第一部 蒼空の果て 第六章

  1


 その夜は、子供たちのために、龍道が料理の腕を振るった。マーケットの復興作業での疲れも見せず、「何も出来なかったから、飯くらい作らせてくれ」と巨大な中華鍋で豪快に色とりどりの野菜と米を炒める。手際よく品数を追加し、準備する姿は生き生きとしていた。

 

 久々に大人数で食べる食卓に笑い声が広がる。

 蒼と光莉も冗談を交えて軽くじゃれ合う。

 

「明日も早いんだから、そろそろ休まないとね」

「蒼もだよ、放電必要でしょ?」

「まだ平気。ちょっと涼んでくる」

 

 蒼は外階段に出た。先客のルースがランタンを足元に置いて、夜風に当たっていた。柵に片肘をつき、手には小ぶりのワイングラス。


「ねえ、好きなの?」

 ルースがちらりと階下に視線を送る。不意にかけられた声に、蒼は瞬きをした。

 

「光莉のこと?」

「そう」


「なんで?」

「なんとなく。そういう仲の良さにみえるから」


 彼は、少し困った表情で口元を緩めた。

 

「好き、ね。俺、そういうの、分かんない」

「またそうやってお子様ぶる」

「違うよ。ほんとに、分からないんだ」

 ルースがグラスを傾ける音だけが、しばし沈黙を埋めた。 昼間の熱気をそぎ落とした夜風が心地よく通り抜ける。

 やがて、蒼が静かに続ける。

 

「好きって、なんなんだろ」


 独白のごとく言葉が中を彷徨う。

 

「昔、色んな女の子にいっぱい抱いてもらったけど」どこか他人事の口調で淡々と続ける。「誰かのことを『好きだったのか』って聞かれると、分かんない。たぶん好きになったことってないんだ」

 

 ルースが意外そうな顔で、蒼を見た。

「あ、俺が抱いてたんだけどね。身体的には。でも、気持ちは逆だったかもって」

「いや、それは分かるけど」


「軽かったんだ、意外と」彼女は動きを止めたまま目を丸くする。

 

 蒼は視線を外して「ほとんどは戦場にいたからさ。隙間時間だと、それくらいしか出来ることなかったかな」と言い訳した。

 ルースは微笑みを浮かべるが、その眼差しは少し真剣だった。

「いるよね、快楽で気を紛らわせるやつ」

「それ、まさに俺だったんだろうな」失笑しながら答えた。

 

「でも、殺すのが当たり前の毎日で、いつの間にかそれが楽しくなっちゃう奴だっていてさ。それに比べたら健全でしょ?」

「私には、何とも言えないわ。人は複雑だから」ルースは曖昧に答えた。

「今は、まあ、そういう機能もないし、触れられてもデータとしか感じないけどね。」

 少し寂しそうに言った。

「光莉のことは、眩しいなって思うんだ。俺には眩しすぎる。ほんと、それだけ」目を伏せる。長い睫毛が頬に影を落とした。

 

 ルースは一度、蒼を横目に見て、そしてまた空に視線を戻した。

「真っ直ぐに向き合うのが怖くなるって、あるわよね。大事なことに気がつくのは大体後になってから」

 

 蒼は何も言わなかった。代わりに風が、乾いた音を立てて日除けの端を揺らす。どこからか風鈴を思わせる金属音が、涼しげに届いた。

 ルースは残った一口を飲み干すと、軽く立ち上がった。

「じゃあ、私は戻るわ」

 そう言い残し、サンダルの音をコツコツと鳴らして階段を下りていった。 蒼はその背中を追うことなく、空を仰いだ。


 そんな夜の静けさを光莉の元気な声が破る。

「ねえ! やっぱりさ、一本だけ映画観よ! 二十五世紀の面白そうなの見つけちゃった。あ! ルースも!」 


 その後ひときわ大きい声で叫んだ。

「ねえ、蒼もおいでよ!」

 

 階下から聞こえる、底抜けに明るいその声。

 廊下をバタバタと駆ける足音。続いて何人かの笑い声が重なって、生活の匂いが戻ってきた。

 蒼は、ふっと目を細める。

「騒がしいな」

 だが、その声色には微かに、嬉しさが滲んでいた。そして彼は、屋上の手すりから身を起こす。なんとなく足取りは軽かった。


  2


 遠くなのか、近くなのか、仲間たちの笑い声が響く。

 

 震える指先で葉巻状の筒に火をつける。

 灰色の煙が立ち上がり、部屋の空気をじわじわと侵食していく。甘くも鼻をつく薬草の強い匂い。肺の奥まで煙を吸い込み、ゆっくりと吐き出す。その度に、意識の輪郭が少しずつ曖昧になっていく。


 月の光が部屋を照らす。

 ――透流は、自室の暗がりにいた。

 視界がぐらつく。どこか遠くでざわめく音がする。胸が軽くなるような、むしろ沈んでいくような、奇妙な浮遊感が全身を包む。現実と記憶が混濁する感覚の中、冷たい闇が押し寄せる。


