第一部 蒼空の果て 第十四章

  1

  

 機器の小さな駆動音だけが響いている。

 ベースの二階にあるルースの通信室で、蒼は数台のモニターが淡く光るデスクの前に座っていた。

 

 ルースから借りた認証キーを使い、ファイアウォールのモジュールを二重に立ち上げる。一つはインペリウムを統括するRESISレジスの監視網から逃れるための防壁に、もう一つは痕跡を残さないためのイレイサーとして再構築した。

 セキュリティに問題ないことを確認すると、蒼は左前腕から端子を引き出し、直接システムに接続する。冷水と熱湯が同時に流れ込む感覚とともに、大量の情報が神経を逆流していった。左脳に埋め込まれた処理装置が、無言で演算を始める。

 

(……現行の中枢系統に触れたらアウト。二十六世紀の残骸だけを辿らなきゃ)

 

 蒼は操作盤の前に手をかざし、指先を滑らせた。何層もの旧式プロトコルを、ひとつひとつ手動で潜っていく。

 

 二十三世紀頃からだったと、かつてテキストで読んだ。

 幾世代にもわたって、AIは国の情報中枢を当然のように担ってきた。AIによる管理社会が確立されて以降、幾度となくバージョンアップとモデルチェンジを重ね、処理しきれない旧式のラインが幾つも打ち捨てられていった。

 

 今、蒼が潜ろうとしているのは、そうして見捨てられた層だ。現在の防衛網には触れないよう、慎重に経路を選び、二十六世紀の中枢システムに近いレイヤーを探る。


 遠い昔に役目を終えた破損だらけのログの海から、かすかな応答信号が浮かび上がった。


 エラー表示を確認しながら、何度か再送要求をかける。

 ホロパネルが淡く瞬き、乱れたシルエットが一度、二度と崩れ──三度目のデータ構築で、ようやく懐かしい輪郭が結ばれた。

 

「お久しぶりです、高梨 蒼大尉」

 

 男性とも女性とも言える中性的な合成音声が、頭の中に直接響いた。 

 人型のAIホスト──レイズ。

 印象的な橙みの強いブロンドに、赤い瞳。

 

「まだ動いていて良かったよ、レイズ」

 懐かしさと同時に、自分の生きた時代は確かに終わったのだという感覚が、胸の底でじわりと疼く。

 

EXISイグジスの回線に残されたAI残滓ですから、ほとんどの機能は失われています。多少ならば稼働できます」

「思い出話くらいはできそう?」

EXISイグジスの範疇に限れば可能です」

「いいよ、それで。久しぶりに話そ」

 

 蒼は深く椅子に身を沈め、指先でホロウィンドウを操作すると、バーチャル空間を展開した。無数の光のラインが往来する。宇宙を思わせる四次元空間が広がり、蒼とレイズだけが浮いている。

 

「結局ラグナロクの原因って、何だったの? 俺、よくわかんないまま瓦礫に埋もれちゃってさ」

 ずっと聞きたかったことを素直に聞いた。

 レイズは頭上に《Now loading....》の文字を散らし、右手を顎にあてて考える仕草をした。やがて、顔を正面に戻し、無機質なトーンで話し始める。

 

「主たる原因は、実証実験中の生体兵器〈凛空〉の暴走と記録されています」

 

「俺、そんなのがあるの、知らなかったよ。色々教えて」

 

 レイズが右手をかざして掴む素振りをすると、一枚のウィンドウが空中に表示された。中央に、ゆっくりと文字が浮かび上がる。

 

 《PROJECT: START OF THE UNIVERSE》

 《生体兵器: 凛空―RX001》

 

「兵器研究開発チームによる極秘プロジェクトでした」

 空間全体に研究棟の全景を投影して話し始めるレイズを、蒼は手で制した。

「そんなの俺に話していいの?」

「関係者は今、誰も生き残っていませんから」

 

 何でもないことのように告げられた事実に、蒼は小さく息を呑む。

 ラグナロクが起きたのは2643年。自分が瓦礫の中で眠りにつき、目を覚ました頃には、既に一世紀以上が過ぎていた。わかっていたが、かつての見慣れた顔から放たれた言葉が突き刺さる。

