昆虫採集

野々村鴉蚣

なつやすみ

 夏休みの朝は、なんだか特別である。目覚まし時計が鳴るより先に、体は勝手に起きてしまう。もちろんこれは、決して昨晩早寝したからではない。

 今日は何かが起こるような気がする――そう思わせる、そんな匂いがする。


 八月に入ってすぐの朝、私はまだ寝ている弟を横目に、そっと布団から抜け出した。風もないのに揺れるカーテンの隙間から、すでに明るい日が差し込んでいた。夏の太陽は誰よりも早起きだ。

 私は台所で背伸びして、蛇口を捻ってコップに水を注ぎ入れる。そいつをコクコク飲み干せば、自然と瞼もパッチリ開いた。


 夏休み真っただ中、こうして早起きしたのには理由がある。私は今日という一日をどのように活用するのか、もう心に決めていたのだ。

 今日はやるべきことがある。そう、父に教わった昆虫トラップを試す日なのだ。

 昨夜、母に貰ったストッキング。父とスーパーでお買い物して、ついでに買ってきたバナナ。ちなみにバナナは数日前から準備して、真っ黒に変色するまで放置してある。蜂蜜はティースプーン一杯だけ。お酒はほんの少し、料理用の日本酒が、台所の脇に放置されている。


 全部をまぜて袋に詰め、ぐにゅっと音が鳴るくらいに揉みこんだ。嫌なにおいが漂ってきたが、それが虫を呼ぶのだと、父は言っていた。

 両親にも内緒の、人生初の料理である。食べてもらう相手は人間じゃない。私が一方的に恋する相手だ。

 ビニール袋の中でグチョグチョのゲル状に変化した発酵臭凄まじい物体を覗いて、私は自然と笑みがこぼれた。

 父から聞いた話と全く同じだ。間違いない。レシピ通りに調理できたらしい。

 私はビニール袋とストッキングを持ったまま、忍び足で靴を履き、玄関を開けた。


「行ってきます」


 小声で呟く。あと一時間もすれば両親は起きてくるだろう。弟が起きるのはまだまだ後だ。

 大人というのは忙しい生き物らしい。どうも、夏休みが無いみたいなのだ。父も母も、朝は慌ただしく家を飛び出していく。きっと私が先に家を出たことなど気づきもしないだろう。

 まだ朝だというのに、外は既に灼熱を帯びていた。クマゼミの大合唱が聞こえてきて、鼓膜が揺れ心が躍る。

 いや、今日の目的は蝉採りではない。チラリと虫取り網に目をやってから、首を横に振った。

 目指すは近所の森である。庭に置かれていた青い自転車に跨って、籠の中に本日の主役を放り込む。忘れ物は無いか一応確認。ポケットの中には子供用スマホと家の鍵。お小遣いが入ったガマグチ。うん、問題ない。


 私は自転車のストッパーを外すと、そっとペダルをこぎ始めた。

 早起きのカラスが電信柱の上からカァと鳴く。朝の挨拶ご苦労様だ。


 森は、家から自転車で十五分ほどのところにある。畑を通り抜け、坂道を上り、林を抜けた先に、その場所はあった。小さな祠があるだけの、誰もいない小さな森。カブトムシやクワガタが集まるのは、そこにある朽ちた木の群れだ。

 以前父が言っていた。カブトムシやクワガタムシのような甲虫たちは、普段樹液を吸って生きているのだと。そして、その樹液のなる木にトラップを仕掛けなければ、あまり効果が無いのだと。

 大丈夫、どれがカブトムシの好きな木かは、しっかり覚えている。クヌギかコナラだ。クヌギもコナラも、どんぐりのなる木。そして、この森にはクヌギの木がたくさん生えているのだ。

 クヌギの特徴は、なんと言っても黒みがかった木の幹だ。他の木と比べても、明らかに暗い。そして、表面の凹凸が非常に激しいのが特徴である。行ってしまえば、ゴジラの肌みたいにボコボコなのだ。

 もちろんそれだけで判断できるほど、私はクヌギという木について詳しくはないし、自身も無い。

 だから、何本か目星をつけたら続いて葉っぱの形を確認する。

 葉っぱの形もまた、特徴的なのだ。


 クヌギの葉は細長くやや革のような光沢が見られるのだ。つやつやとしていれば、その木はクヌギである可能性がかなり高い。そして葉の先端には白っぽい小さな棘がついている。チクチクするのだ。

