第18話 化け物

気づけば、すべての授業が終わっていた。

 授業を終えるチャイムの音が何度鳴り響いたのかも分からず、その間の五、六時間目の記憶は斎理には一切なく、その間どうやって授業を聞いていたのか分からない。

 しかし、そのことに気付いても驚くことは無かった。斎理の頭の中は、未だ虚凛さんのことでいっぱいであり、他のことは何一つ入ってこない。

 そう言えば、虚凛さんはどこにいるのだろうか。

 最初に頭の中に思い浮かんだのは、そんなことだった。虚凛さんが倒れた後の記憶が無い斎理には、それすら分からなかった。倒れた生徒が運ばれるのは保健室だけど、もしかしたら病院に運ばれている可能性もある。それに、親が迎えに来る可能性も……。


『……わたしはっ……化け物なんかじゃないよ……お母さん』


 いや、その可能性は低いのか。

 頭の中に、虚凛さんが倒れる直前に言っていたことが思い浮かんでくる。その言葉を読み解けば、虚凛さんが家に帰っている可能性は無いと断言できる。

 じゃあ、どこにいるのだろうか?まずは、保健室から探すべきなのかな?

 その時、後ろから誰かに肩を掴まれた。


「斎理!やっと正気に戻ったのか⁉」

「……紡?」


 紡の声は、焦りと安堵が入り混じっていた。


「お前、あの時からずっと上の空で……何度呼んでも反応しなかったんだぞ」


 紡は肩を掴んだまま、真剣な眼差しを向けてくる。その視線に、斎理はようやく自分がどれほど現実から切り離されていたのかを自覚した。


「……ごめん。虚凛さんは、今どこに?」


 その問いに、紡は一瞬だけ言葉を詰まらせた。


 「……保健室だ。まだ意識は戻ってないらしい。先生が付き添ってる」


 その言葉が、胸の奥に重く沈む。意識が戻っていない――その事実が、斎理の中の焦燥を一気に煽った。


「行ってくる」


 短く告げて、斎理は廊下へと足を踏み出す。だが、紡がすぐに腕を掴んで引き止めた。


「待て。今行っても、会わせてもらえないかもしれない。……それに、お前、顔色がひどいぞ」


 紡の声は優しいが、同時に鋭かった。確かに、今の僕の状況では、虚凛さんのところに行っても、何もでき名かもしれない。それに、あの時に何も動けなかった僕に、会うことが出来る権利があるのかも疑問が残る。


 でも、僕の本能が虚凛さんのところに行かなくてはならないと叫んでいる。


「斎理が責任を感じるのは分かる。でも、今はお前まで倒れたら意味がないだろ」


 その言葉は正論だった。だが、斎理の胸の奥では、あの瞬間に見た黒色が、今もなお渦を巻いて離れない。

 あれは、ただの恐怖じゃない。もっと深く、もっと根源的な何か。虚凛さんの奥底に眠っていたはずの感情が、あの一言で引きずり出された。


「……紡、やっぱり行くよ。たとえ会えなくても、近くにいたい」


 そう告げると、紡は諦めたように肩をすくめた。


「はぁ、分かったよ。でも、俺も一緒に行くぞ」


 二人は並んで廊下を歩き出す。放課後の校舎は静かで、足音だけが響く。保健室の前に着くと、扉の向こうから低い話し声が聞こえた。

 その声を聞いた瞬間、斎理の背筋に冷たいものが走った。何か嫌な予感がする。保健室のドアから漏れるわずかな光の中にも、普段の先生の澄んだ色とは違う、今までに見たことが無い無色が紛れ込んでいた。それは、無色という色で、黒を塗り潰してしまったような、違和感の感じる無色。


 斎理は震える指先で、ゆっくりとドアノブに手を伸ばした。金属の冷たさが、彼の心をさらに凍えさせる。わずかに開いたドアの隙間から、保健室の内部が覗けた。

 ソレは、今までとは違う、明らかな異常だった。本来の虚凛さんでも、他人の模倣をしている虚凛さんでもない。例えるならば、鏡のように目の前の人物を模倣し続ける機械。そんな状態になってしまっている虚凛さんが、そこにいた。