 

「……続けて。このプロジェクトの目的は?」

「陸軍で前線にいた大尉はご存知の通りですが、2591年から断続的に展開されていた第六次世界大戦では、我が国は徐々に押され、長期の本土防衛戦を余儀なくされました。優位を取り戻すためには、圧倒的な統率力と攻撃力を持った兵器が必要と考えたのです」


「散らしても散らしても、日々戦闘だったからね。それは分かるな」

 蒼は日々の軍事作戦を思い起こす。

「そこで計画されたのが、軍事中枢を介して国内ほぼ全てのAI兵器と基地を統率できる生体兵器の研究開発です」


「なるほど。そこから、何故ラグナロクが起きたの?」 

「ラグナロク発生直前から直後までの記録によると、凛空の生体反応が不安定化し、そのまま制御不能になったとされています」


 事務報告を淡々と読み上げるかのような声色。そこに、憐れみも悔恨も混ざらないのが、かえって重く響いた。


「その信号を受けた各地のAI兵器が暴走。さらに日本全土の防衛ネットワークに波及し、自律型兵器群およびAI基地の約89%が同時暴走。判断基準は『二足歩行の骨格を有し、生体反応を持つもの全てが対象』──すなわち、人類を優先的排除対象と認識しました」

 

「……それって、つまり」


「本来コントロールされていた人類に対する殺傷制限が初期化され、敵味方判別不能状態での殲滅が実行されました。結果、ラグナロクと呼ばれる事象となったのです」

 

「……死者数は」

「2643年当時の我が国の人口は約6500万人。ラグナロクによる死者は4800万人超。行方不明を含めると5200万人以上と推定されています。計測不能ですが、さらに各国の軍隊も合わせると、それ以上の数に上ります」

 

 八割近くが、この地上から消えた――。

 愕然とする数字だった。

 

「……今は?」

「二十八世紀現在、日本国内の人口は約300万人。うち、天空都市に約20万人、地上に約280万人が分散して生存しています」

「……そんなに、減っちゃってたのか」

 

 力なく、うなだれるしかなかった。

 それでも、問いだけは投げかける。

 

「……凛空って、今もプレトリアに格納されてるって情報は正しい?」

「はい。私の情報は現システムに移行が完了するまでで止まっていますが、存在しているはずです。凛空停止作戦により多数の死者を出したものの、当時の政府中央機関であり、軍事要塞でもあった〈フォート=プレトリア〉に格納され、封印措置が継続中です」

 

「凛空について、概要を教えてくれる?」

 

「もちろんです。凛空は軍事戦略AI〈START OF THE UNIVERSE〉と完全に連結した生体兵器です。私たち完全なAIでは判別できない機微を読み取ることを目的として、研究チームは人間の被験体を生成しました。成長過程で軍事分野の判断力を強化、そこから人格だけを取り除き、AIと連結させることで、あらゆる命令と状況に対応可能な存在を生み出そうとしました」

 

 レイズは一拍置くと、抑揚なく続けた。

 

「この被験体の第一候補は、高梨 蒼大尉。貴方でした」


「俺……?」

 突然の話に理解が追いつかない。数秒のち、子供の頃からの実験は適合テストだったのか、と思い当たる。

 

「しかし、大尉の発病は想定外でした。生存のために機械化手術を選択し、軍本部も戦力喪失を恐れ承認しました。結果として、大尉はEXISイグジスの一部に近しい存在となったため、凛空への適合率が大幅に下がり、代替候補が使用されました」

 

「代替候補? 俺の代わり……?」


「高梨 空研究員です。遺伝的に貴方に最も近く、数々の軍事兵器や生体兵器開発に携わっていた知見もあり、高い適合率を得ていました」

 

「え?」

 空の名前だけは認識できたが、レイズの言葉を脳が処理しきれずにいた。ようやく絞り出した声は、自分でも驚くほど震えていた。


「空は、受け入れたの……?」

 

