第2話



 張遼の部屋を出て、


 扉の前を守っていた数人の兵士に挨拶をし、夜の砦の暗がりを明かりもなく歩き、角を曲がり人気の無い場所に来ると、陸議は立ち止まった。


 その途端、堰を切ったように涙が零れて来た。


 悲しいとか、嬉しいとかいう感情は無く、

 ただにおいて比類無い武将と向き合う緊張から解かれた、そういうきっかけだとは思うがよくは分からなかった。


 必死に答えて、伝えることしか考えていなかったが、

 要するに聞かれたことは「どう生きたいのか」ということだったように思う。


 自分がどう生きたいのかを、他人に言葉で説明することが、

 こんなに難しくて辛いことだとは思わなかった。


 ただ最後には張遼が自分という人間を受け止めてくれたような気がして、それは安堵した。


 これで心置きなく、明日は戦える。

 

 明日も、

 その次の日も。

 そう思ったら、涙が込み上げて来た。



(きっとこの道は間違ってない)



 祈るようにそう信じた。

 

 戦場で生きて、戦場で死ぬ。

 誰かや、何かを守るために剣を振るい、



 ――必ず誰かに必要とされる存在になる。



(そう出来れば、わたしは……)



 この世界のどこで、突然終わりが来ても。






「――――陸議殿?」






 砦の、柱の側で目を閉じ、気持ちが収まるのを待っていた陸議の肩が跳ね上がった。

 左の方を見ると、火の無い暗い通路の向こうから、姿を現したのは徐庶じょしょだった。

 彼は急いでやって来たようだが、声を掛けた陸議の目から大粒の涙が零れているのを見ると、さすがに驚いたように立ち止まった。


「徐庶殿」


 陸議は慌てて顔を拭った。


「戻られたのですね、すみません。私は……」


 誤魔化そうとしたが駄目だった。

 はっきりと、戸惑ったような表情を見せた徐庶と目が合ってしまった。


「私は、……本当に間の悪い……」


 片手で顔を覆うようにして、俯く。


 もう隠しようもないのだけれど、自分でも何故流れたか分からない涙の説明など、大した知り合いでも無い徐庶に、言葉で上手くなど伝えられない。


「すみません。本当に何でも無いのです。私はこれで。失礼します」


 徐庶が天水の砦に戻ったということは、張遼への報告だろう。

 感情は昂ぶっていても、陸議の思考は冷静だった。


「張遼将軍の部屋は、あちらです……近衛がいますので、すぐ分かるかと」


 頭を下げ、徐庶が向かう方向とは反対側へと歩き出す。


 心を残したわけではなかったのでしばらく歩いたあと、後ろから腕を掴まれた時、肩が跳ね上がるほど驚いた。



「何でもないと言われても、無理だ」



 徐庶が掴んだ陸遜の腕を引き寄せて、腕で包み込んで来た。

 落ち着かせるように、大きな手が背を撫でて来る。

 泣いてる子供を宥めるみたいだった。


「君はどうして、そんなにいつも辛そうなんだ」


 分かってないな、と思う。


 辛いわけじゃないのに。

 ただ、よく分からないけど涙が出て来ることだってあるじゃないかと思ったが、誰かの腕に包み込まれるなんてことが久しぶりのような気がして、大きな身体に包み込まれるのが思いがけないほど懐かしくて、一瞬心が落ち着いてしまった。


 

(そういえば……)



 建業けんぎょうで初めて会った頃、

 なんでそんなに突っ張ってるんだと言われたことがある。

 同じように何かが我慢出来なくなり、

 込み上げてきた時、

 お前が何も背負ってない奴だなんて思っていないから、たまにくらい弱音を吐いたり、思い切り泣いていいんだと、そう言われた。


 そう言えば、周瑜しゅうゆが死んだときも、龐統ほうとうが死んだときも、


 ――――甘寧かんねいは。


 お前は泣いていいんだと、言ってくれていた。


 いつの間にか、過ぎ去って成長出来たと思っていた自分に戻っていたことに気付き、心のどこかで微かに、笑ってしまった。



 本当に自分は、まったく、大した人間じゃないかもしれない。



 大した人間じゃない人間が、

 まだ未熟な頃に呉の名門陸家を任されて。

 廬江ろこう孫策そんさくと戦ったのに、許され、

 周瑜の側で学ばせてもらった。


 大した人間でもない、自分が、


 周瑜や、呂蒙りょもうや、甘寧や、

 素晴らしい人たちに支えられて、


 呉で生きた。

 そこでは未熟でも、出来る限り誠実に生きたはずだと思った。



で生きた陸遜りくそんという人間は死んだんだ)



 目を伏せると、最後の涙が頬を伝い落ちていく。


(これからは死ぬまで、での生を誠実に生きたい)


 死ぬことばかり考えていた自分が、

 剣に生きたいと今日はっきりと思えた。

 だからこれは悲しいとか辛い涙じゃない。


「……あの……、徐庶じょしょさん……、大分落ち着いて来たので……」


 離して欲しいと動こうとしたのだが、上から頭を押さえ込まれるみたいに更に包み込まれてしまった。身動きが取れなくなる。



「黙って、もう少しこのままでいてくれ」



 徐元直じょげんちょくにしては、辛辣な声色だった。

 呆れられたのかもしれない。


 この人とはどうも、こんな場面にばかり会っているから仕方ないのだろうけど。


 どうしようもないので、押し黙ると、雨の音に気付いた。

 ずっと晴れていたのが嘘のように、ついに降り出した。


 長雨だ。


(いつまでこうしてればいいんだろう)


 とりあえず許しが出るまで、動けなそうだ。


 陸議りくぎは諦めて、目を閉じた。


 夜の闇で、

 余計な火は焚いていない、砦の暗がりの中で。


(そういえば涼州騎馬隊の襲撃を受けた時、この人とは別れて、もしかしたらこれで会うのは最後かと思ったけど)


 また会えた。


 そのことに安堵を思い出す。

 

 自分は敵を斬り、

 単独行動をしていた徐庶は戻った。


 人はもしかしたら、そう簡単には死なないのかもしれない。


 そんなことをふと、思った。


 雨の音がする。

 微かに、徐庶の鼓動も聞こえた。




【終】

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花天月地【第54話 零下の灯火】 七海ポルカ @reeeeeen13

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