第一部 蒼空の果て 第四部
1
空はまだ深い群青に沈んでいた。地平線がわずかに白み始めたが、太陽が顔を出すには、まだ少し早い。
廃プラントの屋上に、蒼が佇んでいた。黒いオーバーサイズのパーカーに身を包み、フードを深く被っている。屋上の縁に立ち、都市を見回す。かつての高層ビルは朽ち果て、砕けたガラスやコンクリートの残骸が虚しく広がっている。湿った鉄の匂いと砂塵が風に舞う。
かつて栄華を誇った都市は、もはや息をしていなかった。それは、ひとつの文明の終焉を意味していた。
「守れなかった」
ぽつりと呟く。
「こんな姿になってまで、生きたのに、俺」
なんで、まだ生きてるんだろう。
自嘲は虚空に飲まれた。
通り抜ける風につられ、肩越しに背後を見上げた。
夜明けの空の彼方、雲の切れ間に、白い光の群れが浮かび上がる。
天空都市・インペリウム。
この地を見放し、生き延びた唯一の楽園のように見える。空に鎮座する都市も、昨日からの出来事も、どこか遠くの出来事のように感じた。
ふと、宙に脚を踏み出す。
フードが風圧で翻り、現れた柔らかい癖毛が微かに光を拾う。深い青が彩度を増す。 額から頬へ、金属のラインがゆるやかに朝の色を映し、シアンの瞳が橙味を帯びて輝く。
微細な機械音とともに、しなやかな動きで体を捻り、地面に着地した。
いつもの軽やかな声が響く。
「おはよ! 準備が早いね」
突然、隣に現れた蒼に、瀬司は驚きもせず、入念にレーザーライフルの調整をしている。
「お互いにな」
スコープを覗いたまま応える彼を横目に、自分の愛用ダグに乗ると、ハンドルを回した。瀬司は照準器を手際よくメンテナンスしている。
「武装してくのは、やっぱりプレトリアを警戒して?」
彼は手を止めずに、答えた。
「それもあるが。混乱の隙を狙って、略奪する連中もいるからな」
「たしかに」
「透流も、しっかり武装してたよ」
「夜、メンテナンスしてたからな。あいつはすぐに暴れたがる」
「瀬司もじゃないの?」
あどけなく返す蒼に、苦笑する。ライフルを組み直し、カチャリとバッテリーの装填音を響かせると、ダグに跨った。
「俺は、無駄な戦いは好まない」
蒼は「そっか」と軽く流して、ダグのボディに自身の脚部を接続し、行き先を設定した。
「じゃあ、俺が先に片付けるよ。そしたら、撃たなくて済むね」と少年のような笑みを浮かべた。瀬司は視線を蒼に向け、口角を上げた。それが「やってみろよ」という意味だと分かる。
「挑発しないでよー」
気の抜けた様子でボヤくが、彼は静かに唇で弧を描いて答えない。そのまま居心地の良い無言が続いた。
うっすらと空が赤みを帯び始めた。
ガレージに、続々とメンバーが入り、移動手段を整える。ジェラードと龍道はトラクターのエンジンを温めて、最終チェックをしていた。
「蓄電池はフル充電済み。トレーラーの接続も問題なし」と声を上げたジェラードに、「こっちもバッチリ。よし。行くか!」と龍道がテンポ良く返事をする。
一方、透流はジープに物資を詰め込んでいた。至が「頼むぞ」と声をかけると、一瞥して「誰に言ってんだよ」と吐き捨てた。
「反抗期が終わらねえな」至はやれやれと自身もホバートラックの操縦席に乗り込む。小さく駆動音を立て、車体が数センチ浮き上がった。これなら瓦礫の多いマーケットの地面でもスムーズに移動できる。
「ルース、カナタ。引き続き情報収集と連絡の中継を頼む」
「任せて」ルースが端末を片手に頷く。カナタも気合を入れて「バッチリっす!」と胸を叩いた。
「じゃ、先に行ってるね!」
蒼のダグから出たシアンの閃光が軌跡を描き、駆動音とともに車体を宙へ浮かす。後に続いて黒いダグもゴールドの光を帯びて滑り出す。二台の機体が朝焼けを裂くように瓦礫の街を越えてゆく。滑らかに空を駆け、まもなく背は見えなくなった。
2
一夜明けて、マーケットには腐臭が漂いはじめていた。食材や作物のものか、犠牲者のものかは分からない。その中で復旧作業は始まっていた。