「はじめは拒否していました。しかし、政府側が強硬手段に出たため、受け入れざるを得なかった」

 

 浮遊するウィンドウをレイズの赤い瞳がなぞると、視線に合わせて画面が遷移する。

 

「大尉、幼少期より同意されている事ではありますが、貴方がた双子は常に観察されていました。関連する映像ログも存在します。兵器開発過程から停止作戦まで。再生しますか?」

 

 見たくないものであることは間違いない。

 機械で補った臓器でさえ、呼吸を一瞬忘れた。


 しばらく蒼は黙り、ゆっくりと身体が正常に働くのを待ってから、顔を上げる。 

「見せて。空に何があったのか、ちゃんと、知りたい」

「了解しました。なお、耐性閾値を超えた場合、自動的に切断します」

 

 ウィンドウが再び滑らかに変形し、視界の中心に記録のタイトルが一行追加される。

 

《PROJECT: START OF THE UNIVERSE》

《生体兵器: 凛空―RX001》

《被検体:高梨 空》

 

 蒼は、固く唇を結び、視線を固定した。

 

「再生を開始します」

 

  2


 一つ目の記録。

 夕暮れ時の部屋。

 懐かしい栗色の髪が目に焼き付く。

 空と妻、そして娘の星那が、テーブルを囲んでいる。

 簡素だが、あたたかい食卓。

 空が溶けるほどの笑顔で娘の頭を撫で、妻もその様子に微笑む。なんでもない、ありふれた、けれど二度と戻らない光景なのだろう。

 蒼は湧き上がる懐かしさと愛しさに目を細めた。この身体になってから、会いに行くことはなかった。記憶よりも少しだけ大人びた空、成長した星那の姿。

 

 次の瞬間、インターホンの音が、やけに鮮明に鳴る。

 

 妻が玄関のドアを開けると、悲鳴が響いた。白衣と装備に身を包んだ政府の兵士たちが雪崩れ込んでくる。

『──なにを!』

 即座に拘束された空の叫びは掻き消され、娘の元へ駆け戻り、抵抗する妻は容赦なく撃ち抜かれた。星那の泣き声が、記録の向こうで遠ざかっていく。

 

(やめろ……やめろやめろやめろ……)

 蒼は指先に力が入るのを、自分で制御できない。


 画面が切り替わる。 

 二つ目、手術室。

 痛みだけが取り除かれていること、研究員らしき人物が確認していく。意識を保ったままの空が宙を見つめ、冷たい手術台に固定されている。

 機械アームが不快な音を立てて動き、両脚の切断ラインに沿って切開が進む。当時の技術を駆使し、必要な神経と栄養補給の経路だけを残す有機的な断面。嫌な音がして、空の両足が太腿から落ちた。

 蒼は、人工の胃袋すら裏返りそうな錯覚を必死に抑えた。

 

 そして、神経接続のための端子と白い合金が組み込まれていく。一点を見つめる空の目から、涙がこぼれていた。

「……やめろよ……」

 思わず、蒼の口から声が漏れる。

 

 三つ目のシーケンス。

 白い研究室。一度、見学で訪れたことがあるコールドスリープ専用の部屋だ。冷却カプセルへ意識のない星那が運ばれていく。

『娘に不自由ない生活送らせるのが、同意の条件じゃなかったのか?』

『……一生、凛空から出られない。分かるはずないさ。人質として役目だけを果たせりゃ充分だったんだよ』

 

 白衣の男が吐き捨てる。

 カプセルが閉じ、凍結処置が開始される。

 

(なんで星那まで──)

 視界の端で、警告表示が点滅する。

《精神ストレス閾値、上昇》

《インターフェース負荷、限界値に接近》

 

 四つ目に切り替わろうとした時、激しくノイズが走る。

「……!」

 世界が、ぐらりと揺れる。

《実行:強制再起動》

 目の前の光が遠ざかり、椅子の背もたれが解けていく感覚。


 レイズの呼ぶ声が、遠くで響いた。

 そのまま蒼の意識はぷつりと途切れた。

 


