『歩む、その足で ~その一足が、未来を変える、ささやかな正義の話~』
伝福 翠人
第1章:流行の厚底スニーカーを欲しがる女子高生
「ステップワン」の自動ドアが、軽快なチャイムと共に開いた。放課後の陽光を背負い、二人の女子高生が甲高い笑い声を響かせながら店に入ってくる。その瞬間、合成皮革とゴムの匂いが混じる店内の空気が、わずかに華やいだものに変わった。
木村歩は、バックヤードから運んできたスニーカーの箱を陳列棚に積みながら、その二人を横目で捉えた。チェックのスカート、緩められたネクタイ、手にしたスマートフォンのストラップで揺れるキャラクター。世界のすべてが楽しくて仕方がない、そんな無防備なきらめきが彼女たちからは溢れていた。
「あ、あった! これ、超ヤバくない?」
一人の少女が、入り口近くの特設コーナーに駆け寄る。今シーズンの主力商品として、最も目立つ場所に置かれた厚底スニーカーだ。淡いパープルを基調に、蛍光イエローのラインが走る、いかにも現代的なデザイン。
「マジだ、カワイイ! 莉奈、絶対似合うって!」
友人の言葉に背中を押され、莉奈と呼ばれた少女は、お目当ての一足を手に取り、近くのベンチに腰掛けた。
歩の視線は、その少女の足元に自然と吸い寄せられていた。ローファーを脱ぎ捨てた足首は細く、白いソックスに包まれている。彼女が新しいスニーカーに足を入れた、その瞬間。歩の眉が、かすかに動いた。
(……内側に、倒れ込んでいる)
少女自身も、友人も気づいていない。だが、彼女が体重をかけた時、足首は明らかに内側へと傾いていた。扁平足特有の兆候だ。厚く、不安定なソールの上で、彼女の足は悲鳴を上げるように歪んでいる。
「どう? ヤバい、めっちゃ盛れる!」
立ち上がって、鏡の前でポーズを取る莉奈。友人もスマートフォンを構え、はしゃいでいる。
「大丈夫そう?」
「うん、全然大丈夫!」
──大丈夫。
その言葉が、歩の耳の奥で鈍い痛みを伴って反響した。
(大丈夫じゃない。その一言が、どれだけ遠くまで続く道を閉ざしてしまうか、まだ君は知らない)
脳裏をよぎるのは、過去の記憶。土の匂い、汗の匂い、そして、自分の足でなくなった足を引きずった時の、あの絶望的な感触。無知は、時に悪意よりも容赦なく、未来の可能性を奪っていく。そして、失ってから初めて気づくのだ。二度と、あの場所へは戻れないのだと。
「サイズ、こちらでよろしいですか?」
近くを通りかかった先輩の鈴木が、得意の明るい笑顔で声をかけた。彼女なら、このままレジへと誘導し、数分後には売上を一つ計上するだろう。それが、この店での正解だ。店長の吉田も、それを望んでいる。歩の行動は、ここでは常に「不正解」の側にあった。
(どうする?)
自問する。これは自分の問題ではない。ただの客だ。彼女がどの靴を選ぼうと、自分の人生には何の関係もない。そう割り切ってしまえば、どれだけ楽だろうか。だが、彼の足は、まるで自分の意思に反するかのように、少女たちの方へ一歩踏み出していた。過去の自分への、贖罪のように。
「お客様」
歩が声をかけると、二人の少女はきょとんとした顔で彼を見た。販売員としての愛想笑いは、彼の顔には浮かんでいない。ただ、真剣な、職人のような目だけがあった。
「その靴で、たくさん歩くご予定ですか?」
予想外の質問に、莉奈は少し戸惑いながら答える。
「え? あ、はい。友達と遊びに行ったりとか……」
「でしたら、少しだけ、ご確認させていただいてもよろしいでしょうか」
歩はそう言うと、彼女たちの許可も待たずに屈み込み、莉奈の足元に視線を落とした。彼は、靴のデザインではなく、靴と彼女の足が作る、わずかな隙間と歪みだけを見ていた。
「お客様の足は、少しだけ、内側に体重がかかりやすいようです。この靴はデザインが優先されていて、その部分を支える構造にはなっていません。今すぐどうこうなるわけではありませんが、長時間歩くと、足首や膝に負担がかかる可能性があります」
店の空気が、一瞬だけ静かになった。友人は怪訝な顔をし、莉奈は戸惑っている。歩は、セールストークではなく、ただ事実だけを淡々と告げた。それは、医者が診断結果を告げるのに少し似ていた。
「もちろん、デザインはとても素敵です。ただ、もし、歩きやすさも少しだけ考えるのでしたら……」
彼は立ち上がり、別の棚から一足のスニーカーを持ってきた。流行の厚底ではないが、インソールの評判が良く、足首をしっかりとホールドする構造の、地味だが誠実な作りの靴だった。
「例えば、こちらのようなタイプもございます。ご参考までに」
歩はそれだけ言うと、軽く一礼し、自分の持ち場へと戻っていった。背中に、鈴木の呆れたような視線を感じる。売上を一つ、みすみす逃したのかもしれない。
彼は、自分の行動の結果を見ないように、黙々と靴箱を整理し始めた。あの後、彼女たちがどちらの靴を選んだのか、あるいは何も買わずに帰ったのか、彼は知らない。
ただ、胸の奥で、あの日の後悔が、ほんの少しだけ軽くなったような気がした。そして同時に、自分の無力さを噛みしめる。種は蒔いた。だが、芽を出すかどうかは、彼女次第だ。そのもどかしさが、また彼の心に新たな重りとなって沈んでいく。
チャイムが鳴り、自動ドアが閉まる音が、やけに大きく店内に響いた。
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