第6話 日常再開

 朝の光が、いつものようにカーテンの隙間から差し込む。


 スーツに袖を通し、ネクタイを締める。

1週間の有給を終え、仕事に復帰する初日。


 会社に向かう足取りは、以前より軽い。

瀬奈との7年間が終わり、虚無感はまだ胸に残るが、笑顔を振りまける程度には気力を取り戻していた。


 引っ越しは、結局手つかずだが、すべてを急いで片付けるのは疲れるしな。

少し時間を置いてもいい。そう自分に言い聞かせた。


 会社に着くと、同僚たちの視線が集まる。

心配そうな目、好奇の混じった囁き。

佐藤先輩が近づいてくる。


 白髪の混じる髪、温かみのある笑顔。  


「佐渡、元気そうで安心したよ。下手したら自殺でもするんじゃないかって、ハラハラしてたんだぞ」

「はは…すみませんでした。迷惑かけて」と、俺は頭を下げる。


「いいってことよ。今日からまた頑張ってくれ」と、佐藤先輩が肩を叩く。


 先輩の言葉には、いつも背中を押す力がある。


 デスクに座り、書類を整理する。

モニターの光が目に眩しいが、頭はクリアだ。


 営業の資料をまとめていると、軽やかな足音が近づく。


「先輩! よかった、ちゃんと来られたんですね!」と、笑顔の三島ちゃんが立っていた。


 白髪が蛍光灯に輝き、大きな目がキラキラと光る。

彼女の笑顔は、いつも場を明るくする。


「何だよ、それ。三島ちゃんは俺の母さんか?」と、笑って返す。

「お、お母さんじゃないです!」と、頬をぷくっと膨らませる。


 彼女の天然な反応に、つい笑ってしまう。


「でも、顔色いいですね!安心しました!」

「ありがとうな」


 彼女の純粋さが、胸の重さを少しだけ溶かす。


 それから朝礼が始まり仕事が始まった。



 ◇


「疲れた…」


 定時で仕事を終える。


 久しぶりの仕事で、体が予想以上に重い。

営業の移動やデスクワークで、筋肉が鈍っているのかもしれない。


 エレベーターに乗りながら、スマホを見る。


 あれ以来、LINEも電話もない。

荷物も送り終え、慰謝料の話も一応終わった。もう関わる理由はないのだ。


 夕食を買ってから、家に帰ると、夕暮れのオレンジがアパートの外壁を染める。


 マンションの玄関を開けると、オートロックの前で待っている女性が1人。


「…我妻さん?」

「よっ、佐渡。無事、離婚できました」と、我妻が左手の薬指を見せる。


 指輪のない指が、夕陽に光る。


「向こうの親も巻き込んでの大騒動だったけど、たっぷり慰謝料もらえたから、裁判まではしなくて済みそうだわ。あー、一件落着」

「…そっか。よかった…のか?」


 俺は戸惑いながら答える。

彼女の軽快な声に、安堵と不安が混じる。


「うん、よかった。でさ、ちょっとお願い」と、彼女がキャリーバッグを指す。


「家、なくなっちゃったから、しばらく泊めてくんない?」

「…前に言ってたの本気だったのか?」


 てっきり冗談だと思っていた。


「超本気」我妻が目を輝かせる。

返事を待つ気配もなく、キャリーバッグを引きずってオートロックをくぐる。


 仕方なく、俺は彼女を家に通すことにした。

リビングに着くと、彼女がキャリーバッグを開ける。


 服や化粧品が詰まった中から、コンビニの袋を取り出す。


「ほら、ビールとおつまみ。 私の歓迎パーティーしよ」

「てか、泊まるって言ってもお客さん用の布団、ないぞ」と、俺はため息をつく。


 瀬奈の部屋は空いているが、彼女の私物はもうない。


「一緒に寝ればいいじゃん」と、我妻さんがニヤリと笑う。


 黒のトップスが揺れ、胸の谷間が垣間見える。