 *


 少し前


「鷹田先生、授業中に倒れた生徒のところに行くのですか?」

「はい、私は今後担当している授業が無いので」


 廊下の空気は、職員室とは違う静けさを帯びていた。鷹田先生は職員室を出ながら、淡々と答える。


「……そうですか。では、私の方は残りの授業を引き受けます」


 同僚の教師が軽く会釈をし、足早に別の教室へ向かっていく。鷹田先生は一人、保健室へと続く廊下を歩き出した。

 窓から差し込む午後の光が、床に長い影を落とす。その影の中で、先生の表情はわずかに曇っていた。

 あの方法は、間違いだったのだろうか?淡河さん達が職員室に来てから、何度か白峰さんと話そうとした。しかし、ずっと白峰虚凛としてではなく、淡河斎理の模倣をしながら話ていた。それは、どんな話題を投げ掛けても、変わることは無い。


「だから、今日の道徳の授業で、演じる自分は偽物か?ということに関して議論してもらったのですが、そのせいで何かを刺激してしまったのでしょう。問題を解決する以前に、彼女自身を傷つけてしまうのならば、教師として失格です」


 あの時に何が起きたのかは、三枝さんから教えてもらった。橘さんと、淡河さんがどんな質問をしたのか。そして、白峰さんがどんな反応をしたのかも知っている。だけど、何故そんなことが起きたのか分からない。

 橘さんか、淡河さんに聞けば、新たな気づきを得られるのかもしれないが、橘さんは協力的ではなく、淡河さんはそんな話が出来るほどの精神状態ではない。


「三枝さんには、あとで感謝しないといけませんね」


 あれからは、三枝さんのおかげで、何とかなったと言っても過言ではない。白峰さんが何故倒れたのか正確に説明をしてくれたし、淡河さんのことを「後は俺に任せてください」と言って、サポートしてくれていた。本来なら、それは先生である私がするべきことだったのだが、校長や白峰さんの親に報告をしなければならず、それをすることが出来なかった。

 それにしても……。


 白峰さんの母親に電話をした時を思い出す。受話器越しの声は、必要最低限の言葉だけを選び取るように、乾いていた。白峰さんの両親は離婚しており、今は母親が一人で彼女を育てている。

 だから、学校まで迎えに来られない事情は理解できる――それでも、その声には、子どもを案じる響きよりも、関わりを避けようとする意志の方が濃く滲んでいた。あれは無関心ではない。むしろ、意図的な距離。その距離は、忙しさや疲れといった一時的なものではなく、長い時間をかけて固まった壁のように感じられた。

 過去に何があったのだろうか?無数の疑問が思い浮かんでくるが、それでも答えが出ることは無い。

 そんなことを考えていると、とうとう保健室の前まで辿り着いた。


 軽く二度、扉を叩く。


「どうぞ」という保健室の先生の声が返ってきた。扉を開けると、白峰さんはベッドの上で横になっていた。まだ目を開けてはおらず、あれからずっと寝ているらしい。

「白峰さんは、あれからずっとこのような感じなのですか?」

「ええ、ずっと目を覚まさずに寝ています。熱とかは無いようなので、そのうち目が覚めると思いますが。鷹田先生は、これからずっと見守るつもりなのですか?」

「はい、そのつもりです」


 保健室の先生は、少しだけ驚いたように目を瞬かせたが、すぐに柔らかな笑みを浮かべた。


「……そうですか。では、私は職員室に戻ります。何かあればすぐ呼んでください」


 そう言い残し、先生は静かに部屋を出ていった。扉が閉まると、保健室は一気に静寂に包まれる。窓から差し込む午後の光が、白いカーテン越しに柔らかく揺れ、ベッドの上の白峰さんの横顔を淡く照らしていた。