  3

 

 蒼の身体がふいに傾ぎ、重力に逆らえずに上体がデスクに倒れ込んだ。通信は切れていなかったが、彼の意識は、深い闇の中に沈んだ。

 ホロウィンドウがゆっくりと消失し、スリープモードに入る。

 静寂だけが、部屋に残された。

 窓の外が、うっすらとオレンジに染まりはじめている。

 

 通信室の扉が静かに開く音。

 透流が警戒した様子で、顔を覗かせた。

 

「……ん? 蒼?」

 デスクに倒れ込む青い髪。

「すげえ音したぞ。大丈夫か?」 

 面倒な含みを持たせて、近づいてくる。

 机に突っ伏した蒼の肩に触れた、その刹那――端末が再び灯り、システムが作動する。透流の視界がバーチャルセキュリティ空間に包まれた。


《閲覧者:代理端末認証──Valkメンバー:透流》


 レイズが涼しげな表情で透流を見た。

「ようこそ、透流。高梨 蒼大尉の自動承認で同期しました。代理で記録閲覧が可能です。先ほどの続きから再生を希望しますか?」

 

 人の形を模した立体映像が淡く問いかける。

「……は?」

 戸惑いつつも、透流は視界に浮かぶ記録のタイトルに目を止めた。

 

《生体兵器: 凛空―RX001》


「凛空?」

 その名を、噛みしめて呟く。ゆっくりと四次元の床に腰を下ろした。

 

「再生してくれ」

「了解しました。続きを再生します」

 

 再び、映像が動き出す。

 

 凛空の外郭が映し出され、次に内部のシーンに切り替わった。真っ白な髪と虚ろな瞳の青年が、おびただしい数のコードに繋がれた姿。


「こいつは誰だ?」透流は画面を凝視して訊いた。

「高梨 空研究員。高梨 蒼大尉の双子の弟です。凛空の中核機構として組み込まれました」

 レイズの回答に、透流は何も返さなかった。

 

 止まることなく記録映像は進む。

 空の脳と制御AIが完全シンクロされた状態での実験中のようだ。脳波は暴れ、断続的にノイズが走っていた。

 

『起動、開始』

 乾いたアナウンスが響き、空の意識はすべて封じられた。

 

 別のログに切り替わる。

 人形めいた無表情で、凛空を介して模擬戦場の標的を次々と撃破していく様子。複数の軍事AIを同時に使い分け、大規模戦と局地戦のテストも、機械的な正確さと人間の柔軟さで遂行し、すぐに実戦での使用が決定した。

 それは、各国の技術をも凌駕し、世界を制圧しうる強さだった。

 

 透流は微動だにせず、ひたすら画面を睨みつける。

 奥歯を噛みしめる音だけが、自分の耳に妙に大きく響いた。

 

 次の場面。

 凛空のメンテナンス中、研究員が軽口を叩く。

『娘は、もうコールドスリープ中だよな。哀れなもんだ』

 その言葉に、格納されていた空の脳波が瞬間的に跳ね上がった。 

 だが、誰も気づかない。

 

 凛空は、戦場への出撃命令を受けた。

 攻撃態勢に入った途端、エラーの警報が鳴り響く。

《──精神不安定検知》

《──思考回路、逸脱》

 凛空が発した最初の制御信号が、周囲の防衛AI群を連鎖させた。日本各地の軍事ネットワークが、芋づる式に暴走を始める。

 敵味方識別不能というフラグが拡散され、各都市で兵器が自律起動し、一斉に攻撃を開始する。

 

 本来なら、自我は消失しているはずだった。

 だが、そこには予期せぬバグが生じていた。


 凛空の中の空は、泣いていた。

  

『やめろ……やめてくれ、俺は……俺じゃない……っ。今のは違うんだ』

 

