第一部 蒼空の果て 第五章

  1


 ベースの扉が開き、子供たちが足を踏み入れる。まだ怯えが残る瞳には疲労がにじんでいた。瀬司は子供たちに気を配りつつ、マーケットから呼び戻した至に状況を報告する。

 少し遅れて蒼と光莉が到着し、それを見届けた紗月は診療所に向かって出発した。


「光莉、蒼! 俺と瀬司、透流は廃病院をもう一度調査してくる。光莉はその子たちのこと皆知ってるよな。任せていいか?」至が視線を向ける。

 

 光莉は蒼と顔を見合わせ、「もちろん」と頷く。

 ひととおりの喧騒が去り、静けさを取り戻したベース。二人は、きょとんとする子供たちの前にしゃがみ込み、微笑む。

 

「まずはお風呂だね」

「うん、順番に連れていこっか」

 そうして二人で、子供たちを浴室へと案内していくことにした。マーケットの爆撃と誘拐のせいで、体も服も煤と泥で真っ黒だった。


 すぐに浴室から「しみるー!」と叫ぶナツと璃音の声が響く。擦り傷程度で済んだ二人は、大騒ぎしながらも湯上がりの頬にはほんのりと赤みが差し、緩んだ表情でリビングに戻ってきた。

 

 ただひとり、頬を痛々しく腫らしたルイが、隅から動けずにいた。

 光莉が怖がらせないように慎重に近づき、目線を合わせてしゃがみ込む。「手当したいから、まずはお風呂で洗おうね」穏やかな声で話しかけた。


 少しの沈黙のあと、彼は光莉の手にちょこんと指先を乗せた。光莉はその手を優しく包み込む。

「よし、行こうか。がんばったね、ルイ」

 その言葉に、少年の喉がわずかに震えた。うつむいたまま、ぎゅっと唇を噛む。光莉はゆっくりと立ち上がり、歩き出す彼に歩幅を合わせた。

 

 湯気が立ちこめる浴室の中には、石鹸の香りが心地よく広がっていた。蒼が「待ってました」と柔らかい表情で迎えると、タンクトップにハーフパンツの姿で膝をつき、手際よく世話をしていく。

 彼はときどき、ぴくりと肩をすぼめる。蒼は、なるべく意識して丁寧に触れた。

「熱くない?」

 こくん、とルイが縦に首を振る。

「そっか」

 

 その後ろで、光莉が汚れた服を洗う。湯の音に紛れて聞いた。

「この子、何となく蒼に似てるよね」

 蒼は、少し間を置いてから答えた。

「うん、そっくり。俺も、こうなる前は髪も瞳も茶色だったんだ。さっきスキャンしてみたけど、ほぼ確実に同じ遺伝子だと思う」


「それって」光莉が思わず手を止める。

 

「俺たちは世界大戦中に兵士が足りなくて、遺伝子操作で戦うために造られたけど」蒼の視線が少年の濡れた髪に落ちる。泡立てたシャンプーをゆっくり流しながら、続けた。

「軍や研究所は、最適な組み合わせを繰り返してた。たぶん同じ型が何人もいる。その名残なのかな」


 その静かな言葉に、光莉は目を伏せた。

「あのね。もう普通になってるよ。インペリウムでは」

 蒼が手を止めて、顔を上げる。

「え?」

「最適な遺伝子を掛け合わせて、人工ポッドで育って、ひとりひとりの適性を調整されて配属されるの。私も至兄さんも。きっとジェラードもルースも同じ」さらりと言った。

 

 蒼はしばらく黙っていたが、ようやく口を開いた。

「……そっか。今は、そうなんだ。」

 自分が例外ではなく標準になっているという事実。それは違和感と同時に奇妙な安堵感を呼び起こす感覚だった。

 

「うん。でもね」光莉の声が、少しだけ揺れる。

「個を重視するって言われて育っても、結局は政府の都合なんだよね。至兄さんが政府から外された時、私も同じ遺伝子だからって理由で追い出された」


 そして、躊躇いがちに言った。

  

「だから、この子も何か理不尽な理由で、ここに来て、また連れ戻されそうになったのかも」


「うん」と曖昧に相槌を打ち、蒼は優しく少年の髪に手を添える。洗い立ての湯気を含んだ髪に、ふわふわのタオルを当てて拭き上げる。まだ少し、熱が残っていた。 

 

 自分と同じ生まれ方が当たり前であるなら、さきほど瀬司が至に報告していた「貴重な個体として回収されそうになっていた」という話は何なのだろうか。

 この時代における「貴重」とは、どういう意味なのか。

(希少性、適性、適応、何らかの経過観察……?)

 それを選別したのは誰で、どんな基準だったのか。湯気の中、蒼の思考は沼に飲まれるように深まっていく。


 光莉は、思索にふける蒼から、そっとお風呂上がりの香りを纏った少年を引き受ける。

 ルイの緊張はまだ完全には解けていない。いつもよりゆっくりと、慎重に表情や体のこわばりを確かめながら、光莉はその小さな頬に薬をなじませた。

 

 すっかり手慣れた自分の手つきに、ふと思う。こんなふうに誰かを治療することが、自分にとって当たり前の日常にになるなんて。天空の街にいた頃は、想像すらしていなかった。

 すべての始まりは、あのとき突然告げられた「地上送り」に遡る。


  2


 転機。

 あれは十六歳になる少し前。統一的な義務教育機関である〈E.D.E.Nエデン〉の卒業を目前に控えていた。残り少ない授業に「早く終われ」と「もう終わるのか」の気持ちがせめぎ合っていたある日、講師に呼び出された。

 