 頬を平手打ちされた感触。とっさに頬を押さえる。神経質そうな白い部屋。目の前には硬質な机と分厚い参考書の山。冷たい声。

「ここで暮らしたけば、結果を出せ」


 また煙を吸う。

 吐き出した灰色に、視界が滲む。

 幻影。

 母の顔。

 歪んだ泣き顔。その眉間に、無慈悲な銃槍が貫通する。

 音はなかった。ただ、透流は見ていた。立ち尽くし、声も出せず、何もできなかった。

 彼女の最後の形相が、今もまぶたの裏に焼きついて離れない。


 過去の影が、ぼんやり揺れ、全身を飲み込んだ。


 荒れ果てた路地裏。何とも言い難い異臭。

 訳もわからないまま強く腕を引かれ、次の瞬間には頬に衝撃が走った。何が起きたかわからず、逃げることもできない。次いで、下半身に走る激痛と血の気が引く感覚。内臓をえぐられる感覚が永遠に続くようだった。泣き叫びたくても喉が動かない、乾いた音が不規則に口から吐き出され、やがれそれすらも出なくなった。助けなんて来なかった。

 蹴り倒され、声をあげる間もなく突き飛ばされる身体。「女みてぇな顔してやがる」逃げるすべもなく、暴力の中で尊厳を踏みにじられた日々。

 目を閉じれば、鼻を突く匂いが蘇る。背後の壁が冷たく、体温を奪う。


「何で、俺ばかりが……」


 蹂躙されるために存在していた自分。暴力から逃れられた日も生きていると言えるのかもわからなかった。


 脚に湧いた蛆の感触が蘇る。腐敗した血の匂い。今でも皮膚の奥に残り、消えることはない。焼けるような痛みと蠢く感覚に透流は右の脹脛に爪を立て、皮膚をえぐるように掻く。


 慌てて筒に口を当て、深く吸う。

 肺が満たされる。

 再び記憶は切り替わる。


 闇。


 暗闇をひたすら走る。

 もう少しでたどり着けたのに。

 自分自身の息が弾む音と鼓動が、煩い。


 爆風。巻き上がる砂塵。瓦礫。呻き声。千切れた足。全てが頭の中で反芻される。

 無力さと絶望が、心を締めつける。行き場のない怒りが、血の中で爆ぜる。

 心の軋む音がする。幻覚か現実か。空間がひずみ、耳鳴りが轟いた。


「なんで俺だけが、こんな目に遭うんだ」


 焦点の合わない瞳。脳に反響する重低音。

 自分を支配する激情。

 そして、それは同時に空虚さも孕む。

 世界のすべてを拒絶したい焦燥。

 思考は暴走し、記憶が破裂する。


「全部、壊してやる」


 冷えた床に座り込んだ透流の手から、火の消えた筒が静かに滑り落ちる。灰が舞い、床に細く長い影を落とした。視界がじわじわと傾く。天井がぐにゃりと歪み、壁が遠ざかる。耳鳴りは次第に遠のき、鼓動が内側にこだました。

 現実と幻覚の境界が崩れ、色も音も、意味も、すべてが溶けて熱を失う。

 透流は壁にもたれ、力なく瞼を閉じた。煙の残り香とともに奈落の底へ沈む感覚。深く、誰にも届かない場所へ。夜が、透流を完全に飲み込んだ。


  3


 朝の光が、ゆるやかにベースの窓から差し込み、まだ肌寒い空気を、ほんのりと暖めていた。

 瀬司はソファで脚を組み、膝の上にポータブルのホログラムデバイスを置いていた。そこに映し出されているのは、美しいイラストが印象的な立体絵本。色とりどりの動物たちが空間に浮かび上がり、無音で跳ねる。隣に座る幼い少女が、彼の腕に身を預けて寄り添い、画面を見つめていた。彼女の笑顔はやわらかく、どこか夢心地だった。

 

「せすくん! もういっかい! りおん、ここ、ぴょんってとこ、みたい!」

「三度目だ。そろそろ記憶に定着しているはずだが」

 

 言葉こそ素っ気なかったが、声音にはどこか和やかさが滲んでいた。璃音が小さな手でホログラムに触れようとすると、彼はその手を受け止め、指の動きを導いて次のページを映した。

 

 珍しく柔らかな温もりが満ちるベース。

 そこに暑苦しさを加えるように、扉が豪快に音を立てて開いた。

「よお、子守り係さんよ。似合わねぇな」

 埃混じりの声とともに入ってきたのは、龍道だった。無骨な体格に乱雑な足取りが、相変わらずの荒っぽさを纏っていた。

 

