第二幕 邂逅の怒涛に

 激しい浮遊感と、身を包む暖かな感覚に由芽は身を任せる。さながら川上から流れる軽石にでもなったような気分だった。

 視界一杯に広がっていた閃光は次第に晴れ、馴染みのある世界の色を映し出す。

 暗雲が立ち込める闇夜の空。遠方に見える巨木は枯れ切って緑を伴わない。足元を見れば人の侵入を許さぬ排他的なまでの切り立った地。

 撤回しよう。いくら由芽のこれまで見て来た世界が謀略渦巻く黒々とした世界だったとはいえ、この景色と同一と言い張るのは流石に無理がある。

 我々が幼少期より伝え聞かされてきた地獄と同一とは言えぬまでも近しい物がそこにはあった。

「な、なんですか…これは…」

 ズドン!と大きな雷鳴が由芽の耳を出迎える。その雷鳴と共に雲間から現れたのは山と比較しても遜色ないほどの巨大な竜。鱗の一片ですらも由芽の肉体を上回る大きさ。白というより灰に似た巨竜の身体はあまりにも規格外であった。

「不遜であるぞ…人間とやら…我を謀ろうと…そういう魂胆か?」

 竜の発声に大気が震える。砂埃が舞い上がり、由芽の振袖を大きく揺らした。

「謀る…?私、世俗に疎いものでして知らずのうちに無礼を働いてしまったようですね…どうか、巨竜様お許しくださいませ…」

 由芽は慎ましやかに頭を下げる。鼓動の高まりに限界を感じるほどに由芽の思考を規格外のファンタジーが埋め尽くしていた。

 憧れ、恐怖、動揺、失意、後悔。あらゆる感情がせめぎ合って由芽は窮地に立たされる。

「なるほど…あの老父ではなく貴殿が地球とやらの代表か…」

 言葉の選択を謝れば命すら危ぶまれるこの状況。通常であれば何人たりとも生きては帰れない。だが、相手は花宮由芽であったから。

「代表…?ふふっ!ふふふふっ!そうですか!そうですか!」

 ほがらかに笑みを浮かばせた。それは屈して堪る物かと言わんばかりの恐れと興奮が混じりあって出来た笑み。その笑みに巨竜は首をすくませる。

 例えそれが人間であっても動物であっても、ましてや世界の創世を成した巨竜であっても等しい物。 

 即ち、不気味な物を見た時の反応は一様であるという訳である。

「あぁ…そうですね!そうでしょうね!臆してなどいられない…ここはいずれ私の世界にもなるのですから!」

「人間…貴様、どうして我を恐れない…我は絶対的な…」

「よいよい!よいのです!そんな事!」

 それは、もはや呪いと呼んで差し支えないほどの完璧なまでの処世術。

 それは、かつての由芽が編み出した絶対的な心の支柱。

「絶対的な表現の才が私にはありますもの!この未知の世界すらも取り込んで見せましょうとも!」

 窮地であればある程に稀代の天才、花宮由芽という役を信ぜよと。それが彼女の業であった。

 少女は振袖を大きく振り、蝶よ花よと舞い踊る。日本の舞踊は彼女の表現からすれば遅く、それでいて味気がなかった。だがこの世界はその由芽の想いに応えられる。

 由芽の心中はと言うと恐怖こそあれ、それはそれは嬉々としたものであったはずだ。

 なにせ、日本文化の持つ神仏の価値表現そのものが馬鹿馬鹿しく思えるほどに神様というものも一人の生物で、哀れみさえ向けられる対象であると由芽は知れたのだから。

「巨竜様、あなたに私は殺せない!何故ならあなた様から未知への興味が伝わってきますもの!あぁ…!あなた様とならどんな我儘でも叶えられてしまいそう…」

 滑らかに舞う少女。次第に帯紐がその舞いに合わせて宙を舞う。極彩色の仮紐は葉桜のように少女を彩り、青々と少女は輝き出した。みずみずしく、若い蒼。

「貴殿…貴殿は一体何なのだ…」

 巨竜は知らない。神の気まぐれで世界に蔓延る彼らを従属させる方法を、恐怖以外には。

「ふふっ!うふふふっ!」

 巨竜に向き直り、肩を露わにした少女は口元を隠す。それは慎ましやかな淑女の所作。煌めく瞳は揺るがない。機を逃さぬその切れ長が巨竜を刺した。

「どこにでも居る名家の箱入り娘、名を花宮由芽と申します!」

 僅かばかりの震えを完璧と言えるほどに抑えつけ、由芽は巨竜に宣言する。

 由芽の周囲を照らしていた蒼が隊を成して輪を作りだした。

「これは…妖精でしょうか?思った以上に鬱陶しい…」

「妖精が…?何故異世界人に靡いている…?」

 忙しなく飛び回るその精は華やかに由芽という存在を彩り続ける。

 これにてようやく対等。つまりは由芽の手番が回ってきたと言えた。

「巨竜様、私とお話いたしませんか?互いの目的とこの世界の輝かしい未来について…」