 叫びも、祈りも、何一つ届かない。

 残酷なほど精細なモニターの先で、都市が燃え、人々が逃げ惑い、次々と崩れ落ちていく。


『そんなこと望んでない! 違うんだ……違うんだよ……誰も死なないで……誰か、止めてくれ……!』


「……っ」

 透流はマーケットの惨状と重なり、思わず顔をそむけた。視線を逸らしても、耳から入ってくる悲鳴と爆発音が、容赦なく脳を叩く。拳が震えていることに気づき、さらに強く握った。

 爪が食い込み、血が滲む掌よりも、胸の奥を抉られたような痛みが走る。


 映像は、そこで途切れた。

 室内には、ホロの残照だけが残る。

 

 しばらくのあいだ、透流は硬直したようにその場に佇んでいた。感情を整理する術もなく、ただ、呼吸だけが荒くなる。やがて、透流は震えを押し殺した声で低く呟いた。

 

「……なんで、こんな」

 レイズの感情のない声が返る。

「世界大戦に勝利するためには、われわれAIでは到達できない思考の機微が必要だったからです」

「それでも俺らは機械の代わりじゃねえよ」

「ええ。現に高梨 空の精神崩壊によるエラーです。考慮を仕切れなかった研究者のミスですね」

 透流は、深く息を吐いた。そして、レイズを睨みつけて言った。

 

「もういい、終わってくれ」言葉が、少し掠れる。

「了解しました。いつでもお待ちしています」

 光の筋が弱まり、色が引いていく。

 

 もとの部屋。

 透流は一度だけ、机に突っ伏した蒼の後頭部を見下ろした。

 

「……どこにも望んでた未来なんてないんだな」


 誰にも届かない声で呟く。

 自分が望んでいたのは、凛空が全て破壊してくれる世界だったはずだ。

 自分の憎しみも、消したい過去も、まとめて焼き尽くしてくれる存在。けれど映像の向こう側にいたのは、自分と同じく利用され続けた側の人間だった。

 その事実に、胸の奥で何かが崩れ落ちる音がした。

 

 扉を閉めて数歩進んだところで、ふらりとよろめき、廊下の壁に手をついた。力なく、しゃがみ込む。喉の奥からこみ上げる胃酸を、噛み殺すように深く息を吸った。


「……ふざけんなよ……」

 喉の奥が焼けそうな感覚。

「……もう、戻るわけにも行かねえんだよ」

 誰に向けたのかも分からない言葉を吐き捨てるように零して、透流はオレンジの西日が差し込む廊下の奥へと消えていった。


  4


 しばらくして、蒼が目を覚ます。

 ノイズが頭の奥に残っている。

 身体を起こすと、窓の向こうから強烈な西日が差し込み、通信室全体を真っ赤に塗りつぶしていた。まるで世界の終わりを謳う、鮮やかで、痛いほどの夕焼け。


 蒼は放心した顔で、窓の外を見つめていた。

 通信室の空気が、微かに帯電する。グラデーションを描きながらバーチャル空間が再び起動され、レイズの姿が浮かび上がる。


「高梨 蒼大尉。お加減はいかがですか」

「ん、なかなか最悪」

 自虐的に笑って、深呼吸した。

「さっきの続き、視覚的なものはちょっと無理そう。言葉だけでいいから、話してくれる?」

「はい。お伝えします」

 パーティクルを纏い、レイズは変わらぬ冷静な顔立っていた。だが、どこか気遣いと柔らかさを感じた。光の加減のせいだろうか。

 

「改めてご説明します。高梨 空研究員は、貴方の代替候補として凛空計画に組み込まれました」


「彼は、残された娘を守るために、黙って耐えていました。少なくとも普通の生活を送れていると思っていた娘はコールドスリープに送られたという事実を知り、精神的な限界を超えることになります。脳波の乱れをシステムで感知していたものの、研究者たちは看過し、凛空の実戦投入を推し進めました」

 

