テセウスのち●●
【最初はみんなそうやって笑っていたんだ】
誰かが言ったそのフレーズがこれ以上に似合う男はいないだろう。
あまりにも有名な男の名が出た瞬間。
正直バカらしいと思うと同時にこの男が蘇った際の恐ろしさを考える。
巧みに敵を仕立て上げ、群衆の怒りを一方向へ誘導する。
その声は、失業した男の不満に甘く寄り添い、
未来を見失った若者の虚無にひと筋の光を差す。
鬱屈した感情がちょうどいい燃料になったとき、
人は自分でも気づかないうちに言葉の虜になる。
今の時代に同じことが起きたらどうなるか。
戦車や大通りのパレードはいらない。
必要なのはパソコンとアカウント、
そしてアルゴリズムだ。
短いクリップがバズり、切り抜きが拡散され、
エコーチェンバーは勝手に育つ。
人々は「視聴する」だけでなく、共有し、反応し、
その過程でいつの間にか彼のフレーズを口にする。
できないと思うか?、俺は出来ると確信する。
戦後と戦時下にいた人物が、少し知恵のある奴に
言負かされたぐらいで止まれば、
そもそも彼は歴史の表には出てこなかっただろう。
笑い話のように始まる。ミームになり、
バイラルになり、気づけば主流になる。そうして
『ちょっと過激だけど面白いね』で済ませていた連中が、
ある日、彼の示した敵に向かって手を伸ばし始める。
独裁は強引に押し付けられるものではない。
聴衆が、自ら求めてしまうものだ。
時代が進めば進むほど、メディアの批判も
同業の動画投稿者の批判も
あいつにとって、それは追い風にしかならない。
そして結局、いつもの落ちになる。
【最初はみんな笑っていた。】
「なぜに、ヒトラーを?ゲッペルスとかでもいいじゃないか?」
それでも、俺は思わず吐き出す。
演説家よりも宣伝担当のほうが扱いやすそうだし、
何より“演説”って今じゃ切り抜きで死ぬほど加工されるだろ。
わざわざ“あの顔”を選ぶ理由がわからない。
「うん。ゲッペルスは巧い。言葉とメディアの作り方なら彼は天才だし、そっちの仕事は得意。でも“顔”にはならない。
顔ってのは、人々の中に〈解決者〉の像を作る。
ヒトラーの名は、それ自体が物語になるの。物語は感情を動かす。」
俺は眉間にしわを寄せる。
「でも、ヒトラーってただの歴史上のモンスターだろ?
今さら“物語”って……悪名は無名に勝るか」
深山は語り続ける
「でも現実は感情で動く。理屈じゃない。
民衆は理屈じゃ納得しない。怒り、疎外感、恨み…
それらを受け皿にする“顔”があれば、人はそこへ流れる。
ゲッペルスは言葉の鍛冶屋、ヒトラーはその鎧を着た王だ。
どちらも便利だけど、王がいると同盟はまとまる。
指導者がいれば味方は集まりやすい。現代でも変わらない。」
「要は『顔』がほしいって言いたいんだな……」
俺の声が低くなる。吐き気が混ざる。
「それで、俺の体を返してくれない?
俺の意識が一度入れば、アンタらの欲しがるフリーパスの体は
手に入るだろ?」
「あーそこは申し訳ないのだけど、
他の男の体に君を映すから、それで妥協しない
ちゃんと白人のイケメンにするから」
申し訳なさそうに俺の体を返すことができないと言う
「なんでだよ、別に俺の体じゃなくてもいいんだろ?」
「そうしてかったんだけど、装置がかなりわがままでね、
完全に復元するには風見コウの肉体、具体的に言うと
未来から過去に来た肉体じゃないとやっぱり駄目なんだよね」
取って付けたような、よよよ、なんて擬音が付きそうな
俺に体の返還を断る。
当たり前だ俺の体が必要だろうがなかろうが、
俺に返すメリットは薄いだろう。
「....はぁーわかりました、じゃあ俺の条件を飲んでください」
「おーけ、言ってみー、内容次第では飲むよ」
こうなったらやけだ、もう何が何でもどうにかして
体を取り戻す手段を考えるも、特に思い浮かぶわけも無く
なんとかして向こうが反応示す妥協案を模索する
「もうこの際、肉体は諦めるので,俺のち●●返してください」
「急に頭悪くなるじゃん」
わかる、俺も何を言ってるだろうね。
何で妥協案がち●●何だろう。
「深山さん、テセウスの船の話は知っていますか?」
「元の物からすべて置き換えられても、元の物と
同一と言えるか。だったかな。」
深山は哲学の内容を思い出しながら話す。
「そのテセウスこそが、俺のち●●だ。
確かに、俺だったという証拠にこそ、俺のち●●が必要なのだ。」