 うん、間違いない。私が怪しいと思った木は、間違いなくクヌギのようだ。

 さらに確信を得るためには、どんぐりが生っているかどうかを調べればいいのだが……。

 まぁ、そこまで確認する必要もあるまい。


 私は自転車籠からビニール袋とストッキングを取り出すと、袋の中に入っているゲル状の物体をストッキングに詰めた。

 最初はビニール袋を傾けて、ストッキングの中に落とすつもりだったのだが、無理だった。手が足りない。

 ビニール袋の口を広げる二本の手、ビニール袋を傾けるもう一本の手、そして、ストッキングの口を開くための二本の手が必要だと気づいたのだ。三人くらい必要かもしれない。


 どうやってストッキングの中にバナナを詰めるか試行錯誤した結果、もう手掴みで行くことにした。

 ビニール袋に右手を突っ込み、ゲルをすくい上げる。そして、ストッキングに無理やり押し込むのだ。上手くはいかない。最初からストッキングの中で料理するべきだったかもしれない。

 結局、ストッキング全体がべちゃべちゃになってしまった。悪臭が右手にこびりついて嫌な気持ちにさせられる。

 いや、我慢だ。これは虫をゲットするために必要なプロセス。これを乗り切らなければ、甲虫ハンターにはなれない。


 私は、木の幹にトラップを括りつけた。茶色のストッキングが枝にぶら下がって、風に揺れていた。ほんの少し、揺れるだけで、甘いにおいが漂う。あとは、待つだけだった。


「よし、帰ろう」


 私は右手を落ち葉で拭いてから、自転車に跨った。

 それから必死にペダルをこいで家に向かう。

 帰宅して、そっと自転車を元あった場所に戻して家の中に忍び込んだ。

 どうやらまだ両親は起きていないようだ。


「ラッキー」


 私は急いで両手を洗った。額の汗をフェイスタオルで拭き取っていると、母親が寝室からものすごい勢いで駆け下りてきた。


「ヤバイ、遅刻遅刻」


 母は洗面台に駆け込み、顔を洗い、歯を磨く。それから大声で父を呼ぶのだ。


「あなた! 早く起きないと遅刻するわよ!」


 いつもの光景だ。


「あら、シュン。起きてたの。朝ご飯冷蔵庫に入ってるから適当に食べてね。あと、遊びに行く前にどこに行くのか必ず連絡すること。変な人について言っちゃダメだからね。あと冷蔵庫の奥にプリンあるけど、お兄ちゃんなんだからちゃんと二人で分けなさいね。一人で二つ食べたらだめだからね。それと、ちゃんと夏休みの宿題すること。ゲームしすぎちゃダメだからね」


 私の姿を見るや、母はまるでマシンガンの様に言葉を羅列した。


「はーい」


 私はわざとらしくあくびをして、コップ一杯の水を飲む。


「もう、あなた! 早くして。置いていくよ!」


「もうすぐだから待って。エンジンかけといて」


 寝室から父の声がする。母は苛立った様子でカバンを手に、家を出て行った。それからしばらくして、父がネクタイとカバンを手にして飛び出してくる。シャツのボタンも閉めていない。

