風切羽を切られた鷹

こはく

日没

 見慣れた帰路。と言っても最後に歩いたのはもう九年も前のことだ。


 俺は桜田陽平。御年34歳。新卒5カ月で人間関係の縺れからITベンチャー企業を退職。それから半年程、倉庫作業などの単発バイトで日銭を稼いで暮らしていた。だが貯金も尽き、家賃も払えず、ボロアパートを追い出され、逃げるように田舎の実家へと帰省。


 田舎と言っても、都会の人間が想像するような山の中という訳でもない。程々に大きい駅もある。少し電車に乗れば、そこはまたコンクリートジャングルさ。でも町自体はお世辞にも栄えてるとは言えない。寂れた商店街と住宅街。住宅も駅回りに数件のアパートがあるくらいで、後は全部小さな一軒家。辺りは田んぼに囲まれている。夜になると蛙が鳴き出し、川沿いでは柴犬くらいの大きさの鼠みたいな水生生物が巣を作っている。隣人の老夫婦のお孫さんが「あれはカワウソだ!」とか馬鹿みたいに騒いでいたのを何故だかふと思い出す。


 実家に戻ってから俺は、ゲームと酒に溺れ、引き籠るようになった。そんな俺を見かねたのか俺の叔父の友人であるアドルフ・スミスの協力もあり、今ではサンフランシスコの大手IT企業勤め。元から数学が得意だったとは言え、人生何が起こるかわかったものではないと俺は思う。


 絵に描いたような大逆転劇に心浮かれつつも、酒を抜き部屋から出て、安定を手にした俺は、かつての停滞した恋物語に哀愁を覚える。


 幼馴染の夢崎香織。俺は彼女のことがずっと好きだった。一説に寄れば子どもは 3 歳になると、異性の友達に対して好きという感情を見せはじめるらしい。勿論そんなものは人によって違う。だが俺が初めて、心がほのかに発火するような、そんな淡い恋心を抱き始めたのは、比較的早い方だっただろう。


 俺たちの親同士が仲良かったというのもあった。幼稚園の頃から一緒で。ずっと仲が良かった。だが夢崎は中学で、中高一貫の私立校へ受験することに。俺は彼女と同じ塾にずっと通っていたが、成績優秀な彼女とはクラスも分けられ、俺は塾をやめ勉強から逃げた。そして受験に落ちた夢崎を見て、心のどこかでほっとしてしまった自分が、子供ながら憎かった。


 安心したのも束の間。中学生活はあっというまに終わり、夢崎は私立の進学校へ。俺はそこそこの偏差値の地元の公立高校へ。


 夏休みに入る前、ひぐらしが鳴き始めた辺りだろうか。夢崎は高校で恋人を作った。当然だ。彼女は誰に対しても優しく美しく、昔から妙に大人びてて、名状しがたい色気を漂わせていた。あんな人が目前にいて恍惚するなと言う方が無理がある。


 そして俺はというと、高校では完全に孤立していた。かつての友人たちが皆都市部の私立校へ行ってしまったからだ。夢崎に思いを伝えられなかった未練もあっただろう。そんな苦い思い出を嚙み締めつつも、今の自分になら夢崎は振り向いてくれるだろうかという、淡い幻想が脳裏に過ぎる。かつては俺を置いて高みへ行ってしまった彼女も、今の俺なら追い越せたんじゃないかと。苦手だった英語も、ずっと海外にいたせいか、今では日本人とは思えない程に流暢だ。


 とまあ少し惨めでほろ苦い哀愁に浸りながら、懐かしの帰路を歩く。年末ということもあり少し早いが休暇を取って実家に戻ることにした。懐かしの我が家はとうに通り過ぎている。少し遠回りして、かつて夢崎たちと遊んだ公園の帰り道を歩く。あまりにも楽しくて門限を破り、くたくたの体を一生懸命走らせて帰ったことを思い出す。他のみんなは泊りだったが、俺だけ家の事情で帰ることになった。そんなあの日の帰路に哀愁を感じる中でのことだ。


 「あれ? 桜田君じゃん。」


 不意に声をかけてきたモデル体型な美女は夢崎香織。花柄の袖がついた黒のワンピースと細いヒール。記憶の中の夢崎とは似ても似つかなかった。見慣れた黒髪は茶色に染まっていた。髪型のせいだろうか。今のボブカットも似合ってはいるが、かつてのポニーテールの彼女と比べて、イマイチしっくり来ないところがある。年月のせいか。何故か俺は彼女をかつての想い人と認識することができなかった。


