天と地が騒ぐ夜
しばらく、二人とも黙ったままだった。
宿題はもう進まなそうだが、今はそれでよかった。
俺はただ、彼女の震えが止むまで傍にいることに集中した。
時計の針が、無機質な音を刻む。
十分ほどその音に揺られていた。
やがて芝目は姿勢を直し、プリントに視線を戻した。
「……ありがとう……ございます」
「気にしなくていいよ、芝目さん」
彼女は鉛筆を握る。
その動きに合わせて、俺も内容を確認し始めた。
端的なやり取りで問題を進めながら、教科書の該当箇所をプリントにメモしていく。
言葉は少ないけれど、確かな呼吸の重なりがあった。
宿題を通して“支えている実感”が、今までよりもはっきりとあった。
ふと、柔らかくなった芝目の横顔を見て、俺の口元も自然と緩んだ。
気が楽そうで、何よりだった。
……クソみたいな登場だったけど、茂のおかげで芝目がまた一段、心を開いた気がする。
感謝してやりたい気分だったけど――あいつ、調子に乗るだろうな。やめとこう。
かれこれ宿題を進めているうちに、一つの区切りがついた。
苦手科目ということもあって、いつもより時間がかかっていた。
時計を見ると、すでに六時を回っている。
……やばい、鈴子に怒られる……!
時計からプリントへ。
そして軽く息を吐いた芝目の顔へと、視線が泳ぐ。
……晩ご飯の準備、大丈夫だっけ?
冷や汗が背筋を伝う。
でも、今すぐ立ち上がって走るわけにもいかない。
まずは、落ち着け……話を、だ。
「宿題、一区切りだし、ちょっと今日は遅くなっちゃったね」
「……はい、遅くなりました」
芝目が顔をあげた。
その口元が、ほんのわずかに変わっていた。
口角が――確かに上がっている。
彼女は、微量ながらも笑っていた。
……っ……いい……かわいい……!
いやいや、そうじゃない。
今はその場合じゃない。
でも、貴重な表情だ!
けど鈴子!!
……ああもう!落ち着け、俺!!
一呼吸を置いて、俺は机を見る。
宿題のプリントには十分なメモ書きを残している。
これだったら、家に帰ってもすぐに芝目は取り込めるし、すぐに終わるはず。
やることは終わった。
だからもう帰るしかない。
「…坂田くん?」
光を宿していた瞳が、わずかに曇る。
心配そうにこちらを覗き込みながら、芝目が小さく俺の名前を呼んだ。
ドキッとした次の瞬間、我に返る。
「あ、ごめん。もう遅いから、そろそろ帰ろうか」
「…あ、はい」
焦るな。
あんまり芝目を不安にさせるな。
今は落ち着いて――あとで鈴子に連絡入れればいい。
お詫びのアイスも、買っておこう。
プリントと筆記用具を片付けて立ち上がる。
芝目も同じように立ち上がった。
「じゃあ、また休み明けに」
そう言うと、芝目は小さく頷いた。
走り出したい足を、なんとか抑え込む。
――そのとき。
「あ、あの……い、一緒に……帰りません、か」
足が完全に止まった。
耳を疑う。
振り返ると、芝目が立っていた。
強張った顔、逸らした視線。
肩掛けを握る手は真っ白になっている。
それでも、逃げなかった。
振り絞った声で、俺を呼び止めていた。
それが全く信じられなかった。
「え、一緒に…?」
芝目はさらに身を縮める。
白い拳が小刻みに震えている。
それでも、彼女は頷いた。
「う、うん…」
胸の奥が一気に跳ねた。
さっきまでの焦りが嘘みたいに消える。
頬がじんわりと熱くなっていく。
……けれど、現実は非情だ。
時計は無慈悲に進んでいる。
どうしよう…一緒に帰りたいけど…!