 いつも通りの日常だ。


「お、シュン。早起きだな。冷蔵庫にプリン入ってたぞ。食べてていいからな」


「はーい」


「戸締りだけよろしくな。よし、行ってきます!」


 父も玄関を開けて、飛び出していった。二人とも絶対に朝食は食べない。いつも通りの光景だ。

 私は、冷蔵庫を開けて、中に入っていた野菜炒めを取り出すと、それを電子レンジに入れた。

 弟が起きてきたら、二人でこれを食べることにしよう。


 結局、その日一日はいつも通りの夏休みを過ごした。

 一応、ちゃんと宿題も進めた。特に漢字ドリルは進みがいい。あと数日もすれば全部終わるだろう。


 翌朝、早起きをした私は、誰にも言わずにまた森へ向かった。ワクワクしていた。心臓がどくどくするのを感じながら、自転車のペダルをこいだ。


 森に着くと、トラップにたくさんの虫が集まっていた。大きなノコギリクワガタ、小さなコクワ、そして――真っ黒なボディに立派なツノを持った、立派なカブトムシ。

 私はそれを手のひらに乗せて、しばらく見つめていた。カサカサと足を動かしている。命の音がした。思わず「すごい」と声に出た。


 帰り道、私はそれを虫かごに入れて、自転車のハンドルにぶら下げて走っていた。風が気持ちよくて、カブトムシの重みが、嬉しくてたまらなかった。


 すると、道の向こうからチヒロくんが歩いてくるのが見えた。


「おお、シュンじゃん! なにそれ!」


 私は胸を張って、虫かごを持ち上げた。


「カブトムシ! でっかいやつ! 昨日トラップ仕掛けたんだ!」


「まじで!? すげえなあ……!」


 チヒロくんは虫かごに顔を近づけて、じっと覗き込んだ。彼の瞳が、カブトムシのツヤに映っていた。


「なあ、それってどうやって作るの?」


「え?」


「その……トラップ。俺にも作り方教えてくれよ」


 私は、少しだけ考えた。父にしか教わっていないことだった。でも、別に誰かに見せるなとは言われていない。

 それに、チヒロくんは私の友達だ。


 だから、私は全部を教えてあげた。バナナの選び方も、お酒の量も、ストッキングの縛り方も。チヒロくんはうんうんと頷きながら聞いていた。


「ありがとな、シュン!」


 そう言って、彼は嬉しそうに帰っていった。なんだか、先生になった気分だった。人に何かを教えるのは、こんなに気持ちのいいことなんだ。


 私は、次の日から、昆虫採集のことをすっかり忘れてしまっていた。

 リビングの虫籠には大きなカブトムシ。お小遣いで買った甲虫ゼリーを美味しそうに食べている。


 夏休みはやることがたくさんある。

 自由研究のまとめを書いたり、父と映画に行ったり、友達とプールで競争したり、夜には花火をしたり。時間は、目の前にあるものにどんどん吸い込まれていって、あっという間に新しい思い出を刻んでは、様々な記憶を薄くしていった。


 だから、あの森のことも、気がつけばすっかり忘れていて、もう興味すらなくなっていた。せっかく覚えたクヌギの見分け方ですら、今はもう覚えていない。


 そんなある日の午後、ふと思い出した。あのストッキングはどうなったのだろうと。もう中身は腐ってしまったかもしれない。片づけなきゃ、とそんなことを思って、私はまた自転車に乗った。

 思い出した理由は些細なことだった。

 昼間に見ていたテレビ番組で、ポイ捨て問題についての特集をやっていたのだ。

 そういえば、私は例のストッキングを片付けなかった。あれはゴミだ。自然物じゃない。ちゃんと片付けないと。そう思ったのだ。


 森の入り口を抜けた瞬間、私は目を疑った。


 無数のストッキングが、木々にぶら下がっていたのだ。


 一本や二本じゃない。十、二十、いや、それ以上。風に揺れるその袋の中には、どれもこれも虫がびっしりと張りついていた。


 まるで宝の山だった。

 だが、不思議と、嬉しさはなかった。胸の奥がざわざわする。


 誰が……やったんだろう?

 そう思ったとき、すぐにチヒロくんの顔が浮かんだ。


 彼が、私の作り方を真似して、トラップを仕掛けたのだろう。


 私は、それを確かめるように森を歩きはじめた。草の匂いと、腐りかけたバナナの匂いが混ざっていた。虫の羽音が、耳にまとわりつく。


 しばらく歩いたあと、私は、妙な気配に足を止めた。


 一際大きな木。そこには、他のトラップとは違う、不自然に大きな袋が吊るされていた。


 近づいたとき、私はそれが「違う」ことをすぐに悟った。


 そこにいたのは、鳥だった。


 一羽の大きなカラスが、首を吊って死んでいた。


 目を見開き、くちばしには、カブトムシを咥えていた。

 きっと、トラップに寄ってきた虫を捕まえようとして、そのまま絡まって、抜け出せなくなって、そして――。


 私は、全身が凍ったような気持ちで、その場から動けなくなった。頭の中で、何かがぐるぐる回っていた。風が吹いて、ストッキングが揺れた。その振動で、鳥の体も揺れた。


 ガササッ、と音がして、私ははっとした。


 カァカァ、遠くで死の伝令が聞こえる。


 私は走った。転びそうになりながら、必死に自転車を漕いで、森を駆け下りた。

 森の麓まで戻ったとき、息が苦しかった。汗が目に入って、世界がぼやけていた。


 それから、私はもう森へ行っていない。

 トラップも、虫も、なんだか全部怖くなってしまった。


 だけど、今でもときどき夢に出る。


 あのカラスの目。咥えた虫。その揺れる音。


 夏の終わりが近づくと、ふと、あの森の匂いが鼻に蘇る。

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