第五章:刃潜む
エリナの策略でリディアが始めた慈善活動は、王都で『慈悲深き公爵令嬢』という評判を生み、二人が貧民街の診療所で誰にも怪しまれず会うための完璧な隠れ蓑となっていた。
「あなたの筋書き通りよ、エリナ。今や私は、民を愛する聖女様、というわけ」
皮肉めいたリディアの言葉に、包帯の奥でエリナの瞳が静かに細められる。
「ええ。その『慈悲』という名の仮面は、いずれあなたがアルデリーネ公爵家を継ぐ際の、強力な武器にもなるわ」
「それだけでは足りないでしょう?」リディアはベッドの傍らの椅子に腰掛け、本題を切り出した。「計画はできているの?」
その問いに、エリナはゆっくりと首を横に振った。
「いいえ。完璧な計画は、まだ立てられていない」
リディアはわずかに眉を寄せた。「足りないというの? 何が?」
エリナはリディアの焦りを冷静に受け止め、説明を始めた。「情報よ。今回はこれまでのようにただ失脚させればいい、というわけじゃない。明確に人を殺すの。そして、あなたに一切の疑いがかかることなく、公爵家の家督を確実に継がせる…。難易度が格段に違う。これまでのような帳簿や聞き齧りの情報だけでは、それは不可能だわ」
そして、エリナはリディアの想像を超えた、大胆不敵な提案を口にした。
「リディア。……私を、あなたの家に雇って欲しいの」
「……は?」
「あなたの慈悲に預かる、という形でね」エリナはベッドから身を乗り出す。その唯一見える瞳が、獲物を見定める肉食獣のように、爛々と輝いていた。「顔に火傷を負い、身寄りのない哀れな女を、あなたがメイドとして拾い上げた。これまでの慈善活動があれば、誰も不自然には思わないわ。貴族の目線では見えないものが、使用人の立場なら見えるはず。……この身を、あなたの懐に潜む『刃』として使って欲しいの」
公爵家の心臓部で、その腐敗を内側から喰らい、蝕む。リディアは、そのあまりに危険で、あまりに狂った計画に、恐怖ではなく、歓喜に打ち震えていた。エリナという名の炎を、ついに自らの屋敷に招き入れる時が来たのだ。
「ええ、ええ、もちろんよ、エリナ。……ようこそ、私たちの屋敷へ」
◇◇◇
リディアの「慈悲深き」願いに対し、アルデリーネ公爵夫妻は、案の定、あからさまに眉をひそめた。
「……メイド、だと?」書斎に響いた父の声は、不快感を隠そうともしない。「リディア、お前の慈善活動は家の名誉を高める上で確かに有益だ。だが、そのような得体の知れない、ましてや顔に火傷を負った女を、このアルデリーネ家の屋敷に住まわせるなど、正気の沙汰ではないぞ」
隣で扇子を揺らす母も、同意するように冷ややかに言った。
「ええ、そうですわ、リディア。使用人には、家柄も見た目の美しさも必要です。そのような者を屋敷に置いては、我が家の品位が疑われます」
リディアは心の中で彼らを嘲笑しながらも、完璧な令嬢の仮面を崩さず、悲しげに瞳を伏せた。
「……お父様、お母様。ですが、彼女はとても哀れなのです。私が見捨ててしまえば、彼女は生きてはいけません。それでは、私がこれまで行ってきた活動も、全て偽りだと言っているようなものではございませんか?」
娘の「善意」が、自分たちの「利益(家の評判)」と結びついている。その事実を突きつけられ、公爵夫妻は顔を見合わせた。しばらくの沈黙の後、公爵はため息と共に、渋々といった体で告げた。
「……よかろう。だが、条件がある。その女は、決して我々の前に姿を見せぬこと。厨房や掃除など、あくまで下働きとしてのみ雇うことを許可する」
「はい、お父様。ありがとうございます」
リディアは、心からの感謝を捧げるように、深く頭を下げた。その伏せられた顔の下で、唇が勝利の笑みを描いていることなど、誰にも知る由はなかった。
◇◇◇
こうして、エリナは「エラ」という偽名を使い、アルデリーネ公爵家のメイドとなった。顔の半分を覆う包帯の異様な風貌は、初めこそ好奇と忌避の目で見られたが、彼女の完璧な仕事ぶりは、すぐに周囲を黙らせた。陰口は、いつしか感心と信頼へと変わり、「エラ」という名の影は、音もなく、しかし確実に屋敷に溶け込んでいった。
ある夜、リディアの私室で。暖炉の火が二人の影を揺らしている。
「本当に大したものね、エリナ」リディアは感嘆の息を漏らした。「あっという間に使用人たちの信頼を勝ち取ってしまうなんて」
ランプの揺れる光の中で、エリナは静かに微笑んだ。
「信頼は最も効果的な隠れ蓑よ。多少不審な行動をとっても、『彼女のことだから何か事情があるのだろう』と、勝手に納得してくれる」
そう言って、彼女は本題に入った。盤石な信頼を隠れ蓑に、ついにこの屋敷の最も脆弱な血管を突き止めたのだと。
「標的は、あなたの母上付きの侍女長、マレーネ」
「あの忠実そうな女を?」リディアが意外そうに眉を上げた。
エリナの唇が、冷たい笑みを形作る。
「忠誠心など、己の欲望の前では脆いものよ。彼女は長年、屋敷の金を横領し、騎士団の若い将校と不貞を働いている。その確たる証拠を、この手で掴んだわ。弱みを握られた人間ほど、扱いやすい駒はないもの」
「それで、その駒をどう動かすの?」リディアの瞳が、暖炉の炎を映して妖しく光る。
「まず、彼女に『毒薬』を入手させる」エリナはこともなげに言う。「少量で確実に死に至り、かつ検死でも発見されにくい特殊な植物性の毒を。それが手に入ったら、あなたが動くのよ、リディア。あなたの父君の罪を国王陛下に告発する。そして――」
エリナはそこで一度言葉を切り、リディアの瞳を射抜くように見つめた。
「地位と権力を剥奪され、絶望した公爵夫妻は、二人で毒をあおり、後を追って心中した――私たちはそう『工作』するのよ」
エリナは言葉を続ける。その声には一切の揺らぎもなかった。
「万が一、工作が暴かれた時は、全ての罪を毒を手に入れたマレーネに着せる。横領の発覚を恐れた彼女が、凶行に及んだという筋書きよ。どちらに転んでも、あなたに疑いがかかることはないわ。あなたは、悲劇の令嬢として、誰からも祝福されて家督を継ぐことになるの」
リディアは、その完璧な筋書きに恍惚とした。だが、エリナは最後の懸念を口にする。
「ただし、この計画には一つだけ絶対条件がある。告発する不正の内容が、国王が、あなたの父君を弁護の余地なく、即座に切り捨てざるを得ないものでなければ、全ては水泡に帰すわ」
「その『不正』は、私がこの屋敷の書斎を探り、必ず見つけ出す」エリナは静かに、しかし力強く断言した。「リディア、あなたには侍女長マレーネの懐柔をお願いしたい」
「ええ。彼女の横領を不問にし、私が家を継いだ暁には重用すると約束すれば、喜んで尻尾を振るでしょう。けれど、後で脅迫されるような危険はないかしら?」
「心配ないわ」エリナは冷ややかに言い放った。「一度、人に言えない汚れ仕事に手を染めさせれば、彼女はもう後戻りできない。そして用が済めば、いつでも切り捨てられる。今回の計画が失敗した時の、完璧な生贄にもなるのだから」
二人の視線が交錯する。計画は、決まった。
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