「男の体に換われば、ち●●は付いてくる、
白人のち●●じゃダメ?」
「ダメだ、そのち●●は俺のち●●ではない」
窓のない部屋に、俺の声だけがひびいた。
「わかんねぇだろうけど、
俺が欲しいのは『ち●●』そのものじゃねぇんだ」
深山が肩をすくめ、眉をひとつ動かす。
あの軽い笑いは消えている。
鉄の椅子に座る俺の脚はまだ震えていたが、
言葉だけはゆっくりと鎖を解くように出てきた。
「船の木板を一本ずつ取り替えたら、
それはまだ同じ船と言えるかって話だ。哲学の遊びだ。
だが、俺の場合はちょっと違う。俺は――」
胸の奥がぎゅっとなるのを感じながら、続ける。
「――俺は自分が『誰か』だって確かめたいんだ。証明が欲しい。
書類とか顔写真じゃなくて、手触りのある、
クソみたいに具体的な証拠が欲しい。
だって俺はずっと『これが俺だ』って体で生きてきたから。
声も、歩き方も、恥ずかしい癖も。全部、
ひとつの連続線になってる。ち●●だってその線の一部だ。
ただの肉片じゃない。俺の歴史の一節なんだよ」
深山の表情が揺れた。俺の言葉は、彼女たちが詰め込もうとする
「装置の要件」や「触媒」よりも、
生の匂いを帯びていた。計算や作戦書にはない、
怒りと喪失と執着が混ざった声だ。
「想像してみろ。名前が消えるわけじゃない。だが、それが
『本当に自分のもの』
だって言える実感がなくなったら何が残る?
俺の中には、幼稚園で友達と笑った瞬間も、
コンビニの夜勤で缶コーヒー片手に眺めた朝焼けも、
そいつとつながってる。
それらは肉体を介して今ここにあるんだ。
ち●●は、バカみたいに聞こえるかもしれないが、
俺の『あの日の俺』の名札なんだよ」
部屋の空気が一瞬冷たくなる。深山はそっと前に出て、
彼女の瞳には、時折見せる軽薄な輝きではなく、
計算された冷たさが戻っていた。
「それは感情だ。装置にとっては取るに足らない感情。
でも、人間にとっては、
取るに足らないものほど凶暴に離れがたい。
君はそれを奪われ、『他者の設定』の中に埋められた。
それを『同一性』って呼んでる。
君が言う『ち●●』を取り戻せというのは、
あんたがその同一性の一点に手をかけたいってことなんだろう?」
俺はうなずいた。言い訳も言葉遊びもいらない。ただ真実だけを並べる。
「そうだ。法的な身分証明より前に、
俺には身体の記憶がある。笑い方、怒りの出し方、
好きなラーメンのすすり方。
これらは誰かにコピーされても、
コピーされた瞬間に本物の連続性は途切れる。
外からログインする――誰かの記録を再生するように、
人を“作り直す”。だが俺は、
再生の対象になんかなりたくない。俺は俺でありたいだけなんだ」
「転生して今を生きている人間が言うのもおかしいけど」
そう言っていつの間にか立ち上がって俺はもう一度
イスに座る。
深山の表情が、ほんの少しだけ緩んだ。
彼女は冷笑を含めた低い声で言った。
「そんな小物みたいな話で……でも面白い。
君の言う『証拠』が欲しいんだね。交渉材料として面白い」
俺は深山の顔を見つめる。
部屋の外では、誰かが書類をめくる音がした。
冷たい灯りの下で、
俺の「ち●●」はただの器官以上のものとして、
静かにその価値を主張していた。
それは皮膚の下の小さな誇りであり、
連続のしるしであり、
失われた自分を証明するための最後の切り札だった。
「まあ、その願いは完全に叶えるのはできないが
最後くらいは君の体を一時的に返そう。別れをすませておけ。」
意識が目覚める、木製のフローリングに白い壁
簡素なテーブルとソファーが置かれる。
体が倦怠感とよる年に響く特有の疲労感と
違和感を感じ体に触れる
指先が触れたのは、記憶の奥にしまわれた
「確かさ」だった。
そこにあるのは滑らかさや温度と湿度。
単純な感覚以上のもので、幼い頃に感じた安心、
無意識に触れることによる安心感
肉体のある一点に凝縮されているのを指先が覚えていた。
「テセウスは俺の中にあった」
過去の自分が、
断片ではなく一本の線になって再びつながっていく感覚。
世界が、少しだけ正しい場所に戻るような、
そんな静かな復元だった。
『なんで、あの男は自分のち●●を揉んで、泣いているんだ?』
『知らん』
事情を知らない、監視役の残党は困惑した。
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