就職活動中の大学生。すり減った革靴

平日の昼下がり、店内の客足が途絶えた時間帯。木村歩は、ビジネスシューズコーナーの棚を整理しながら、革のメンテナンスクリームの匂いを静かに吸い込んでいた。その時、自動ドアが開き、一人で入ってきた青年に、彼の動きがぴたりと止まった。


着慣れないリクルートスーツは、少しだけ肩のサイズが合っていない。手にしたカバンはくたびれ、その表情には、連戦の疲労と焦りが色濃く滲んでいた。


就職活動中の大学生だろう。だが、歩の視線を釘付けにしたのは、彼の全身から漂う雰囲気ではなかった。


彼の、足元だった。


一見して安価な合成皮革のその革靴は、持ち主の苦闘を雄弁に物語っていた。つま先には擦れた傷が無数に入り、全体がくすんでいる。そして何より、右足の踵。外側だけが、まるで鋭利な刃物で削いだかのように、斜めにすり減っていた。


(外側への、過剰な荷重……)


歩には、その青年がこれまで歩んできた道のりが見えるようだった。


何十社という会社のビルを渡り歩き、祈るような気持ちで面接に臨み、そして、落胆を胸に再びアスファルトを歩く。その繰り返しの果てに、彼の歩行バランスは崩れ、無意識のうちに足の外側で地面を蹴るようになってしまっているのだ。


すり減った踵は、彼の努力の証であると同時に、彼の心が消耗しているサインでもあった。


「すみません……」

青年は、値札が並ぶ棚の前で途方に暮れたように立ち尽くし、やがておずおずと歩に声をかけた。

「革靴を探してるんですけど、一番安いやつでいいんです。もう、これで最後にするんで……」


その声には、諦めが混じっていた。歩には、彼が今日、あるいは昨日、また一つ「お祈りメール」を受け取ったのだろうと想像がついた。


「かしこまりました。よろしければ、今お履きの靴を一度見せていただけますか?」


歩の言葉に、青年は一瞬、戸惑いの表情を浮かべた。自分の汚れた靴を見せることに、羞恥を感じているようだった。

「いえ、本当に、何でもいいんです。履ければ……」


「参考にさせていただきたいだけですので」

歩は、有無を言わせぬ穏やかな圧力で、青年をベンチへと促した。青年が恐縮しながら靴を脱ぐと、歩はそれを手に取り、まるで美術品でも鑑定するように、あらゆる角度から静かに眺めた。


「……たくさん、歩かれましたね」


歩が最初に口にしたのは、商品の説明ではなかった。


「この踵のすり減り方は、相当な距離を歩かないと、こうはなりません。外側に体重が偏る癖がおありのようですが、それも、疲れが溜まってくると顕著に出るんです」


責めるでもなく、分析するでもない。ただ、事実を事実として告げるその声に、青年は驚いて顔を上げた。自分の努力を、初めて誰かに認められたような気がしたのかもしれない。


「この状態だと、歩くたびに体が微妙に傾き、余計な疲労を招きます。姿勢も、ご自身が思っている以上に、前のめりになりやすい」


歩は続ける。


「面接は、椅子に座るまでが勝負だと、聞いたことがあります。入室して、お辞儀をして、着席するまで。その短い時間の歩き方一つで、その人の印象は大きく変わる」


それは、彼自身の後悔から生まれた言葉だった。知っていれば防げたはずの、ほんのわずかな知識の欠落。それが、人生を左右する。スポーツの世界だけの話ではない。この青年のように、人生の岐路に立つ人間にとっても、それは同じだ。


「ですが、ご安心ください。お客様のその努力を、無駄にしないための靴があります」


歩は、一番安い価格帯の棚には目もくれず、少し離れた場所から一足の革靴を持ってきた。定価は一万円を超えるが、今はセールの札が付いている。見た目は変哲もない、標準的なデザインだ。


「この靴は、踵の部分に硬い芯が入っていて、足のブレをしっかり補正してくれます。そして、このインソール。ただ柔らかいだけでなく、土踏まずを適度に持ち上げてくれるので、体重が自然と内側に乗るようになります。姿勢が安定すれば、疲れにくくなるだけでなく、声も出しやすくなる」


青年は、値札を見て躊躇した。

「でも、これ……」


「お値段以上の価値は、私が保証します。なぜなら、これはただの靴ではない。あなたのこれまでと、これからの戦いを支えるための、『武器』ですから」


歩の真剣な目に、青年は気圧されたように黙り込んだ。歩は、新品の靴紐を手に取ると、古い靴とは比べ物にならないほど丁寧な手つきで、新しい革靴に紐を通し始めた。


「紐の締め方一つでも、足の安定感は変わります」

それは、ほとんど独り言のようだった。だが、その指先には、目の前の青年に、これ以上無用な後悔をしてほしくないという切実な祈りが込められていた。


数分後、青年は新しい革靴を履いて、店の鏡の前に立っていた。

背筋が、先ほどとは見違えるように、すっと伸びている。その姿を鏡で見た彼の目に、わずかな光が宿った。


「……ありがとうございます。これ、ください」


会計を済ませ、青年は「ありがとうございました」と、店に来た時よりも少しだけはっきりとした声で言って、出ていった。その背中は、心なしか大きく見えた。


歩は、彼が脱ぎ捨てていった古い革靴を手に取った。すり減った踵は、持ち主がどれだけ真摯に戦ってきたかを物語っている。


この「後悔の塊」を、自分が引き受ける。そして、彼には、後悔のない未来を歩んでほしい。


歩は、その古い靴を、静かにゴミ箱へと入れた。


次の戦場で、彼が胸を張って、その一歩を踏み出せることを願いながら。

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『歩む、その足で ~その一足が、未来を変える、ささやかな正義の話~』 伝福 翠人 @akitodenfuku

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