ジェラードと龍道が操縦するトラクターが、崩れた瓦礫を押しのけていく。慎重に鉄骨をどかして、一歩ずつ進める。
「まだまだ時間かかりそうだな」ジェラードが流れる汗を腕で拭う。
「仕方ねえよ。次は手作業だ」
龍道は、レバー付きジャッキを肩に担ぎ、地面へ降り立つ。
その時、急ぎ足で駆けてくる女性の姿があった。マーケットで食堂を営んでいた遥は、龍道を見つけると、不安を隠しきれない表情で呼び寄せた。
「龍道。ちょっと、いい?」
「おう、
「子供たちが、今朝から行方不明なの。うちのナツ、それにルイくんと
ジェラードが振り返る。「行方不明?」
「昨日の夜は避難所で一緒だったんだけど、朝、いなくなってて」
「外には?」
「いない。周辺をずっと探してるけど姿が見えない。迷ったのか、怪我して動けないか……もしかしたら連れて行かれたのかも」
龍道は息を長く吐き、マーケット全体を一望した。
「俺が行ってやりてえが、分担的に今日は手を離せねえ。蒼も……今動けなさそうだな」
視線の先では、蒼が住民とともに旧施設の大柱を直していた。手順を指示し、固定金具を取り付けている。
「透流と瀬司に連絡する。待っててくれ」
遥は緊張した表情を崩さずに頷いた。その手は微かに震えていた。
龍道から状況を聞いた瀬司と透流は、すぐに動き出した。
「ルース、子供が三人行方不明だ。昨夜から今朝、マーケット上空の巡回ドローン映像を解析してくれ」
『わかった。急いでデータを取るわ』
瀬司は端末を閉じ、現場の避難所へと向かった。シェルターを管理している青年から明け方までの様子を聞き出す。その間、周囲を探索していた透流が物陰から声を上げた。
「なあ、こっち」
シェルターの裏手に、不自然な擦過痕。
瀬司が指でなぞる。
「痕跡の消し方が雑だな。そこまで隠すつもりもないのか……あるいは素人か」
それは外周へ続いていた。間を置かずにルースから連絡が入る。
『近くの廃病院跡に動きあり。明かりがついていて、人の出入りも確認できる。おそらく四人程度。上空からのデータと何カットか写真を送るわ』
その直後、ドローンのハッキングデータが届いた。目の前の痕跡と画像の軌跡が一致する。確かに廃病院の裏手に人影が記録されている。
「病院?」透流が眉をひそめる。「あそこは誰も使ってないはずだろ」
二人は小声で会話を続けつつ、廃病院近くの崩れかけた塀の裏に身を潜めた。今いる場所から人影は見えない。
ルースがリアルタイムの映像をもとに指示を出す。
『入り口は今、二人がいる場所から見て、正面と東側。二手に分かれて』
「俺が正面」透流が即答する。
「東から回れ。突入はカウント五」瀬司は冷静に返す。
『はいはい、張り合い禁止。瀬司の言う通りに』ルースのため息混じりの声が返ってきた。透流は苦虫を噛み潰したような顔で承諾する。
3
病院跡は昼間にも関わらず、薄暗く視認性が悪い。だが、埃にまみれた床には軍靴の跡が残っていた。
「この靴底……プレトリアの兵士か」
瀬司は目を細めた。
素早く端末を取り出し、靴跡を記録を終えると、周囲を注意深く見回し、足を進める。
『正面クリア。敵の反応なし』瀬司は端的に無線で連絡を取る。
『了解。こちらも反応なし』透流も淡々と返した。
何も起きることなく、朽ちた躯体が露出した吹き抜けのラウンジで合流した。ラウンジ中央には風化したソファが打ち捨てられ、二階へ続く非常階段が片隅に、寂しく残っている。上階には破れたカーテンが風に揺れていた。
瀬司は周囲を確認し、手で合図する。
透流は頷き、続いて西側廊下へ進む。床に残る破片を踏まないよう注意を払い、気配を殺して移動する。
視界の端、吹き抜け越しに隣室の光が一瞬揺れた。
「いた」
瀬司は目線だけで合図をし、透流は別の角度から、慎重に室内を回り込む。
ターゲット、補足。