**********


 一方その頃、潰れた虫のように地べたに這いつくばり悶える老父が一人。

「ぐっ…うぅ…あのクソガキめ…」

 鈴村和彦すずむらかずひこ、御年48歳。花宮家の一人娘、またの名をクソガキに長らく仕える従者である。

「ここは…異世界…?」

 一見すると内観は宿のよう。だがヒノキやケヤキといった住宅に用いられる木材とも少し違う香りが鈴村の鼻腔をくすぐっていた。

「ぐっ…」

 鈴村の背に広がる鈍い痛み。鈴村の脳裏には扉に吸い込まれる前に見えたあの景色が蘇る。

「っ…!クソっ!」

 やり場のない怒りを抱えた鈴村はその背に感じる痛みをそのままに床を拳で突く。

 スピーチも終え、後は扉をくぐるだけ。その筈なのに由芽はここへとやってこない。つまりはそういう事だ。

「人柱…という訳か…私は…」

 巨竜とやらの干渉を感じない。由芽が後から来るわけでもない。孤独な鈴村。もはや元の世界に戻ることは不可能だと思われた。

「はは…そうか…そう…なるのか」

 友人、家族、職場の後輩達。たまの休日に美味しいカフェを求めて練り歩いた休日もあてもなくドライブをすることも、もう二度と叶わない。

「うっ…うぅっ…!」

 鈴村の頬を伝う涙。紛れもない悲しみの涙だった。

「…あ」

「こんなはずじゃあ…なかったんだがなぁっ…!うっ…くっ…」

 しゃくりあげて泣く鈴村。

「あ、あのー…」

「呪ってやる…ここで諦めてたまるか…絶対、絶対に…」

「だ、ダメですっ!」

 背後に立つ何者か。それが何者かを知りたいという想いよりも先に、恥辱の情が鈴村の全身を襲った。

「う、うぉおおお!?」

 目を赤くし、伝う涙を拭う事すら忘れて鈴村は後ろの存在に背を向けたまま立ち上がる。重力が頭の方に向いていると錯覚させるような程直立した姿勢。鈴村の紳士としての矜持がこの瞬間だけは上回っていた。

「呪うなんてそんな…だ、駄目ですよっ!」

 今更取り繕うことなど出来やしないと鈴村とて理解している。だが、それが何というのだろう。

 どれだけ過ちを犯しても、どれだけ恥辱に塗れようとも立ち上がりさえすれば勝利と言える。鈴村はそう考える漢だった。

「こほん…失敬。少々取り乱してしまいましたね」

「え…あ、いや…だ、大丈夫ですか…?」

「何がでしょう…?」

「さっきまでの嗚咽…いや、呪うって…」

「それは言葉のあやという物ですよお嬢さん」

 背を向けたままの鈴村は紳士然と雄弁に語り始める。

「あ、アヤ…?」

「我々の世界での呪いは何も負を産むだけではない。正を産むこともあるのです呪うまじなうとも言います」

「まじなう…ですか?」

「確実性などはないですが、それは災いや災厄を取り去るために神仏と祈りを捧げる行為をさすのです。先程私が口にしたのはそちらの意。愛する者を想い、神へと祈りを捧げていただけの事」

 身振り手振りを加えて鈴村は語る。さりげなく頬の涙の粒を拭いきる為に。

 上ずって呼吸がままならなかった肺も言葉を吐き出すことで落ち着きを取り戻し始めていた。

「ですから、呪いとは誰かへの愛する気持ちが根底には伴っているものなのです」

 スーツのネクタイを正し、鈴村は意を決して背後の存在の方を振り返る。

 鈴村も思いはしなかった。まさか、自分の口をついて出た呪いの言葉を誤魔化した先にこんな呪いを目の当たりにするなどとは。

「っ…!?」

 そこには柔和な印象を抱かせる声音からは想像もできないほど暗く淀んだ雰囲気の存在が居た。

「じゃ…じゃあ、一緒に…来ます?何というか…アナタとなら優位に立てそうというか…」

 彼女への第一印象は貧乏神。服はボロボロで黒ずんでいる。その上、背格好も歪み切っていて何故だか裸足だった。

 抜群のプロポーションも綺麗な黒の長髪もそれらのせいで全くの台無しであった。

「ま…取り敢えず行きません?」

「な、何を言って…」

 鈴村の右腕を掴む女。その瞬間、鈴村の全身を冷ややかな汗が伝った。

「な、何なんだぁ!!今度はぁ!!?」

 悪寒、恐怖、マイナスの感情が腕を通じて鈴村の中に流れ込む。だが、それでいてなお抵抗は出来ない。またしても女の膂力が強すぎた。

 鈴村は引きずられるようにして突如現れた黒々とした扉をくぐる。

 彼は海を流るる漂流物のようにもはやその身を預けることしかできなかった。

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