一話 一振りの刃②

◇◇◇◇◇


 後宮の奥深く、陽の差さぬ一隅。そこが、玉蓮と姉の全世界だった。とうに死んだ母は、王の気まぐれな寵愛を受けただけの宮女。地位も後ろ盾もない母から生まれた玉蓮と姉は、後宮の片隅でひっそりと暮らしてきた。


 宴に集う姫たちの奏でる琴の音、そして風に乗ってくる白檀びゃくだんの香り。それらが届く度に、この部屋に染みついた埃とかびの匂いが、自分たちの立場を告げているようだった。


 玉蓮は小さな手で、粗末な寝台の柵をぎゅっと握りしめた。


「玉蓮。見て、お星様が綺麗よ」


 寝台に腰かけた姉が指をさした先には、墨を流したような夜空に、星々が小さく瞬いていた。


「……玉蓮は、お星様は好きではありません」


 玉蓮は、姉の腕の中でそう呟いた。


「まあ、何を言うの。あんなに輝いて、綺麗でしょう」


 姉が優しく微笑んで、玉蓮の髪を撫でるから、その手の下でふるふると首を横に振った。


「お星様は温かくありません。玉蓮は、姉上が良いです。姉上がこうして、玉蓮を腕の中に入れてくださる時間が一等に好きです」


 体温、声、香り。何よりも、誰よりも大好きな姉の全てが玉蓮の傍にある。もっと、と強請ねだるように目を閉じ、目の前の衣にぐりぐりと頭を擦り付ければ、姉はくすくすと笑いながらも、玉蓮を抱きしめるその腕にさらに力をこめてくれる。


「お前って子は……本当に気が強いのだから」


 この腕の中だけが、冷たい石の壁も、遠い琴の音も、全てを忘れさせてくれる場所。


(あったかい……姉上)


 玉蓮は、全身で感じるこの温もりが、消えてしまうのではと怖くて、目をぎゅうと閉じた。


◇◇


 姉の婚礼の知らせが届いたのは、その年の春。


 分厚い扉の向こうで響く王の無機質な声は、いつ聞いても王のものでしかなくて、他の姉妹たちが言う「優しい父上」は一体いつになれば現れるのだろうと玉蓮は首を傾げた。


「――玄済げんさい国へ、嫁げ」


 その声を聞いて、その言葉を聞いて、玉蓮は改めて思う。父は、やはり命を下す王なのだ、と。


(父上ではない。あれは——王だ)


 そして、扉の前で己の薄汚れた衣を見下ろして、思う。


(では——わたくしは、わたくしたちは、一体なんだ?)


 ぼんやりと玉蓮が立ち尽くしている間に、王に答えているのであろう、大臣たちの声が耳に届く。


「身分は低いが、美しい顔だけは取り柄だ。使い道があってなによりだな」


「半年でも奴らが黙るなら、十分すぎる対価だ」


 まるで、冷たい盤の上に打ち据えられる捨て石のように、姉の運命が決められていく。公主でもない。ましてや娘でもない。「姫」という名前のついた、牛や馬。敵国を黙らせるための、ただの道具。


 姉は、その決定に、怒りもせず、泣きもせず、ただ微笑んで頷いた。玉蓮がどれだけ泣いて訴えても、ただ微笑んだのだ。

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