「……だ、ダメ…ですか」
その声に、心が決壊した。
「いやいや!ダメじゃない!けど……ちょっと連絡を!」
慌ててスマホをカバンから取り出した。
鈴子の名前を探し、通知を確認。まだ何も来ていない。
……そのうち来るだろうな。
妹とのチャットを開いて、親指を走らせる。
”ごめん、今日は遅くなる”
送信して、しばらく待った。
既読はすぐについた。
あー、これはメッセージ送ってくるところだったんだろうな……
背筋が冷える。
無言の数秒が、拷問みたいに長く感じられた。
そして返事が来た。
”お母さんが返ってきたから、貴様に用はない”
おっと?
”肉じゃがは阿木兄の分までおいしくいただきます”
……アイス、買うのをやめようかな…
またして溜息が漏れる。
完全に調子を狂わされた。
こっちが心配して損したじゃないか…
「……坂田君?」
再び芝目が顔を覗き込んでくる。
まるで、自分が悪いことをしたみたいな表情だった。
その目を見て、俺はふっと笑った。
もういい。芝目と一緒に帰れる。それだけで十分だ。
「ごめん、大丈夫だ」
そして、スマホをカバンにしまい込んで、思いっきり笑顔になった。
「じゃあ、一緒に帰ろう」
その瞬間、芝目の瞳にまた光が戻った。
芝目は顔を伏せて頷いた。
彼女の返事は、俺を世界一幸せな男子高校生にした。
「はい」
***
校門をくぐり抜けた後、街灯に照らされている歩道に出向いた。
軽い風が吹き抜け、肌に少しだけ冷たかった。
だけどそれは、胸に灯っている温まりを冷やすことはなかった。
「芝目さんの家はどっち?」
「あの…こっちです」
彼女が指差した方向は偶然俺の家の道とかぶっているようだった。
思わず口が広がってしまう。
「一緒だね」
「…うん」
暗くて顔はよく見えなかったけど、ほんのり笑って頬を染めているように見えてた。
幻覚かもしれない。それでも心臓が飛び出そうになっていた。
なにこれ、幸せ!
夢じゃないよな?
二人で歩き出して、芝目の目を盗んで頬を抓った。
力を込めて……痛いです…
……頬をさすって、また飛び出したくなった。
夢じゃないんだ。
二人が肩を並べて歩いている今は現実。
歩幅を合わせて、お互いの存在を確かめていた。
横を見ると、下を向いて歩いている芝目がいる。
ぼさついた髪の毛が時折吹いてくるそよ風に揺れている。
たまにこっちに触るその髪は確かに存在していた。
手を伸ばせば、彼女の手に届きそう。
俺は手を握りしめて、掴みたい気持ちを抑え込んだ。
どこまで気を許してくれているかがわからない…だから今は、こうして一緒に歩いているだけでいい。
俺に慣れて、信じてくれるその日まで。
「そういえば、芝目さんはGWに何かする予定とかある?」
考えるより先に口が動いた。
そして言葉を発した後に、徐々に後悔し始める。
ちょっとまて、今の発言って予定を探る…つまりデートに誘おうって捉えられる可能性もある…
気を許してくれていないなら…キモがられるかも?
考えすぎ考えすぎ…!