ガラスのない朽ちた窓枠に、瀬司はライフルを音もなく構えた。スコープ越し、プレトリアの兵士が痩せた少年を壁際に押し付けている。
拳が振り下ろされる直前——
「軍規違反。第六条二項、即時処分」
次の瞬間、銃口から無音の閃光が走る。空気が揺らぎ、次の瞬間、男のこめかみに小さな穴が空いた。崩れ落ちる兵士だった影。壁際の少年は驚いて硬直している。
「……は?」
薄暗がりの中、吹き抜け越しに撃ち抜いた正確さに、透流は絶句する。その驚愕を背に、瀬司の動作は機械を思わせるほど冷ややかだった。スコープのサイドに埋め込まれた赤いインジケーターの点滅が妙な存在感を放つ。
透流は、三人の子供たちへ駆け寄った。
壁際で怯え、肩を寄せ合っている。「全員いるな」との呼びかけに子供たちは、こくりと頷いた。木の破片を踏んだような乾いた音が聞こえた。
反射的にナツと璃音を両脇に庇い、ルイを背に守る。
非常口の影から銃声。
粉塵が爆ぜ、壁に弾痕が穿たれる。
「くそっ!」
子供たちに覆い被さり、伏せさせる。銃弾が頭上をかすめ、背後の壁に突き刺さった。
頭を上げるより先に、光が走った。
鋭い熱とともに眩い光条が空気を裂き、背後に迫った兵士の眉間を正確に撃ち抜いた。影は声もなく崩れ落ちる。
一瞬、息を呑む。
涼しい顔をした瀬司が部屋に現れた。
「お前、さっきから正確すぎんだろ」
「外す理由がない」再びライフルを構え、廊下に出た。
透流は腰が抜けたルイを背負い、小声で言った。
「いいか、俺から絶対に離れるな」
ナツは涙目で頷き、差し出されたベルトの端をぎゅっと掴む。そして、自分の反対の手を璃音の手に絡めて、しっかりと引き寄せた。璃音も小さく頷き、ナツの手を強く握った。
人の気配がする。索敵を続ける。
透流が曲がり角の暗闇の中でちらりと反射した光を見つけた。兵士が、瀬司の死角から銃口を構え、にじり寄る。
迷いはなかった。手元のナイフが一閃し、空気を裂いて一直線に飛ぶ。鋭く放たれた刃は、兵士の喉元に深く突き刺さった。小さく呻きが漏れ、崩れ落ちる。
「右肩方向!」
その声と同時に、瀬司が半身行かない程度に向き直る。レーザーライフルが横一文字に構えられ、閃光が空を裂いた。光の弾道が兵士の肩を正確に貫き、男は呻き声を上げて仰向けに倒れ込んだ。
瀬司はゆっくりと歩み寄り、その胸元に銃口を突きつける。
「目的を答えろ」声音は冷たく、感情の起伏は皆無だった。
「知らねぇ」
「言え」
その一言に込められた威圧。放たれる殺気は、多少離れた位置にいる透流の肌にも、鋭く突き刺さる。
男は青ざめた一方で、悪態をついた。
「どうせ、お前ら〈選別落ち〉が知ったところでどうにもならねぇだろ」
銃口が、急所を外した胸の脇へと押し当てられる。男の喉がごくりと鳴った。
「……インペリウムからの指令だ、と言われた。詳細は知らねぇ」
「なぜ、あの三人だった」
カチリと安全装置が外れる音が響く。
「ほんとに知らねぇって。〈貴重な個体〉とか言ってたな。一度は捨てたくせに、ふざけやがって」
「なぜ暴力を加えた」
「逆らったからだよ。回収対象のくせに、こっちの言うこと聞きやしねぇ。あんなのが貴重で、また戻って良い暮らしさせてもらうとか、冗談じゃない」
「軍規を知っているか」
「知るかよ、そん——」
閃光が割り込む。
正確に、眉間を撃ち抜いていた。
静寂。
廃病院の廊下には、熱で焦げた金属の匂いが漂う。他に気配はなかった。
兵士の首元に触れ、完全に息が絶えたことを確認した。続けて、壁際に隠れていた子供たちのもとへ行き、しゃがみ込む。
「もう大丈夫だ」
ゆっくりと顔を上げる子供たち。瀬司は、その状態を目視する。腕に注射痕。顔色は悪いが、ルイ以外は他に大きな外傷はなさそうだ。
ルイは安堵したのか、腫らした頬を押さえ、急にしゃくりあげて泣きだした。小さく上下する背にそっと手を当てる。
少し落ち着いたところで、瀬司は立ち上がり、声をかけた。
