MINERAL

八朔日いな

第1話(前編)



 幸せになるためには、大事なもの以外を捨てないといけない。普通とか安定とかを得るためには、大抵のものは捨てちゃいけない。


 だから「フツーに幸せ」っていうのがオレには一番むずかしい。捨てるべきものをいつも、間違えてしまうから。





01-1






 今夜は失敗だ。雨の匂いが濃すぎて、吸い込んだ空気がすべて湿っている。


 溜息を聞かれる相手もいないから容赦なく吐き出して、閉じた傘を回転させるように振る。ズボンに雨粒がついたが構うものか。

 暗い園内を点々と照らす防犯灯。古い屋根の割れ目から滴る雫。足元の泥水。

 公園の一角にある、お気に入りの喫煙所。汚いけれど、屋根があってそれなりに明るくて、新しいタバコの匂いが残っていることが多いから、オレはたびたび此処に通っている。


 高校二年生。当然、タバコは吸えない。

 自力で買えない代物の匂いが嗅げるのは、近所でこの場所くらいしか思いつかないのだ。


 でも今日は上手く匂いが吸い込めない。数日続いている雨のせいだろう。台風でも来るらしく、このところ空の色は見上げるのも嫌になるくらいのつまらない灰色ばかりだ。


 目的が達成できないのなら、来たばかりだけれどもう帰ろうか。そう思って腰を上げかけた。

 ふと、スタンド灰皿の蓋部分に、紙切れが挟まれていることに気付く。近所のコンビニのレシートかなにかかもしれないが、燃えたら危ないと思ったのだ。

 指先で取り出して、念のため開いて中を見た。


 写真だった。


 顔の、目元が塗りつぶされているけれど、端正な顔立ちをしているとわかる男の写真。着ているのは制服だろうか。近隣で見掛ける高校の制服のどれとも一致しないが、体格的に中学生には見えない。

 顔を塗りつぶしているものと同じマジックで、写真の端にメールアドレスが書かれている。

 他にも、記号がいくつか。意味はオレにはわからない。


 これ、イジメなのかな。


 本人ではない誰かが勝手に写真を撮って、印刷して、一応は顔を塗りつぶしてはいるけれど恐らく本人のメールアドレスと思しき個人情報まで記して。こんなところに置いて行って、知らない誰かがこれを拾うのを期待して。その拾った誰かが、この写真の男に連絡したら、驚くだろうなと思って、やったことなのだろうか。

 ストーカー被害に繋がったりとか、危険な目に遭うかもしれないのに。


 気の毒になる、というほどオレは人間ができていないけれど、不愉快だとは思った。

 別に親切をするつもりなんて微塵もないけれど、スマホを取り出して、写真に書かれたメールアドレスを打ち込んだ。


『あなたの写真とメールアドレス、木幡丘公園の喫煙所に置かれてました。誰かにやられたのなら気を付けた方が』


 そこまで書いて、数十秒迷った。自分がイジメられていることを他人に指摘されるのって嫌なんじゃないだろうか。オレがしているのは自己満足な偽善ってやつで、なにも本人のためにはならないのかもしれない。

 だって、気を付けろと言ったところで、他人の悪意は止められないだろう。知ったところで相談できる大人もいないのかもしれない。だとしたら不安の種を勝手に蒔いて逃げるような、卑劣なことなのかもしれない。


 デリートキーを数回押して目を閉じた。分からないなりに必死に考えて、少しだけ付け足した。


『あなたの写真とメールアドレス、木幡丘公園の喫煙所に置かれてました。誰かにやられたのなら犯人みつかるといいですね。写真はちゃんと処分しておくので安心して』


 いいかな、さっきよりは。相変わらずキショイかもしれないけど、傷付けるよりはマシだ。

 送信ボタンを押して、深い息をついた。溜息のつもりはなかったけれど唇が少し震えていた。なにをこんなに緊張しているんだ。


 想像すると苦しい。ライターを持っていたなら今頃、写真をとっとと燃やしていただろう。


 サイレントモードにし忘れていたスマホが、雨を弾くような音でなにかの受信を知らせる。やば、夜の公園でこういう音って、意外と遠くまで響いてしまうのだ。高校生が一人で夜に出歩いて喫煙所にいるところなんて、へたな大人に見付かれば面倒なことになるのは分かっているから。

 慌ててスマホのホーム画面をスライドして、音を消す。アプリゲームの通知なにかかと思ったのに、届いたのは、誰かからのメールだった。

 登録されていないアドレス。けれどすぐに分かった。だってそれは、オレがさっき打ち込んだばかりのものだったから。


 驚いてメールを開いた。差出人の名前はなかった。そういえばオレもさっきのメールで名乗らなかったと今更気付いた。


『数分だけ、そこで待っていていただけないでしょうか』


 急いで打ったように、たったそれだけ。素っ気ないというよりは、それ以上の言葉が出なかった、って感じだ。

 ここまで数分、って相当なご近所さんってことか。俺だって此処までは家から歩いて十分くらい掛かる。そんな自宅から目と鼻の先で、写真ばらまかれたりしたらマジで変な奴に付き纏われたりしそうだ。驚いて動揺して、言葉なんて出なくもなるだろう。


 時間を潰そうとして開いたパズルゲームを、二回くらいプレイした。回復分の体力を使い切るより早く、背後で強くブレーキが擦れるような音がした。

 雨の中、傘も差さないで自転車を飛ばして、息を切らして駆けつけてきた男は、俺を見て、納得したように頷いて、なのに慌てたように時計を二度見して、表情を三転くらいさせてから、叱りつけてきた。


「……高校生が出歩いていい時間じゃなくないか!?」


 それはこちらの台詞でもある、と思ったのに。写真の男が目の前に突き付けてきたのは、有効期限の切れた、某タバコ購入用の成人識別ICカードだった。



  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る