噛み締めて、今の発言を撤回したかった。
だが、もう遅いーー
「い、いえ…とくには……その、いつも家にいます」
……割と普通の返事だった。
安堵した息をして、ふっと一つのことに気づいた。
いつものパターンの返事とは違っていた。
試しにまた別の話をする。
「近くの公園に散歩したりするの?」
「…そ、それぐらいは…たまに」
「そうなんだ。俺はよく○△通りを散歩するんだ。あそこの公園にうまいたい焼きがあるんだ」
「そ、そうなんですね…ちょっと、食べてみたいです」
……少しずつだけど、会話が弾むようになってきている。
かすんでいても、色がある声だった。
だんだんと空気も軽くなっていき、口も滑るように話題が出てくる。
「ーーと言ったんだけど、先生が折れてさ」
「頑張った、のですね、坂田君」
キャッチボールができる会話。
「ーーそんな本だったんだけど、やっぱ内容が難しいんだよなぁ」
「は、はい…ちょっと、読んだことありました。難しかったです」
共感できる趣味の話。
「だから茂ってやつ、いつもうるさいんだよな」
「…ふふ…仲が、いいですね…」
少しだけ愚痴るほどの友達の話。
その中に、たまにわずかに聞こえる彼女の笑い声が返事に混じる。
嬉しくてうれしくて、にやけが止まらなかった。
改めて、遠い道をたどった気がする。
目を合わせることはなかったけど、お互いの声で道を照らしていた。
すっかり暗くなっても、街灯の光が二人を浴びさせる。
まるで天が讃美歌を歌っているようだった。
もっとこの子と一緒に居たい。
もっといろんな話をしてみたい。
彼女をもっと笑顔にしたい。
中に籠った気持ちが育てていき、破裂しそうだった。
だけど、何事にも終わりが必ずある。
歩行が進み、やがてある分かれ道にたどり着いて、二人が足を止める。
「芝目さんはどっち?」
「……こっち、です」
今度は俺の家とは違う方向。
あれは最寄り駅に行く道だった。
近所ではなかったんだね。
仕方ない。偶然、隣に住んだりするような展開はなかった。
だけど、十分楽しく一緒に居られた。
今日は、これで胸がいっぱいだった。
「……じゃあ、ここでお別れだね」
「……うん…」
「……駅まで送ろうか?」
咄嗟に俺は言い出した。
まだ一緒に居たかった。
すでに十分遅いから、もう時間なんて気にしていなかった。
ーーというタイミングに都合よく腹が鳴った。
……穴があったら入りたい、いや掘ってでも入りたい……
今の音に気付かない様子で、芝目は頭を横へ振った。
「あの……大丈夫、です。ここで、大丈夫…です」
手をもぞもぞしながらそれを言う。
何かまだ言いたげな様子だったので、俺はそのまま彼女を待った。
再び風が優しく頬を撫でる。
揺れる芝目の髪は、まるで手を振って見送ろうとしていた。
たぶん、彼女も自分から行くのが気が引ける。
…ここもちゃんと俺がきっぱり場を決めるべきなんだね。
「そうか。じゃあ、気を付けてね」
「……はい…」
踵を返し、家路へ歩き出した。
彼女との時間は、おそらく夢にまで出そうだ。
それだけ、大切な思いになると思った。
「あ、あの……!」
一歩踏み出したとき、芝目の声が背中にぶつかった。
足が止まり、心臓も一度激しくドキッとした。
振り向くと、顔を伏せて噛み締めている芝目がスカートを掴んでいた。
何か、悩んでいるかのように。
「どうした?」
俺は問いかける。しばらく待っても、彼女は何も言いださなかった。
また止まっている。
動き出そうとして、結局何かに押さえつけられている。
そんな姿だった。
ふと昨日の芝目が目に浮かぶ。
俺が島村と教室を出た時の芝目の姿だった。
あの時も、動きそうで、結局何もなかった。
……いや、俺が去ったから、できなかったのかもしれない。
しばらく黙って、考える。
もしも彼女は何かしたかったなら、前を歩けるようにそれを応援するべき。
適切な距離と、時間。
離れ過ぎず、近すぎず。
つまり、必要な時には、俺は離れるべきじゃなかった。
昨日は、芝目が俺に怯えて一緒に帰ることを拒んだかと思った。
でも現に、彼女から一緒に帰るって言ってくれた。
昨日は思い込みで取った行動。
だから勝手に思い込んで、芝目の傍を離れるのは…よくなかった。
あの選択肢が間違いだったら、それに学んで、今回は正しい回答を模索するべきだ。
俺は向き直って、芝目にまた声をかける。
「いいよ、芝目さん。ゆっくり話して大丈夫だ」