 停滞していた俺の恋物語は、そんな漠然としたざらつきを抱えたまま、もう少しだけ続くようだ。


 「ゆ...夢崎さん? 久しぶりだね...。」


 俺は目を逸らし、ぼそぼそとみっともない声で返答。その声はとてもじゃないがかつての想い人、将又昔よく遊んでいた幼馴染にかける声ではなかった。


 「あはは、何その反応。ウケるんですけど。」


 あの頃の面影を裏切るような、無遠慮な笑いが耳に絡みつく。


 「あ、そうだ。せっかくだし一杯付き合ってよ。昔のこととかさ。色々話したいじゃん?」


 形容しがたいモヤモヤが俺を動かした。俺は流れるように彼女の誘いに乗った。


 肩を並べ、夕日は沈み、段々と暗くなってきた小道を歩く。かつては当たり前の日常に過ぎなかったこの光景に、懐かしさを覚えられないのは、俺や彼女が変わってしまったからだろうか。それとも意地の悪い時の移ろいがそうさせているのか。決して戻れないあの頃の自分たちの残り香はまだそこにいるのか。そんな郷愁とは似ても似つかぬような感傷に浸る中で、夢崎は少し意外な事実を口にした。


 夢崎は自分と同じく独り身だった。その衝撃的な事実を嬉々として受け取らなかった自分には少し安心した。だが俺の心はかつての旧友を気遣う訳でもない。夢崎ならとうに誰かと結ばれている。自分なんかじゃ到底敵わないような誰かと。そんな根拠のない確信が俺の心の片隅にあったからだろう。


 夢崎は高校時代付き合っていた交際相手の男にひどい振られ方をしたそうだ。詳しくは聞かなかった。聞く気も起きなかった。彼女もあまり話したくなさそうだ。昔とは別人かと思える程の陽気さも、この時ばかりは消えていた。異様な陽気さが抜けた夢崎を見て、俺は初めて、かつての想い人が今目の前にいるのだと実感できた。その姿からは、どこか哀愁漂う老いというものが感じられる。


 やがて、街灯の灯りが一つ、また一つとともり始めた頃、俺たちはいつの間にか、駅前の小さな酒場の前に立っていた。


 「......まだやってたんだ、ここ。」


 夢崎が懐かしそうに笑う。その横顔に、あの頃の面影を探してしまう自分がいた。


 看板の灯りは相変わらず薄暗く、入り口のドアは昔と同じようにぎこちない音を立てて開いた。


 カウンター席に並んで腰掛けると、夢崎が店主に気さくに話しかけ、ビールと適当に何品かを注文した。気まずさもなければ、特別な空気もない。ただ、穏やかで、緩やかで、少しだけ冷たい時間がそこには流れていた。


 「桜田君、もしかしてここら辺久しぶり?」


 「ああ、そうだな.....。大学出てからはずっと海外にいたからな。」


 何で俺はこんなに息を吐くように嘘をつけたのだろうか。


 新卒の時、俺が勤めていた小さなITベンチャー。社長も社員も、やる気だけは一丁前な奴らだった。頭が悪い癖に、声ばかりはやけに大きい。そんな連中が昔から嫌いだった。きっと今頃、あんな会社潰れているだろう。決して俺の願望とかいう訳でもない。ただ漠然とそう思っているだけだ。


 「海外かぁ、いいなぁ.......。ていうか桜田君って英語話せたっけ?」


 「最初は全然わからなかったよ。ただ段々慣れていった。周りの人たちもみんな優しかったから、特に苦労はなかったよ。」


 「ふーん、そうなんだ。」


 手慣れた手つきでグラスが二つ差し出された。琥珀色の液体が静かに注がれ、音も立てずに真っ白な泡が立つ。


 「それじゃあ、再会祝いに。乾杯しようか。」


 彼女がグラスを持ち上げた。俺もつられてそれを掲げる。グラスが静かに触れ合った音だけが、やけに鮮明に耳に残った。


 家を出て、アメリカに渡ってからはずっと禁酒していた。きっと怖かったんだろう。現状に満足している自分が、かつての自分に戻ってしまうことが。仕事関係で飲み会などに誘われても、下戸だと嘘をついてその場をやり過ごしてきた。


 久しぶりに飲んだ酒は格別に美味いという訳でもなかった。こんなものに自分は溺れていたのかと。何とも言えない失意の風味が口いっぱいに広がる。


 それからどれくらいたっただろうか。酒も回り、俺たちは時間も忘れて昔語りに更けこんだ。停滞していた時間があまりにもあっという間に過ぎていく。子供時代に戻ったような気分だが、同時にどこか空虚さを覚えた。