「ラグナロクも……その暴走が、きっかけ……?」

「はい。高梨 空研究員の精神状態が想定外のバグを引き起こし、全人類を対象とした攻撃として認識されました」


 蒼は額に手を当てた。

 目を閉じると、あの日の瓦礫に沈んだであろう仲間たちの顔が交錯する。

 そして、誰よりも家族に愛情を注いでいた空の絶望が、痛いほど分かった。蒼自身にとっても彼らは希望だった。


「ねえ。空は……もしかして、まだ生きてるの?」

「コールドスリープ状態で停止しているはずです。すなわち、生きている可能性が高いです」


 蒼は息が止まりそうな感覚に陥る。

 すぐには言葉が出てこなかった。

 

「……助け出せる? 教えて」しばらくして絞り出すように言った。

 

「方法は未検証ですが、可能性は存在します。凛空内部に格納された高梨 空研究員は、自律型の生体機構を有しています。脳や内臓機能も保存されており、独立生存は理論上可能です」


「ですが、高梨 空研究員の意識は現在、凛空の指示機構により浸食され混濁しています。そこから切り離さねば自我はありません」

 

「AIとのリンクを切断する必要がある、ってこと?」

EXISイグジスおよびRESISレジス双方のリンクを同時に遮断する必要があります。ただし、管理の主軸はRESISレジスに移行しているため、実行は非常に困難です」

 

「無理ってこと?」

「いいえ。貴方がアクセスできるネットワークを通じて、一時的に凛空とリンクさせ、遮断を試みることは理論上可能です」

  

「でも、俺はEXISイグジス側からしかアクセスできない。RESISレジスとの接続も閉じられなきゃ、意味がないってことか」


「可能性があるとすれば、EXISイグジスを介して凛空をウイルス感染させる方法です。そうすれば、RESISレジスは防御反応で凛空を数秒は切り離すでしょう」

 

「君がそんなこと言っていいの?」

「私は、もう関係ありませんから」

「ふふ、そっか」

 少しだけ笑みがこぼれる。

 

「ちなみに、その時にRESISレジス側の回線に入り込むって無理かな?」

「貴方の速度では無理でしょうね」

「はいはい、どうせ旧型のポンコツですよー」

「私と一緒ですね。向こうの処理速度を遅延させるか、もしくは貴方の速度を強制的に引き上げる必要か……腕の良いハッカーがいれば手法は考えられるかもしれません」


(Valkのみんながいれば、何とかなるかも――)

 

 ふっと肩の力を抜く。

 ようやくスタートラインに立った気がした。

 

「やっと、俺がここでやるべきことが見えた気がするよ」

 

 そう告げた蒼の瞳には、さっきまでの動揺の色はなかった。長く澱んでいた空虚さの底に、一筋の光が差した。


「レイズ」

「はい」

「ありがとう」

「お役に立てたなら何よりです」


 回線から抜けようとする蒼に、レイズが話しかけた。


「余計なお世話かもしれませんが、右腕と脳神経系のリンクパーツに劣化が見られます。記憶メモリも保管と交換を推奨します。機械は消耗品ですから」


「わかってるから、大丈夫。またね」

「いつでもお待ちしています。高梨 蒼大尉」

 

 ホログラムが音もなく消え、通信室には一瞬、深い静けさが戻った。蒼は背もたれに体を預け、未だに燃え盛る赤い空を、しばらく見つめていた。


 どこかで、焦げる匂い──いや、鉄を思わせる微かな匂いが、ほんのわずかに漂った気がする。

 視界の端で、嗅覚データがわずかな揺らぎを示した。

 揮発性有機化合物と酸化鉄に類する反応──いずれも閾値以下。曖昧で、不確かだ。


「……」

 蒼は、ゆっくりと顔を上げ、頭上を見た。胸の奥で、さっきまで鈍く疼いていた痛みが、別の焦燥にすり替わる。

 椅子が音を立てて後ろに倒れた。

 立ち上がった蒼は、通信室の扉へと駆け寄る。乱暴にそれを開け、そのまま廊下へ走り出た。

 

 差し込む夕陽が不安をかき立てる。 

 蒼のブーツが金属の階段を鋭く叩く。駆けて登っていく音がベース内に反響する。

 強い太陽光だけが、誰もいない通信室の中を照らしていた。

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果てなき空に、蒼き祈りを 桐瞠アオイ @STUDIO_A01

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