俺たち、急いでるわけじゃないんで」


ずらりと並ぶ人影、止まらない質問、彼女の手元を埋める帳票の流れ──どう見ても、俺が割り込む隙などない。


「……ありがとうございます。──お待たせ、次の人!」


俺への対応はそこで打ち切られ、すぐに次の声が飛んだ。


※ ※ ※


それから、ぴったり三十分。


赤い髪の女性は、目まぐるしく討伐者たちをさばき続けた。


全員が出払った今、さっきまでの喧騒が嘘のように、ギルドは静まり返っている。


最後の討伐員を見送った彼女―リッテルアさんは、肩をほぐすように軽く首を回し、静かにひとつ、深く、息を吐いた。


「……ったく、様式変えるなら、せめて前日夕方までに言えっての! こっちは寝る前に段取り立ててんのよ……」


独り言のはずなのに、なんだか俺に聞かせるような声だった。


ちょっとだけ、笑ってしまう。


すごい人、だと思ったけど、それだけじゃない。


――ちゃんと、怒ったりもするんだな。


……なんて、少し気を抜いたその瞬間だった。


言葉が、不意打ちのように飛んできた。


「……で、あなた達はこんな状況でも逃げ出さないなんて、よっぽどの訳ありなのかしら?」


……言われたのが誰かなんて、考えるまでもなかった。


リッテルアさんが、こっちを見て、満面の笑みをたたえていた。


「ま、こういうしょうもない現場を平然と眺めてるなら、同類ってことでしょうけど」


……え? それ、俺たちのこと?


――前言撤回。この人、たぶん“割と怒ってるのが普通”な人だ……!


笑顔が怖い。今のって、絶対刺してきましたよね……?


「……そんなに平然として見えます?」


むちゃくちゃ迷って、なんとか言葉をひねり出す。


「へぇ、肝すわってるじゃない。じゃ、登録ね。逃げないってことだし」


ドギマギと言葉を返す俺を尻目に、彼女はテキパキと資料を整え始めた。


……なんだろう、この人。


落ち着いて見えるのに、どこか火を灯したままのような。

毒々しいようで、不思議とあたたかいような……なんだそりゃ。


なに言ってるか自分でもよくわからん。


「じゃ、名前教えて。私はリッテルア・リッテルナ。受付担当です」


「狭間野 悠真です。……え、受付? ギルド長とかじゃ――あっ」


やっべ。口に出すつもりじゃなかったのに、声に出てた。


時すでに遅し。彼女――リッテルアさんの口が三日月のように弧を描く。


「そうなのよ。変でしょ。ホント信じられないよね」


……その笑顔、やめてくれませんかね。怖いから。


でも──


不思議だ。肩の力が抜けて、思わず笑いそうになっていた。

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