 椅子を引き寄せ、ベッドの傍らに腰を下ろす。しばらくは、ただ彼女の呼吸に耳を澄ませることにした。やがて、そのまつ毛がわずかに震えた。


「うっ……」


 まつ毛が小さく震え、閉じられていた瞼がゆっくりと持ち上がる。淡い光が瞳に差し込み、焦点を探すように揺れた。


「……ここは……」


 かすれた声が、静まり返った保健室に溶けていく。

 鷹田先生は、椅子から身を乗り出した。


「保健室です。ずっと眠っていましたよ」


 白峰さんはしばらく天井を見つめたまま、何かを思い出そうとするように眉を寄せた。彼女は、何故自分が保健室で眠っているのか分かっていないのかもしれない。


「何で、ここにいるのかわかりますか?」


 白峰さんは、しばらく天井を見つめたまま瞬きを繰り返した。その瞳は、現実の輪郭を確かめるようにゆっくりと動き、やがて鷹田先生の方へと向けられる。


「たしか……わたしは……私は、四時間目の時に倒れて、それで保健室で寝ているのですか?」


 鷹田先生は、ゆっくりと頷いた。


「ええ。教室で急に意識を失って、そのままここに運ばれたんです」


 白峰さんは、短く「そう……ですか」と答えたが、その声には納得よりも戸惑いが混じっていた。視線は再び天井へと戻り、指先がシーツの端を無意識に握りしめる。


「……何か、覚えていますか?」


 問いかけると、彼女はわずかに唇を噛み、間を置いてから小さく首を振った。


「いいえ、何も。あの時は、急に目の前が暗くなり、気付いたら倒れていました」


 なんだ?この違和感は?今の白峰さんは、いつもの白峰さんではない。まるで、模倣先を変えたような。

 鷹田先生は、目を覚ました白峰さんを見て、今までに感じたことが無い不安を感じていた。コレは全くの別物だ。目を覚ます前の白峰さんと、今の白峰さんは見た目が同じだけで、中身が変わっていしまっている。これは、模倣どころの話では済まない――例えるならば、それはまるで鏡のような……。


「先生?どうかしましたか?」


 白峰さんが上体を上げて、首を傾げながらこちらを見てくる。しかし、その姿がとても恐ろしく感じられる。でも、私は白峰さんの先生なのだ。ここから逃げることは出来ない。生徒と向き合うことが、先生の役目なのだ。


「すみません、少し考え事を。白峰さんは、大丈夫ですか?もし、何か異常があるのなら、今すぐ保健室の先生を呼んできます」

「いいえ、大丈夫です。それよりも、鷹田先生は大丈夫ですか?だいぶ無理がたたっていますが」


 鷹田先生は、一瞬だけ言葉を失った。

 その声音は、まるでこちらの内面を覗き込んでいるかのように、妙に的確で、そして冷静だった。生徒から心配されること自体は珍しくない。だが、今の白峰さんの言い方は、単なる気遣いではなく、何かを見抜いた上での指摘のように響いた。

「……どうして、そう思うのですか?」

「どうしてとは?見ればわかるでしょう?」

 その言葉に、鷹田先生は息を呑んだ。彼女は、おそらく全てを見抜いている。私が、他の先生との意見の衝突や、生徒位に対する熱意の差で疲弊していることを。

 それには、根拠なんてものは無いが、本能がそうであると叫んでいた。


「……そんなことまで、わかるんですか」


 自分でも驚くほど、声がかすれていた。

 それも当然だ。胸の奥を鋭く突かれたような感覚に襲われており、白峰さんの目を直視することすら出来ないのだから。

 ああ、先生として失格だ。生徒から目を逸らすなど、してはいけないことなのに、今の白峰さんと目を合わせることは、絶対に出来ない。

 そんな時、保健室のドアが音を立てて開かれる。私には、それが救世主の登場のように感じられた。


「すみません、虚凛さんは目を覚ましていますか?」


 入ってきたのは、私が担当しているクラスの淡河斎理と三枝紡だった。この二人ならば、今の白峰さんのことを何とかしてくれるかもしれない。先生が、生徒に対してこう思ってしまうのは、いけないことだと分かっているけれど、今はこの気持ちを抑えることが出来なかった。

 せめて、この怯えなどは生徒に伝わらないようにしなければ、それが先生としてしなければならない最低限のことだ。大人である以上、子どもを不安にさせてはいけないのだから。


「うん、僕は目を覚ましているよ」


 しかし、その声で事態がもう引き返すことが出来ないほど悪くなっていることを自覚した。今の白峰さんは、話す相手のことを口調まで完全に模倣し、話す相手が変われば、模倣する相手も変わるようになってしまっているのだ。

 今の状態は、以前よりも白峰虚凛が消えてしまっている。いや、もう一欠けらも残っていない。今の白峰さんの内には、何も存在していないのだ。


「し、白峰さん。どうしたんだ?」


 淡河さんと一緒に入って来た三枝さんが驚いている。が、おそらく次に白峰さんが話す言葉は、きっと……。


「どうかしたのか?俺は何か変なことを言ったのか?」


 三枝さんの口調が、そっくりそのまま白峰さんの口からそのまま返ってきた。抑揚も、間の取り方も、息継ぎのタイミングすらも――完全に同じ。こうなることは分かっていた。でも、止めることすらも出来なかった。