 直に話題も尽きてきて、沈黙の時間が少しばかり間延びした。もういい時間だ。そろそろお開きといったところだろうか。


 「あぁ、久しぶりにいっぱい話せてよかったよ。それじゃあ。」


 「夢崎はさ......海外に興味があるの?」


 苦し紛れのつもりか。咄嗟に口に出した言葉に、俺自身も少し戸惑った。


 「........まあね。昔家族と旅行で行ったきりだからさ。陽平はずっと海外にいたんだよね? 折角だし聞かせてよ。なんか面白い話でも。あぁ、別に面白くなくても大丈夫だよ。」


 夢崎はグラスの底をゆっくりと覗き込み、残った泡を指でなぞった。その仕草を見て、俺はまた無意識に言葉を発していた。


 「じゃあどうしようかな........。それじゃあ、フロリダの湿原の奥深くに潜むと言われる、巨大な人食いクロコダイルに、一人息子を喰い殺されたあるハンターの話をしようか。」


 当然そんな話は知らない。今適当に考えた作り話だ。フロリダ出身の同僚が、実家にワニが出たとか騒いでいたのでそれを参考にした。クロコダイルだったかアリゲーターだったか、よく覚えてはいないが、そんな細かいことは気にする必要はないだろう。


 昔テレビで見たような話もうまいこと繋げ、とにかく大袈裟に話を進めた。


 「..........そしてワニはハンターにより射殺された。でも、復讐を終えたハンターの目は、酷く虚ろなものだった。ハンターは見てしまったんだ。たった今、自身の手で殺めた母親の死骸に寄り添う、子ワニたちの姿を.........。」


 どれだけ時間がたっただろうか。口下手ながらも、俺は何とかホラ話を終えた。


 「アハハ! 凄い! 面白い!」


 夢崎は席を立ち、満面の笑みで拍手した。自分が今適当に作った話の感想に対して、こんなこと思うのは何だが。この話に笑いどころなんてない。少なくとも、昔の夢崎なら、絶対にこんな話で馬鹿笑いすることなどない。


 でも少し嬉しかった。昔から口下手で、夢崎や仲の良い友人とすらうまくコミュニケーションの取れなかった自分の話を、こんなにも聞き入ってくれるとは思いもよらなかったからだ。幸せという感情に毒でも盛られたかのような、そんな気分だ。


 「ねえねえ。他に何か面白い話ないの? 聞きたい! 聞きたい!」


 「そうだな.........。それじゃあ今度は。」


 アメリカにいる間、俺はずっと仕事ばかりの毎日だった。仕事が嫌という訳ではないが、どこか退屈な日々だった。


 気付いたら酒瓶を片手に、俺は自分の暮らしてきた平穏とはまるで正反対の話を、一晩中語り明かしていた。見たら死ぬと言われるやせ細った男の話を。ある林道にて、夜にのみ現れるという小さな墓石の話を。棄児の水死体が化けて出ると言う池の話を。一度足を踏み入れたら最後、どこまでも続く奈落まで引きずり降ろされるという谷の話を。


 俺が引きこもり時代にハマっていたオカルト話とも知らずに、夢崎はゲラゲラと笑い転げていた。夢崎の笑い声が、少し遠くから響いてくるように感じた。酔いのせいじゃない。心のどこかが、急に冷えていく。


 「はあ、本当に面白いや。他になんかいい話ないの?」


 片手の酒瓶が空になると同時に俺の話も尽きた。何かいい話はないかと思案する。酔い潰れそうになりながらも、記憶を巡らせ続け、俺はある話を思い出した。


 「それじゃあ。今度は風切羽を切られた鷹の話をしよう。」


 「風切羽を切られた鷹?」


 この話は、俺がアメリカで同僚から聞いた話だ。都市伝説のようなものらしいが、調べてもそれらしい話は全く出てこなかった。かといって、ある一定の地域だけの話という訳でもなく、ニューヨークの起業家からコロラド州の農夫まで、アメリカでは幅広く言い伝えられてる話とのことだ。しかし実際知らない人の方が多いという。全て同僚から聞いた話なので、真偽まではわからない。


 この話は決して鳥の鷹の話というわけではない。これはとある元傭兵の男の話だ。


 男の名はケイン・ウィリアムズ。ケインは銃の名人だった。傭兵時代、彼に狙われた人間は、自ら命を差し出したと言う。何故なら彼に狙われたら最後、生き残ることなど到底不可能だったからだ。できる限り楽に死ねるよう、頭を一発で撃ち抜いて貰えるように、自らケインの前に姿を晒す者がほとんどだったという。