東雲しののめ 光莉。貴方の兄に当たる東雲 至が反社会的な言動により、地上送りとなった。同じ遺伝子の貴女にも同様のリスクがあると判断され、移送が決定した。本日をもって退学とする。荷物をまとめて、出ていきなさい」


 その一言で、世界がひっくり返ったみたいだった。

 日々まじめに授業を受け、多少の居眠りで叱られることはあっても、大きな問題を起こしたことなど一度もなかった。都市を彩る植物に興味を持ち、適性分析でも推奨されていたから、専門教育機関へ進学しようと計画していた矢先だった。

 

 それから先の記憶は、曖昧だ。

 冷たい箱型の輸送機に押し込まれたあと、眠ることすらできずに時間が過ぎていった。重力感が変化し、内臓が裏返るみたいな浮遊感ののち、着地の衝撃で一瞬視界が白んだ。ガコン、と機体が揺れて止まる音。耳がつんとする。微かに明かりの漏れるハッチがゆっくりと開く。 外気が流れ込む瞬間、湿った鉄の匂いと、土と腐葉のにおいが混ざって鼻を刺した。

 

 目が眩みそうになるほどの太陽光。光莉はよろける足で一歩を踏み出した。 足元には、ごつごつとしたコンクリートの地面。赤茶けた土埃がうっすらと積もっている。 振り返ると、無機質な扉が背後で閉まり、かちりと鍵のかかる音がした。

 その音が、彼女を「内側の世界」から完全に締め出した。

 冷たく閉ざされた扉に触れようと手を伸ばした。


 乾いた破裂音。

 何かが地面を弾いた。すぐ足元に浅い穴が開く。

 跳ねた土がふくらはぎにかかり、条件反射で飛び退いた。

 黒い円。 焦げ跡だ。銃痕だった。


 早鐘を打つ鼓動を押さえ、顔を上げた。柱の中腹に監視デッキらしき構造があり、そこから銃口がこちらを向いていた。

 

「扉に手を触れるな。すぐに敷地から出ていきなさい」

 機械的な警告音声が風に混じって届く。

 その声は冷たく非情で、人に向けられたものではない。

 

 震える足を前に出した。

 ふらつきそうになるのをもう片方の足で何とか支え、柱のある敷地から離れる。

  

 地上は、こんなにも異なる。 

 地表に足をつけたその瞬間から、直感した。

 ここでは、誰も助けてはくれない。 命の軽さが、空気の中に漂っている。塀の外には、果てしない荒地が広がっていた。 乾いた風が髪をかき乱し、砂埃を頬に叩きつける。

 振り返れば、遠くに、蜃気楼のごとく浮かぶ天空都市の底。そびえ立つ柱は、昨日までいた場所と今この現実を繋ぐ唯一の痕跡だ。

 

 都市構造基礎の授業で学んだことを、ぼんやりと思い出した。

 十二本ある柱は、地上と天空都市を物理的につなぐ唯一の出入口。テロ対策のために防衛が厳重に敷かれ、現在はそのうち四本が破壊されて停止している。先程自分がいたのは、稼働中の八本のうちの一つだろう。


 もう、帰れない。

 

 その事実が、彼女の足元から熱を奪った。 息を吸っても、肺の奥まで届かない気がする。鼓膜がまだ、高度差に順応できずに、じんと痛む。


 わたし、いま、ひとりだ。

 

 その事実が、何よりも怖かった。けれど、それでも歩かなければいけない。 立ち止まれば、どこにも行けなくなる。

 赤茶けた土を蹴り、歩いた。

 太陽が傾き、空が染まり始めた頃、光莉は不安と恐怖を押し込め、荒れ果てた大地をひとり歩く。

 

 日が落ちたら、どうしようもない。

 

 その一心で、休める場所を探して歩き続けた。そして、偶然、木々が生い茂るオアシスを見つけた。見たことのない植物と、人の手が介在しない池。インペリウムでは見たことのない生命の気配に息を飲んだ。

 

 そこで出会ったのが、薬草を採取していた紗月だった。訝しげに光莉を見る彼女に、天空の都市から突然追放され、居場所を失ったこと、そして自分の無力さを正直に話した。

 紗月は長く押し黙ったのち、「うちに来る?」と尋ねてくれた。それが、光莉にとっての新しい始まりだった。


 診療所で過ごすうちに、少しずつ医療というものの意味と力を知った。

 最初は雑用を手伝うだけだったが、紗月やスタッフが患者一人ひとりに寄り添う姿を見て、胸の奥が熱くなるのを感じた。ただ「今、目の前にいる人を助けたい」という意志。その純粋さに心を動かされた。


 インペリウムでの適性配属の中で生きることこそが正しいと信じていたけれど、そうじゃないのかもしれないと感じた。


 思い切って「私も医療現場に入りたい」と伝えると、紗月はあっさりと「いいよ」と頷いた。拍子抜けするくらいの即答に、目を丸くしたのを今も覚えている。


 ぎこちない手つきで傷を洗い、手当をする。うまくできたか不安な中で、「ありがとう」と笑う患者の声に、初めて心の底から温かさを感じた。

 自分の手で誰かの痛みを和らげることができる。

 それは、インペリウムで進学を目指していた頃には感じたことのない、確かな喜びだった。

 

 そうして半年が過ぎた頃、兄、至と再会した。

 不思議と恨み言は出てこず、気づけば「兄さん! 久しぶり」と笑顔で挨拶していた。驚くほど勢いよく頭を下げて謝る兄の姿は、理想ばかりを追いかけていた頃より、少し地に足がついて見えた。

  

 

 光莉は、そこで思考を切り替え、「終わったよ」と少年に声をかけた。小さくお礼を言ったルイは、ナツと璃音のところに走っていった。




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