「…いや」

「おっぱいちょい揉みくらいなら、許してあげるよ?」と、彼女がイタズラな笑みを浮かべる。

昔から、こういう突拍子もない冗談が彼女らしい。


「そんな、いかがわしい関係になる気はない」と、俺は冷静に返す。

「真面目だねー。じゃ、おっぱいちょい飲みくらいはどうでちゅか?」と、彼女がわざとらしい赤ちゃん言葉で言う。


 中学時代の教室で、俺をからかっていたあの笑顔だ。


「…ご所望してません。てか、いつまでいる予定だ? 引っ越しはすぐじゃないから、空き部屋を使う分にはいいけど。長居するなら、布団くらい買った方がいいぞ」

「布団は嫌。どうせならベッド。2人で寝るなら…ダブルかな?」と、彼女が目を輝かせる。

「なんで俺も一緒に寝る前提なんだよ」

「え、面白そうだから?」

「…はいはい、お任せしますよ」


 説得することは諦め、ソファに沈む。


「いっそ、ルームシェアってどう? 割と本気で」


 我妻がビールの缶を開けながら言う。


「ここ、いい部屋じゃん。職場からも近いし、慰謝料ガっぽりもらったけど、お金は大事にしたい。家賃折半なら、ちょうどいいでしょ」

「…男女が2人でルームシェアというのは」

「やっぱエロいことしたいんじゃん」と、彼女が笑う。


「ま、それならお互いに彼氏彼女ができるまでは、いいんじゃない?」


 我妻が、瀬奈の使っていた部屋にキャリーバッグを置く。


 元妻の部屋に、どんどん荷物を広げる。

服をハンガーにかけ、化粧品を棚に並べる彼女の動きは、まるで自分の家のように自然だ。


 夕陽がカーテン越しにリビングを染め、ビールの泡が弾ける音が響く。


「…はぁ、しばらく一人になりたいんだけどな」俺は呟く。

「一人部屋あるんだし、いいじゃん。何? 私じゃ不服?」


 我妻がソファに座り、ビールを飲み、コンビニのスナックがテーブルに広げながらいう。


「そうじゃないけど…」


 俺は言葉を濁し、ビールを手に取る。

会話する気力を失い、ただ彼女の軽快な声を聞く。


 それから彼女が語る離婚騒動の詳細、慰謝料の金額、元夫の情けない言い訳を聞いた。


 彼女の声は軽いが、流石にどこか疲れた影がある。

俺も一歩間違えばこれくらい揉めていたのかもな。


 そして、夜が更ける。

ビールを飲み終え、ソファでのんびりしていると、インターホンが鳴った。


 心臓が跳ねる。


 モニターを確認すると、そこに立っていたのは…三島ちゃんだった。


 白髪が街灯に輝き、大きな目には緊張と心配が混じる。


 仕事終わりのスーツ姿、手には小さな紙袋。こんな時間に、なぜ?


「…三島ちゃん?」


 俺が呟くと、我妻がソファから身を乗り出す。


「お、誰? また元妻?」と、彼女がニヤリと笑う。


 そして、モニター越しに、三島ちゃんの白髪を見ると、「何この超絶美少女。高級デリヘル?」とか聞いてくる。


「俺の後輩だよ。…どうしたの?三島ちゃん」

「あっ、すみません!その…実は家のお風呂がどうやら壊れちゃったみたいで…しばらくお家が使えないみたいで…!その…よければしばらくお世話になりたいかな…とか…//」という横で突然喘ぎ声を出し始める。


「ぁっん!//はげしぃよぉ!!//」

「お、おい!!」


 画面越しの三島ちゃんの顔が一気に赤くなる。


「あぁ…えっと…その…お、お邪魔でしたか!す、すみません!」

「い、いや違うから!これは友達の悪ふざけで…!//」と、我妻の口を押さえながら何とか説明する。


 そして、家にあげることになった…のだった。

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