「透流、戻るぞ」
しかし、答えはなかった。
彼はまだ、ナイフを強く握ったまま、動けずにいた。
「どうした?」
もう一度呼びかける。
彼の視線は、ルイの頬に釘付けになっていた。
4
腫れた頬に、過去の自分が重なった。
視界が霞む。
まだ少年だった頃、この荒れた街に捨てられた。彷徨い歩いて辿り着いた路地。
やっとのことで見つけた大人がくれたものは暴力だった。痛みを感じる間もなく襲う衝撃に這いつくばるしかなかった。何とか生きながらえた後に触れた頬は、自分のものと思えないほどに腫れ上がり、指先の感覚がなくなるほどの恐怖があった。
呼吸が詰まる。
世界が歪む。冷たい指先が喉元を掴まれたかのごとく、酸素を吸うことができない。足元から崩れていく錯覚。
瀬司が、彼の肩を掴んだ。
「戻ってこい」
低く、鋭い声。
瞳が、かすかに揺れる。
「……瀬司」
透流は、握りしめた拳を緩め、ゆっくりと深く息を吐いた。意識が、ゆっくり現在へと戻ってくる。
「わかってるよ」
震える手でナイフを収めた。まだ、息が荒い。
「ルース、終わった。子供は確保。全員無事だが、怪我をしている。できれば紗月がいいだろう。迎えの手配を頼む」
『了解。手配するから、少し待ってて』
通信の向こうで、ルースが安心して、小さく息をつくのを感じた。無線をオフにする。
透流は、呼吸を落ち着かせようと、まだ不安そうな子供たちの頭を撫でていた。
全員で廃病院の外に出ると、透流はようやく平静さを取り戻した様子で、瀬司の言葉を思い出した。
「なあ、さっき『軍規違反』って言ってたろ?」
声の方に目を向けることなく、さらりと答える。
「言ったな」
「あれ、何?」
「政府軍の軍規。俺も元々いたって話しただろう」
「インペリウムの調査部隊、だろ?」
「それも軍の一部隊だ。プレトリアも軍規は変わらない」
「内容まで覚えてるもんなのか?」
「嫌というほど、暗唱させられたからな」
「第六条の二項。人道的介入の優先。非戦闘員、特に子供への不当な暴力は即時処分対象。それから、第六条の三項。同所属内での看過も同様の処分を受ける」
「つまり、今回の奴らは?」
「軍規違反の現行犯。ま、そういう正当性でもあった方が格好がつくだろう」皮肉げに口元を歪める。冗談めいた良い回しとは裏腹に、冷えきった瞳の奥には、いっさいの感情も映っていなかった。
透流は無言で足元の死体を見下ろす。
「こんなやつらが政府軍の正規兵なのか」
瀬司は一拍置き、転がる死体を一瞥した。
「軍人の皮を被っただけの肉の塊だ」
透流は何も言わずに眉間の風穴を見ていた。
しばしの沈黙が流れる。
やがて、遠くからモーターの駆動音が近づいてきた。瓦礫の間を縫い、ホバートラックが浮遊機構を軋ませ、滑り込むように止まる。
「お待たせ! 璃音、ルイ、ナツ、みんないるね。よかった」
後部ドアが開き、紗月が顔を出し、素早く子供たちを促した。紗月を見て安心したのか、子どもたちは迷うことなく車内へと滑り込む。
「三人とも右腕をチェックしてくれ。それから、暴行されていないかも」
瀬司が小声で紗月に言う。
「わかった。行き先なんだけど、診療所は今いっぱいで。今日はValkの拠点でお願いできると助かる」
瀬司は助手席に座り、自動走行先をベースに設定した。透流も後部座席に腰を下ろす。トラックが、ふわりと動き出した。
しばらくして後方のフラットシートから紗月が声を上げる。
「三人とも薬物やの心配はなさそう。貧血気味だから血を抜かれたのかもしれない。でもルイの頬以外は擦り傷程度の軽傷ね。瀬司くんの心配してたこともなさそう」
「そうか」声に安堵が滲んだ。
透流は前方の座席越しに、瀬司を見る。
暗紫色の髪が車体の不安定な動きに合わせて、揺れている。しばらくの間、その揺れを見つめていた。
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