 そんな彼が傭兵を引退した理由はただ一つ。彼は人殺しを生業とするにはあまりにも優しすぎた。彼にとって人を殺すという行為は非常に耐えがたく苦しいものだった。


 引退後も彼は、愛用するアサルトライフルを使い、強盗から隣人を守ったり、彼の噂を聞きつけてやってきた荒くれを返り討ちにしたりした。


 そんなケインの最期は、酷く呆気ないものだった。彼を殺したのは無職引きこもりの虚弱な男だ。男は少年時代に、同級生から壮絶ないじめを受け、学校をやめて引きこもりに。幼気な少年だった男が心に負った傷は、想像もつかない程に深いものだった。


 やがて男は世界そのものに憎悪を抱くようになっていく。男は親から盗んだ金でギャングから銃を購入。男は自殺を決意していた。しかし男は、死ぬ前に誰でもいいので人を殺してみたかったそうだ。せめて誰か、幸せそうな人間を道連れにしようと。そんな男の標的にされたのがケインだった。


 その国では銃の所持が禁止されていた。銃の名人であったケインでも、銃がなければ、銃なんて触ったこともないような虚弱な引きこもり相手に、成す術もなく殺されてしまうという皮肉な話だ。


 「ケインの望みはたった一つだったと言う。せめて残りの余生は、銃のない平和な国で暮らしたいと。そう願った彼の悲劇的で皮肉な最期さ。」


 俺が話を終えても夢崎は笑うことはなかった。それどころか表情一つ動かない。再び俺たちの間に沈黙が流れる。どれ程時間がたっただろうか。店主から閉店時間だと告げられ、俺たちは店を後にした。


 店を出ると雨が降っていた。寂れた商店を潤すかのように、異様に大きな雨粒がポツポツと降り注ぐ。


 「えーっ、雨じゃん........。私雨嫌いなんだよね。」


 夢崎が顔を顰める。


 「..........俺は結構、好きだな。雨。」


 高校時代。孤立していた俺に突然話しかけてきた奴がいた。バスケ部の同級生の男だ。名前はとうに忘れている。クラスの中心人物というわけでもないが、中心の連中と非常に仲が良く、そのお陰か、性格の悪い彼の周りにも常に大勢の人だかりができていた。


 バスケ部の男は、俺を放課後のクラスの集まりに誘った。場所は近所の小さな公園。予想通り、約束の時間になっても誰も来やしなかった。ただの冷やかしだ。どうせ嘘だってわかっていても、つい気分舞い上がって騙されてしまった自分が、恥ずかしくて惨めで仕方なかった。


 その日の帰り道は雨だった。霧雨だ。俺は彼らに感謝した。彼らは意地悪な太陽とは違う。いつも俺のそばに、何も言わずにそっと寄り添ってくれる。彼らだけは俺のことをわかってくれている。彼らだけはずっと一緒にいてくれる。あの日に雨が降ってくれて、本当によかったと、今でも思わずにはいられない。


 「桜田君、雨が好きなの?」


 「うん......雨は好き。太陽なんて嫌いだ。」


 「えーっ、そうなの? じゃあ給食の時間に、夢崎さんの笑顔は太陽みたいで素敵だ! って言ってたの。あれは褒めてたんじゃないの?」


 「.........そんなこと言ったっけ?」


 「言ってたよ。あの時私、凄い嬉しかったんだよ! なんか、昔の私って凄い地味で根暗だったじゃん? だから太陽みたいなんて言われて。あの時は本当にときめいちゃってたんだよ。」


 夢崎は静かに頬を赤らめた。



 あぁ、太陽なんて大嫌いだよ。俺にとっては眩しすぎた。直視することさえ許されない程に。俺が君の隣に立てるのは。それはきっと、日没の刻だけだろう。



 常備していた折りたたみ傘の中に夢崎を入れた。そして夢崎を家まで送り届け、長い長い寄り道は、雨音と共に静かに幕を閉じた。


 「風切羽を切られた鷹か..........。」


 見慣れた帰路。そこにはかつて俺たちだったものが確かに存在していた。俺はどうしても会いたかった。かつての自分に。長年思慕の念を募らせた彼女の面影でもなく、ずっとそばにいた自分に会いたかった。あの頃の自分は、今の俺たちを見て何と言うのだろうか。何を思うのだろうか。


 そんな漠然とした問いの答えを、どうしても知りたかった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

風切羽を切られた鷹 こはく @kohaku17

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ

参加中のコンテスト・自主企画