選ばれたのは嘘つきでした

瀧岡くるじ

第1話 記憶喪失

「では涼介さん。ご自身の生年月日は答えられますか?」


 蛍光灯の白い光が、天井の模様のない白い石膏を平たく照らしていた。機械の動作音が規則的に耳に届き、ピッ、ピッ、と電子音がどこか遠くで鳴っている。


「すみません。ちょっと思い出せなくて……」


 病室のベッドに上半身だけを起こした僕は質問にそう答える。先生は抑揚のない声で「なるほど」とつぶやくと、淡々とカルテにペンを走らせた。


「やはり検査の結果通り、事故のショックで記憶がなくなっているようです」

「それじゃあ、僕は記憶喪失ってことですか?」

「そうですね」


 僕の名前は大鷹涼介おおたか りょうすけ……というらしい。


 都内の私立に通う高校二年生。父との二人暮らし……なんだとか。


 こうして改めて確認してみてもまったく実感がない。


 どうやら一週間ほど前。僕は交通事故に巻き込まれたらしい。大きな怪我はなかったものの、その時の衝撃で記憶喪失になってしまったようだ。


 記憶喪失。自分で言ってみたものの、まるで現実味がない。


 だが現に、僕は自分が誰なのか。何歳なのか。どんな人間だったのか。


 まるで思い出せないのだ。


 僕自身のパーソナルな情報は教えてもらったが、それが自分自身に結びつかない。そんなもどかしい感覚が歯がゆくて、苦しい。


「いつ……いつ思い出せますか?」

「こればっかりは何とも言えません」


 どうやら僕の症状は『逆行性健忘ぎゃっこうせいけんぼう』の可能性が高いらしい。発症以前の記憶……つまり家族や友人のこと。学校、趣味、本当の自分の性格などを忘れてしまう。自分が誰であるかという人間にとって大切な記憶が失われるということだ。


 一方で一般常識や教養、論理的思考や語彙、培った運動能力は失わない。

 つまり「自分が記憶を失った」ということだけはわかっている状態になる。

 これが逆行性健忘の特徴だという。結構つらい。


 自分の名前も家族の名前も思い出せない一方で、ここが病院であることや、目の前の白衣を来た男が医者であることはわかる。


「このままずっと記憶が戻らないこともありますし、何かをきっかけに突然思い出すこともあります」

「そうですか……」


 きっかけがあれば……か。先ほど、父親だという中年の男性が尋ねてきた。


「生きていてくれて、本当によかった」と、やさしく抱きしめてくれた父を名乗る男。

 その反応からして、おそらく彼は本当に大鷹涼介の父親なのだろう。愛されていたこともわかる。

 だが僕にはその実感がまるでなかった。

 家族を見ても記憶が戻らないなら……一体どうすれば記憶が戻るというのだろうか。


「涼介くん!」


 その時、病室の扉が開かれた。

 肩で息をしながら立っていたのは黒髪の美少女だった。僕と目が合うと、美少女は目に涙を溜めながら駆け寄ってきた。


 もちろんその姿に見覚えはない。


「よかった。目が覚めたって聞いて……急いで来ちゃいました」

「あ、ええと……」


 抱きしめられて思わず言葉を失う。彼女の甘い匂いと汗の香り。ここまで走ってきたのだろうか。だとすると、クラスメイトか友人か。それとももっと近しい関係なのか。


「ええと……その」

「すみません。涼介さんは記憶を失っています。気持ちはわかりますがここは抑えてください」

「記憶を……?」


 ぎゅっと抱きつく彼女をやんわりと引き剥がした。

 僕のそのリアクションで、美少女の顔が悲しみで歪んだ。


「本当に記憶……忘れちゃったんですね……」

「すみません」


 泣きそうな彼女を前に何も言えないでいる俺に変わって、医者が冷静な口調で尋ねた。


「失礼ですが涼介さんとはどういったご関係で?」


 それは僕も気になっていたことだ。彼女は少し言いづらそうに目を伏せると、頬を染めながら言った。


「す、すみません。私ったらつい。ええと。恋人……彼女です」

「なるほど、彼女さんでしたか」


 彼女。つまり、僕はこの美少女と男女のお付き合いをしていた……ということでいいのだろうか。


「はい、そうですよ。私は君の彼女。秋葉杏里あきば あんりです。ええと、何か……思い出さないですか?」

「ごめんなさい」


 彼女の名前を聞いても、やはり何も思い出せなかった。


 杏里さんは一瞬、泣き出してしまうのではという程に表情を歪めたがすぐに笑顔を作った。


「ううん。いいんです。涼介くんのペースで、ゆっくり思い出していけば。とにかく、無事でよかった」


 悲しみを堪えた、僕を気遣う気丈な笑顔に心を打たれた。単純だけど、記憶を失う前の僕はなんて幸せなヤツだったんだろうと、そう思った。


 いや、間違いなく今も幸せだろう。何しろ、こんな可愛い子が彼女で、こんなにも僕を愛してくれているのだから。


「彼女さんでしたら、是非思い出話なんかをしてあげてください。何かをきっかけに記憶が戻る可能性がありますから」

「は、はい!」


 彼女さんというワードに、杏里さんは嬉しそうに頷いた。


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