 瀬司は一瞥をくれて、薄ら笑いを浮かべる。

「どうした、嫉妬か?」

「ハッ、俺は普段から璃音と遊んでんだぜ? ほら、璃音! 肩車してやるからこっち来い!」

 龍道が両腕を広げる。璃音が顔を上げた。

「えー! りゅーじはモジャモジャがチクチクしてイヤ! せすくんの方がきれいで好き!」

 龍道が固まる。しばしの沈黙。

「とほほ。イケメンは正義ってか」

「当然、容姿も戦力の一部だ」

「自分で言うかよ!」

 瀬司は勝ち誇った表情を浮かべ、璃音の髪を指先で掬うと、龍道を見据えたまま軽く唇を寄せる。璃音が「きゃあ」と頬赤らめた。龍道は肩を落とし、頭を掻く。

「ほんと、似合ってねぇのに、ハマってるのがムカつくな」

 そのやり取りをロフトの上から聞いていた至が、堪えきれずに降りてくる。

「とりあえずヒゲを剃るところから始めたらどうだ。くくっ、すまん」

「至まで! 俺、泣いちゃう!」

 大げさに顔を覆って叫ぶ龍道に、さらに声が重なる。

「盛大に振られたみたいだね」

 蒼が、両脇に少年たちを抱え、大きく笑い声を上げて現れた。龍道は驚いて叫ぶ。

「聞いてたのか!」

「いまベース全体をセキュリティモードにしてるから、会話は全部聞こえてるよ」

 すかさず蒼の両脇から声が上がる。

「すげえ!」

「かっけえ!」

 少年たちは蒼に瞳を輝かせる。

 

 そんなにぎやかなやり取りの中、最後に階段から重い足取りで現れたのはジェラードだった。寝ぐせ頭で、眠たげな目をこすっている。

「ああ……朝から元気だな……龍道、なんか紹介したいやつらがいるんだったろ。連れてきてくれたのか?」

「おー、そうそう!」

 龍道はひときわ大きな声で返した。そして、入り口の方を振り返った。

 

「入ってこいよ! 紹介するぜ!」

 ベースの扉が再び開いた。

 

 最初に現れたのは、黒いジャケットを羽織り、背筋を凛と伸ばした女性だった。長い黒髪を後ろで束ね、瞳は鋭く研ぎ澄まされている。マーケットエリアの自治警察出身、ソエル=白石。崩落後の治安も落ち着いてきたため、復興を支援してくれたValkに協力したいと、個人の意志でやってきたという。

 

 その背後には、ナツの母親である遥。ナツを救ってくれた恩を返したいとサポートを買って出た。ナツが駆け寄り、その腰に抱きつく。


 工具バッグを提げた三人が入ってくる。無駄のない動きと、作業服に染みついた工具油の匂い。現場に慣れた者だけが持つ空気だった。

 左雨ささめと名乗る長身の青年。電子制御や廃棄物処理に詳しい。横に並ぶミナは明るく人懐こい女性。配線やセンサー設置が得意らしい。残る無口な中年整備士はタガワと言った。かつてプレトリアに属していたが、離脱したそうだ。

 

 ジェラードは彼らを見て、満足げに言う。

「三人とも良い面してるな。助かる。人手が欲しかったんだ、早速ガレージで技術を見させてくれ」

 無駄な挨拶もなく、彼らを連れて奥へと消えていく。

 

 その後、ソエルが至に声をかけた。

「もっと警戒していれば、爆撃の被害も最小限にできたかもしないし、子供の失踪事件を防げたかも。無力さを感じています。今後は連携して動きたい」

「あまり思い詰めないほうがいい。戦闘員希望と聞いたけど、警察の任務もあるだろう? こっちが本当に人手が足りない時に、頼ってもいいかな?」

「はい、もちろんです。戦闘は本職なので、必要な時は呼んでください」

「蒼と手合わせしてもらってもいいか?」

 ソエルは一歩前へ出て、堂々と頭を下げる。

「問題ありません。ぜひお願いします」

 至が隣に立つ蒼へ目をやると、蒼はにこっと笑って軽く手を挙げた。

「楽しそうだし、全力でよろしく!」

「こちらこそ、お願いします」

「二人とも頑張って!」

 

 いつの間にか起きてきた光莉が、寝坊を誤魔化すべく、声援を飛ばす。蒼親衛隊と化したナツも、素早くルイの横に並び、一緒に手を振った。その様子を安心した表情で遥が眺める。

「遥とナツはさ、農園を手伝ってもらって、ここの料理を任せたいと思ってるんだ。最近、俺も手いっぱいだからな」

「それは助かる。俺らは食事が後回しになりがちだからな」

「お役に立てるなら何でも!」

 遥は深く頭を下げた。ナツも振り返って「よろしくな!」少し威張って胸を張る。

 

 ベースの朝は確かな手応えとともに動き出していた。それを見守りながら、瀬司は璃音の毛先で遊び、再びホログラムのページを送る。賑やかな笑い声で満ちるなか、穏やかに過ごす時間に、彼の鋭い瞳もいつもより少しだけ優しく揺れていた。


 

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