9 彼女がカヌレを焼く理由

 ドリュアデスは次第におばあさんの家にお邪魔するようになりました。 

 おばあさんは毎朝起きると白湯を飲んで朝日を浴びて庭で採れた野菜でサラダを作り、健康的な朝ごはんを食べます。そばには目玉焼きとフレッシュチーズに果実のジュース。それを時間をかけてゆっくりと味わいます。


 朝食を終えたらとことこと町へ買い出しに、その途中で図書館で数冊の本を借ります。金銭はわずかなので買えるものといったら少しのベーコンと卵と刺繍糸だけ。

町から帰ると針仕事に時間を費やします。彼女の作る刺繍はガラス細工のように美しく町の専門店へ赴けば高値で買い取ってもらえます。


 そして針仕事に疲れたら彼女は決まってカヌレを焼くのでした。


 ドリュアデスは彼女の丁寧な暮らしをのぞき見しながら自分もマネしてみたくなりました。でも彼女の書いたレシピは人間の文字で読むことが出来ません。


「おばあさん」

「なんだい、ドリュ」

「わたしもおばあさんみたいにカヌレを焼いてみたいの」

「じゃあ、教えてあげるよ」


 おばあさんは一から丁寧にカヌレの作り方を教えてくれました。


「ラム酒はケチらずたっぷり使うんだよ。そうそうバニラはエッセンスじゃなくてビーンズの方。ああ、ダメだよドリュ。卵は上手に割らないと」


 二人でくすくすと笑いながらカヌレを焼いてはおやつに食べました。


 ドリュアデスは次第におばあさんの生活そのものに興味を持ち始めます。すべてを慈しむように暮らす彼女の生活そのものに憧れを抱き、自分もそうしてみたいと願うようになりました。


 ドリュアデスは森で姿を消すことを止めおばあさんの縫ってくれたワンピースに袖を通し、庭仕事を手伝って夜は一緒に眠ります。

 精霊はずっと一人きりで生きてやがて消えゆきます。でもおばあさんといるその瞬間だけは生きていると感じることが出来るのでした。




 おばあさんはドリュアデスに文字を教えました。書くことは出来なくても彼女が文字を読める理由はそれです。彼女は決まって口癖のようにいっていました。


「眠る前の三十分でいいから本を読むんだよ。読書は人生を豊かにしてくれる」

「本当?」

「ああ、本当だよ。わたしを見ていると分かるだろう」


 おばあさんはチャーミングな笑顔でそういいました。ドリュアデスは彼女暮らしが充実している理由がそこにあるような気がしました。


 最初はおばあさんの部屋の本の挿絵を眺め、やがて簡単な本を。次第にちょっと難しい本まで読むようになります。するとどうでしょう、今までおぼろげだった自身の存在が今確かにそこにあるような気がしてきたのでした。


「おばあさん、あのね」

「なんだい、ドリュアデス」

「わたし、おばあさんが大好き」


 おばあさんは返事をせずににっこりと笑って眠りについたのでした。




 ある日、おばあさんは布団から目覚めませんでした。置物のように静かにこの世を去ったのでした。

 ドリュアデスは悲しみに暮れて、けれどどうしても涙が出ません。泣くことが出来ないのは彼女が人間ではないからです。精霊だからです。


 精霊を呼び集めてお墓を作り、花で埋め尽くします。人間は別れるときはそうするものだと知識にあったからです。それでも人並の感情を持つことが出来ません。


(こういう時は何ていえばいいんだろう)


 お別れの言葉は彼女の辞書になかったのです。ふと飛んできた蜂が冷たくなった彼女の頬に止まり去っていきます。冷たい木枯らしが吹いています。晩秋のことでした。


 葬儀を終えたドリュアデスはおばあさんの机の引き出して手紙を見つけました。ドリュアデスへ向けてのものでした。おばあさんは分かりやすく大きな文字でこう書いていました。



『ドリュへ。カヌレ型とこの家を好きに使っておくれ』



 その日からドリュアデスはおばあさんの家に住みこんで、彼女の暮らしぶりを真似て生活を始めます。普通の精霊ならばしないことですが、彼女は少し違います。時には手を汚し畑仕事に勤しんで、読書も忘れるくらいにくたくたに疲れ果てて眠ります。夢のなかにまで届くのはパールライトの香り、優しい匂いに包まれて幸せな夢を見ます。


 それから数えきれないほどの四季が巡り、森で拾ったフェンリルの幼生と同居するようになり、カヌレを売ることを覚え、次第に彼女の生活は豊かになっていきます。


 時には寂しさに負けそうになることもあります。そんな時は幸せなふりをしてカヌレを焼きます。そうすると幸せが向こうからやってくることを知っていたのです。彼女はおばあさんに教えてもらったことも自分で学んだこともすべてを生活の糧として森でも暮らしを目一杯楽しんだのでした。


 そしてある日、森で彷徨っていた青年テオが彼女の家を訪れることになるのですが、それはまだずっとずっと遠い日ことで。

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