 全身に鳥肌が立ち、冷汗が出てきている。頭では、白峰さんは大事な生徒で、ちゃんと向き合うべき人物だと分かっているのに、体が言うことを聞かず、今すぐにでも逃げ出そうとしてしまっている、


「白峰さん。今、自分が何をしているのか理解しているの?」


 そんな白峰さんの姿を見て、淡河さんが勇気を振り絞って、問いを投げかけた。その声は震えてはいなかったが、わずかに喉の奥に力がこもっているのが分かる。

 保健室の空気が、さらに一段階重く沈んだ。

 白峰さんは、淡河さんをじっと見つめた。その瞳は、感情の色を一切映さない無色のまま――しかし、何かを測るように、ゆっくりと瞬きをした。


「何って、僕らしく生きているだけだけど?何かおかしいところでもあるのかな?あっ、ずっと保健室のベットを占領するのは駄目だよね。学校も終わったことだし、もう帰らないと」


 白峰さんは、そんなことを呟きながら立ち上がる。しかし、その動作も淡河さんの動きと一致していて、まるで鏡の中の人物が同時に動き出したかのようだった。

 膝の曲げ方、足を床に下ろす角度、立ち上がる際のわずかな息遣い――すべてが淡河さんと寸分違わない。そんな光景を見てしまうと、もう話しかけることすら出来なくなっていしまう。私は、模倣されたくない。先生として、失格なのは分かっているけれど。


「……やめろ」


 三枝さんが低く呟く。彼にとって、親友である淡河さんのことを、このように模倣されるのは、許せることでは無いのだろう。

 でも、そんなことをしてしまうと。


「どうしたんだ?そんなに怒りを見せて。紡らしくない」

「やめろって言ってるだろ!」


 三枝さんが怒りに身を任せて一歩踏み出す。でも、白峰さんはそれに怯えることは無く、むしろ優しく話しかけた。


「本当にどうしたんだ?何かあったのなら、話を聞くぞ」


 もうだめだ、ここで止めないと。起きてはならない結末になってしまう。


「ストップ!白峰さんが目を覚ましたことだし、ここで解散しましょう。また明日」


 自分でも、今言っていることがめちゃくちゃだってことは分かっている。それでも、言葉を吐き出さずにはいられなかった。

 この場の空気は、もう限界まで張り詰めている。誰かが一歩でも間違えれば、取り返しのつかないことになる――そんな予感が、喉の奥を締めつけていた。

 三枝さんは、なおも白峰さんを睨みつけていたが、私の声に反応してわずかに足を止めた。淡河さんも、視線を白峰さんから外し、私の方を見た。その一瞬の隙を逃さず、私はさらに言葉を重ねる。


「今日はもう、みんな疲れているでしょう。続きは……明日にしましょう」


 自分でも驚くほど、声が震えていない。けれど、手のひらは汗でじっとりと濡れていた。

 白峰さんは、しばらく私を見つめていた。その瞳はやはり無色で、何も映していない。

 やがて、ふっと口元を緩めると――


「そうですね、ここで解散しましょう。また明日」


 ソレは、最後まで模倣をやめることは無く、保健室から出ていった。


「それなら、僕たちも帰ります。……今日は、ありがとうございました」


 淡河さんがそう言って、三枝さんを連れて行きながら、保健室の外に出る。

 私はそれを最後まで見届けると、足の力が一瞬で抜け、床に座り込んでしまった。床の冷たさが、じわりと背中にまで伝わってくる。

 さっきまで耳の奥で鳴っていた模倣された声が、ようやく遠ざかっていったはずなのに、鼓膜の内側にこびりついたように離れない。

 でも、これで終わりというわけではない。


『また明日』


 その言葉が、まるで耳元で囁かれたかのように、何度も何度も反響してくる。

 あの無色の瞳と、感情の温度を欠いた声が、脳裏に焼き付いて離れない。――明日、また同じことが起きる。いや、同じでは済まないかもしれない。今日よりも深く、今日よりも巧妙に、あの模倣は進化しているはずだ。

 私は膝を抱え、額を押さえた。どうすればいいのか、答えは見つからない。けれど、何もしなければ、白峰虚凛という存在は完全に消えてしまう。

 でも、今の私には白峰さんと向き合う勇気を持てない。もう嫌だ、会いたくない。だけど、会わないという選択肢は無く、ここで白峰さんへの対応を間違えてしまうと、一生後悔するかもしれない。しかし、私には出来ない。

 

 私は――先生になるべきでは無かった。

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