狛犬をひき逃げ

仁木一青

狛犬をひき逃げ

 深夜、スマホが鳴った。


 画面を見ると後輩の名前。過去の経験が頭をよぎる。

 こいつから真夜中に電話があるときは、だいたいロクなことがない。

 トラブルが起きたときだけ、決まって俺に泣きついてくる後輩だ。


「……おう」


 不機嫌な声色を意識して俺は電話に出る。しょうもない用件なら張り倒すぞ、という気持ちをこめたつもりだ。

 すすり泣くような声が聞こえてきた。


「先輩、やばいんです……俺、どうしていいか……やばい、どうしよ……やばい……」


 同じような言葉を繰り返すばかりで意味はわからないが、何かを必死に伝えようとしているのは理解した。普段は調子のいいこいつが、これほどまでに取り乱しているとは。


「落ち着け。何があった?」

「俺たち、神社で……」


 要領を得ない言葉を口中でつぶやいていてよくわからない。

 もう遅いから話は朝にしろ、と言いかけたそのときだった。


「ひき逃げ」

 聞き捨てならない言葉が聞こえてきた。


 血の気が失せた。まさか人をひいたのか。


「そこを動くな」


 そう言いおいて、すぐにバイクにまたがった。場所は旧道沿いの古い神社の近くだった。風を切って走りながら、最悪の事態が頭をよぎった。


 救急車と警察車両が頭に浮かんでは消える。後輩の人生が終わってしまうかもしれないという不安を振り払うように道を急いだ。


 神社への参道入口に到着すると、街灯の薄明かりの下で縮こまるように立っている後輩の姿が見えた。

 ひとりだ。ブレーキ痕も血痕らしきものも見当たらないのを不審に思いながら、後輩を問い詰める。


「お前、救急車は呼んだんだろうな。それに警察は……」

「違うんです。ひき逃げはできなかったんです」


 俺は思わず顔をしかめた。できなかった?


「話してみろ、隠し事はなしだぞ」


 後輩はかすれた声でおずおずと語り始めた。


「幼馴染二人と酒を飲んでたんです。気が大きくなっちゃって、この神社に来て……」


 彼の言葉によれば、酔った勢いで神社から狛犬の片方を引きずって道路に置いたということだ。「車にひき逃げさせたらおもしろいだろう」とは、若気の至りとしてもあまりに不謹慎で愚かな発想だった。


「お前らってヤツは……」


 思わず天を仰ぐ。

 バカすぎて、怒る気も起きない。


 後輩は顔を伏せたまま、小さく震えている。

 顎をしゃくって続きをうながした。


「そしたら、車が通っても何の音もしなかったんすよ。おかしいと思って物陰から出てみたら……その……」

「どうしたよ?」

「狛犬が消えてました」


 にわかには信じられない話だった。石でできた狛犬が、まるで煙のように消え去るなどということがあるだろうか。しかし、後輩のおびえ方は演技には見えない。


「とにかく、朝一番で謝りに行くぞ」

 そう言い聞かせて、その夜は帰らせた。


 翌朝。

 後輩を連れて参道をのぼり、境内で掃除をしていた神主に事情を説明する。


 白髪の神主は俺たちの話を黙って聞いていたが、やがて静かにうなずくと「こちらへ」と本殿の方へ案内してくれた。


 本殿の前には昨晩持ち出されたはずの小ぶりな狛犬が、まるで何事もなかったかのように鎮座していた。

 口を開けた阿形あぎょう、口を閉じた吽形うんぎょう。一対の狛犬に欠けはない。


 神主は元の場所に戻った狛犬を、どこか畏怖するような目で見つめた。


「このように、ご自分でお戻りになられたようですな」


 後輩が露骨にほっとした顔をしたので、俺は内心で舌打ちした。


「え? じゃあ、許してもらえたってことですか?」


 なんでそうなる。このドアホが。

 安堵の表情を浮かべる後輩を睨みつけた。


 すがるような後輩の視線を受けた神主は、首を横には振らなかった。かといって、縦にも振らなかった。


 ただ、厳かに俺たちを見据えて、静かに言った。


「私の方からは、もう何も申し上げません。あの方が本当にお怒りを鎮められたのか、それともまだ何かをお考えなのか……それは、私ごときにはわかりかねます」


 後輩はあわてて土下座し、「何でも罰を受けます」と頭を何度も石畳に押しつけた。俺もとなりで深々と頭を下げる。


 神主は少し考えたあと、試すような眼差しで告げた。


「では、誠意をお見せになることですな。お身体を洗い磨き、本殿までの道を掃除されてはいかがでしょう。ひとまず、七日ほど」


 後輩は即座に同意した。

 その日から毎朝、神社に通い、狛犬をていねいに磨き、石段を掃き清めた。

 一週間、雨の日も欠かさず、真面目に償いを続けた。神主も「よくやってくれました」と労をねぎらってくれた。


 ここからは、俺が後輩から聞いた後日談だ。

 一緒に狛犬を盗んだ二人は、どうなったか。


 ひとりはある晩、ガンッという凄まじい音に飛び起きた。まるで何かが全力で体当たりしたような衝撃音。

 玄関のドアが内側に向かって大きくへこんでいたという。


 翌朝、ガレージの愛車を見ると、フロントバンパーが粉々に砕けていた。まるで何か硬いものに激突したかのように。

 その日の夕方、そいつは青ざめた顔で神社に謝りに来た。


 もうひとりは、謝りに来なかった。

 彼女の家に逃げこんで三日。そろそろいいだろうと外に出たところで、見えない何かに突き飛ばされるように宙を舞った。

 背中から道路に叩きつけられ、半年の入院。


 そして、ようやく社会復帰したその日。

 今度は病院の駐車場で、また見えない何かに吹っ飛ばされた。周囲に車も人もないのに、まるで大型車にはねられたような衝撃。

 地面に投げ出された後、見えない何かに思い切り踏まれたそうだ。


 出てきた病院にそのまま入院することになった。

 狛犬の気がすむのがいつになるかは誰にもわからない。

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