ゆっくり顔をあげる芝目はそのうち目が合った。
それに応えるように、前に言ったことをもう一度確かめるように口にしてみた。
「どこにも行かないよ。だから、話したくなったら、遠慮せずに言ってください」
芝目の顔が歪んでいく。
見開いて、そして目が滲む。顔を下げて、また食いしばった。
呼吸を整えるように、肩が揺れて、次第に彼女の手はポケットに入った。
「……あの…迷惑、じゃなかったら…」
ポケットから現れたのは、彼女のスマホ。
「……宿題…まだわからない、かもしれないので……連絡先…交換、しても…いいですか?」
顎が緩んで、俺はしばらく唖然とした。
こんなに幸せになってもいいのか。
明日、禍でも起きるのだろうか。
……起きるにしても、その時に考えよう。
「…もちろん、芝目さん」
顔をスマホに隠しているように前にあげていた。
けど、彼女はそこにとどまっていた。
俺は近づいて行っても、芝目の足は揺れなかった。
俺たちはそのまま連絡先情報を交換した。
情報交換ができた通知がなると同時に、ちょっとだけくらっと来た。
再び別れの挨拶を交わして、今度こそ二人は家に帰る道を進む。
振り返りながら、芝目の後ろ姿が消えていくのを確認して、ある角を曲がると俺はスマホを見る。
”芝目 里香”
彼女の名前が間違いなく、俺のLINEに入っている。
空を見上げ、点々と出ている星が夜空にきらめいていた。
神様がくれた贈り物のようにも思える。
周りに誰もいないことを確認して、声をかみ殺して俺は拳を天に突きだした。
「…っっ…!!っっっしゃー……!」
***
電車に揺られながら、芝目は何度もスマホを見つめていた。
”坂田 阿木”
数々の人たちの名前が並んでいる彼女の画面に、霧がかかっているようにぼやけて見える。
だが、彼の名前だけが鮮明に見えていた。
「坂田…くん」
声にならない程度で口だけ動かして復唱する。
それが現実だと彼女が確認するように。
何度もチャット欄を開いては、戻る。
文字を打とうとしても、指が止まっていた。
だけど、彼はすぐに手に届くところにいる事実があるだけで、今まであった震えと冷えがさっと消えていく。
「坂田…くん…」
自宅の最寄駅に着き、ホームに出るときもスマホを見つめる。
歩き出す彼女は人にぶつからないように、スマホをポケットにしまうが、手は離さなかった。
暗い帰り道には、スマホの画面が彼女の世界を照らしていた。
「坂…田…くん…」
一度だけ、中学校の男子と歩いている記憶が頭をよぎる。
それに重なるように、今日坂田と歩いた記憶に塗り替わった。
あの時、彼女は笑っていた。
「……」
ずっと一人だった。
一年間も、孤独で歩んでいた。
それが今日、ようやく誰かと肩を並べて歩むことができた。
一年ぶりに。
自宅に続く最後の曲がり角をくぐる。
『どこにもいかないよ』
彼の優しい言葉がまた耳に蘇る。
心が速まり、そして弾く。
色んな思いが、彼女をむしばみ始めた。
昨日、坂田が彼女さんと廊下に出る記憶。
笑い合っている映像。
坂田と一緒に生徒会室にいるときのあの静けさ。
島村に声をかけられて、仕事を頼まれたときの恐怖感とそれに対抗する葛藤。
中学校で女子たちに突き放されて、陰から笑われている時の嫌悪感。
あの男子と一緒に外で弁当を食べている毎日。
独りで家に逃げ込むときの絶望感。
それに続く孤独の毎日。
玄関についた時、もう一度スマホを見る。
彼女が彼に問いかけた。
こんな私でも、また人と一緒に居ていいのか、と。
坂田の返事には迷いはなかった。
『いいに決まっているよ、芝目さん』
坂田の名前がまた画面に映って、それが目にしたとき、今度足から力が抜けてしまった。
膝を地面につけて、口元を押さえる。
肩が震えだして、揺れる。
目が滲んで、世界がぼやけだす。
目元から、涙が込みあがり、流れ始めた。
今年は、一人じゃない。
今夜を経て、休みの日は独りじゃなくて済む。
また人と繋がってもいい。
それを教えてくれた坂田の名前をまた口にする。
嗚咽混じりの声が漏れて、そのうち玄関が開く。
心配になった母親は彼女を抱き寄せて家に上がらせる。
光に浴びらせた彼女は、母親に抱き着いて泣き始める。
訳も分からず、芝目の口から感謝の言葉が何度も放たれていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます