灰歩きのカレト

@yonakahikari

1.魔女と新緑の季

 新緑しんりょくの季節を待たずして、私の母は死んだ。

 早朝の出来事だった。

 葬送の日取りは即日と定められた。

 聖女アンナの死に触れた大半の者が「ゆとりを設け、入念な準備と公布を施すべきだ」と意見したけれど、教皇レガリアの一声によって沈黙したのだ。


『偉大なる聖女の亡骸なきがらは、偉大なればこそ早々に灰塵かいじんへと還すべきだ。きっと彼女自身もそれを望むだろう』



——————



 聖都奥部。

 日常には聖歌が鳴り、多くの人々がその響きに酔いしれる公会堂の参列席は、一階二階の吹き抜けた空間に敷き詰められている。それは、幾百の人影を以てしても決して埋まらない。

 けれど、その日は埋まった。

 都内のみに収められた訃報ふほうと葬送の公布は、されど都内の全信徒の足を動かすばかりに留まらず、早馬で駆け付けた近隣諸国の王公貴族や教会の上位階級、更には偶然、付近に居合わせた旅人達や行商をも招き寄せた。

 堂内に入りきらず、周囲広範に広がる庭園に押し寄せた人波を見れば、教皇の判断が正しかった事を誰もが推して知っただろう。

 一日、また一日と日取りを待てば待つほどに、それらは留まる事を知らず肥大し、聖都全体の許容を超えて埋め尽くしたに違いないのだ——などと言う人のやり取りを、私は黙して聴いていた。

 人波の最前線、遺族の参列席に座するのは私と乳母の二人きり。

 幾人かの人が、母親の葬送に際し、涙を見せない私を励ましてくれた。

「強い子だ」

「可哀想に、まだこんなにも幼く……」

「次代の聖女を、我々は必ずや支えましょう」

 数多の言葉を受けて、私はどうにも、バツが悪かった。

 その時の私は、どういう訳か自分でも分からないけれど、思っていたのだ。

 泣いてはいけない、と。

 今にして思えば全く見当違いだったと思うけれど、周囲の人々が泣き咽ぶ声を聞いて、そんな重圧を感じていたのである。

 私は乳母の手を強く握り締めた。

 乳母は何も言わず、握り返してくれた。

 その手の温もりに少しばかりの安堵を覚えつつ、私は伏し目がちに、母の遺体を見つめる。

 天井の色彩硝子から射し込んだ陽光が、この世の創造主たる始祖達をかたどった巨大な彫像を照らす。

 彼らの中央に立ち、一際大きく造られた女王の像。

 慈愛に満ちた眼差しの先。祭壇の上に、母の遺体は安置されている。

 庭園で育てられた草花によって彩られた寝台の上、簡素な純白のドレスを纏い、眠りに就く母。

 その前に、幾人もの祭祀官がうやうやしく進み出てはひざまずいた。

 人差し指と薬指をつまむように合わせて、自身の胸の前に正円を描く。

 簡易的に信仰を示すその動作を何度となく見送り、残すは最後、亡骸を灰へと還すのみとなった頃……その人は現れた。

 ゆっくりと開かれた正門の先、黒く光沢を放つ鎧に身を包んだ騎士の隊列が、後光を供に行軍を開始する。

 祭壇に向かって敷かれた赤絨毯を挟み、二列縦隊で剣を胸に掲げる。

 そんな彼らの中心点。

 たった一人赤色の上を歩く彼女の姿は、いつか母より語り聴いた、伝承の存在を思わせた。

 “魔女”だ。

 褐色の肌。

 金の刺繍細工が施された黒い祭祀装束。

 或いは踊り子の様でもあるそれらは、幼い私の心にも官能的な印象を与えるほど、独特の妖艶さを有していた。

 深々と被ったつばの広い帽子。その唾の前面に空いた二つの穴は、まるで獣の双眸そうぼうを思わせ、そこから灰色の髪と黒い何かが覗く。

 その何かは、彼女の瞳だった。

 黒い瞳をこの時、私は初めて見た。

 星の無い夜のように暗く、研ぎ澄まされた刃の様に鋭い眼光は、一心不乱に母の遺体へと向けられている。

 魔女は一歩、また一歩と歩みを進め、やがて御前へと辿り着いた。

 他の者と同じように正円を描き、母の胸元へと片手を置く。

 そうして。

「土は、土に」

 と、呟いた。

 その後の光景を、私は今も明瞭に記憶している。

 魔女の手と母の胸の隙間から、光が込み上げた。

 白と黒の螺旋らせんとなって昇る無数の光。

 その光は、柳の枝のようにしなりを帯びて逆巻く。堂内に吹き荒れる風が母を、魔女を、参列者と騎士達を、私の頬を一撫でして去っていく。

 驚きの声を漏らして狼狽する人も少なくない中、私の目は光景の中心たる魔女へと釘付けられていた。固唾を飲み、瞬きも忘れてその美しい光景を胸に刻む。

「塵は、塵に」

 と、言葉は続く。

 拡散した光は一転、収束して降り注ぐ様に、母と魔女とを覆い包んでいく。

 形を変え、煌めきを放つそれはまるで繭だ。

 美醜の感覚に疎い私にも、それが至高の芸術を遥かに凌駕する『本物の美しさ』であると確信が出来た。

 背景の始祖像は、普段こそ多くの人々の崇拝と賛美の対象だが、今は路傍の石ほどの存在に成り果てている。不敬ではあるが、きっと私以外の誰にもそのように感じられただろう。

 幾重にも折り重ねられる光の束。

 全ての光が折り重なった時、最後の言葉は紡がれる。

 その瞬間を、私は息をするのも忘れて、見守っていた。

「灰は、灰に」




——————




 ふと、大きく身体が揺れる。

 意識が途切れるかの如く、私は目を覚ました。

「……あ」

 曖昧な思考、ぼやけた視界に映る質素な荷馬車の内装。

 狭く、薄暗い空間を、物見の窓から陽射しが覗く。その向こう側で、新緑が揺れている。

 固い座席とカビの臭い。

 蹄鉄ていてつが土を蹴飛ばし、車輪が不器用に地面を滑る音が、鼓膜を振動させる。

「起きましたか?」

 すぐ隣から発せられた明朗な声に、ゆっくりとそちらを見やる。そこには、最近知り合った少年の穏やかな微笑みがあった。

 流麗な曲線を描く栗色の短髪。ぱちりと開いた青い目は、月並みの表現ではあるものの、宝石のように輝いている。

 歳は私と同じ十四の筈。相応の少年らしい柔和な顔立ちは、けれども妙に大人びた端正さを併せ持っている。

 いつか誰かに、「キミ達はよく似ている」と言われた事があったけれど、その意味はちっとも分からない。

 今だって利発そうに笑みをたたえた彼の表情と比べ、私は口を開けて間抜けた顔をしているに違いないのだ……と。

 そこでようやく、私は羞恥心を取り戻した。

「あ、え……えぇ! ごめんなさい! ええと……っ」

「とても気持ち良さそうに眠っていましたね」

 取り乱し、何故か謝ってしまう。

 そんな私の様子を見て、彼はくすりと笑う。不思議と、嫌な感じはしなかった。けれども、少しだけ不満がこみ上げる。

 寝惚けて恥ずかしい所を見せたのは他ならぬ私であり、彼に非は無いという事は分かっている。されども、乙女の寝姿を覗くのは紳士にあるまじき行いだ。

 普段の私であれば、少しは文句を言ってもいいだろうと責めたに違いない。

 けれど、今はまったく恥じ入るばかりで、私は固く口を結んで俯いた。

 顔が熱い。耳が真っ赤になっている事が自覚出来る。

「すみません。あまりに可愛らしい寝顔だったので、起こすのを躊躇ためらってしまいました」

「う……」

 そう言われると、余計に恥ずかしい。

 よく見れば、彼の真っ白なワイシャツの襟から肩口にかけて、私の方に向いた片側だけ皺が寄っている。肩を借りて枕にしてしまっていたのだろう。冷静になればなるほど、恥の上塗りに気付いて気持ちが沈んでいく。

「ごめんなさい、ベニー」

 今度はしっかりと意味を持って、謝罪の言葉を口にする。

 彼、ベニーは微笑みを絶やさぬまま「いいえ」と応えた。まるで悪戯いたずらが露見してしまった子供と、それを諭す親の様だ。本当の本当に、彼と私の何処が似ていると言うのだろうか。

「そろそろ着くみたいですよ」

 言って、ベニーは窓の方を見る。釣られてそちらに視線を向けると、街道の木々の向こうに、そびえ立つ巨大な石の外壁が見えた。

 ルプステラ大陸南央に位置する商業都市の、城砦じょうさいの如き外壁は、磐石且つ壮観であると有名だ。

 実際、遠目に見てもその様は圧巻であり、どの様な不埒者も決してこれを攻める愚は犯すまいと納得し、感心する。

「あの場所に、居るんですよね」

 刹那、語気を重くしてベニーが呟いた。

 振り向けば彼の表情からは笑みが消え、顔立ちから矛盾して大人びた面相だけが残っている。

 その胸中をなんとなく、私は理解していた。

 否、共感というべきかもしれない。

 恐らく彼と私は今、同じ思いを馳せている。

「フィーネは会った事があるんですよね?」

 私の視線に気付き、彼は取り繕う様にして笑みを浮かべ、私に訊ねる。

 そんな風に気を遣う必要は無いのに、と思いながら、私は敢えてそれを口に出さず彼の問に答えた。

「小さい頃に一度だけ、ね。それに遠目で見ているだけだったから、話した事だって無いわ」

 ほとんど初対面の様なものだ。向かう心持ちはベニーとそう変わらない。

「でも、そうね。あそこに居るんだわ」

 言って、再び外壁へと目を向ける。

 あの広大な砦の中に、大陸で最も自由と謳われる街がある。

 そしてその街の中に、彼女は居るのだ。

「僕達の……」

「……えぇ」

 私達の死を看取ってくれる人が、そこにいる。

 窓から風が吹き抜ける。

 一陣の風はいつかの様に新緑と、私と、ベニーの頬を撫でて去っていった。

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