第47話 二つの夜明け
──魔王バルド視点──
マグ=ホルド攻囲戦・十四日目
終夜はまだ醒めぬ。
黒い太陽は天に釘付けにされたように、帝都の真上で脈を打っていた。
朝焼けは訪れず、ましてや沈みもせず――ただ、黒い光を撒き散らし、世界を覆う。その下で、マグ=ホルドの石畳は闇を映して鈍く光っていた。
玄関前の石畳には、黒いスケルトン・ホースに跨った軍勢が立ち並ぶ。
本来、骨馬は白骨のまま蘇る。だが――
長き戦場を俺と共に駆け、幾度も死線を越えたオルク=ガルの“古参の骨馬”だけが、魔王覚醒の瞬間に黒へと沈んだ。
まるで彼らの骨そのものが、冥界の影を吸い込み、主の変質に応えたかのようだった。
黒鉄の鎧には油が差され、血を弾き、今は凍るように冷たかった。
兵の肩が並び、呼吸が合わさり、槍の列は壁のように整然と続く。
風は止み、声はなく、金属の匂いと鉄錆の味が空気に満ちている。
――誰も、動かない。
ただ、すべての視線が一点――最前列の“俺”を見据えていた。
命令を待つのではない。
ただ、俺が息をするのを待っていた。
胸の奥で、血が熱く鳴る。
この三日間、俺はアーマーピアサーの増産に力を入れ、あえて“行動を起こさなかった”。
闇が敵の心を削り、夜が理を崩す。
そして今、この静寂の果てで、俺は“終夜”を使って奴らの魂を刈り取る。
俺の眼前には、八脚の巨大な魔馬が立っていた。
死霊術で蘇生した最初の死者――デュラハン・ホース。だが、もはやその呼び名では足りない。
“魔王”へと覚醒した俺との魂の繋がりは、この魔馬にすら変質を強いた。
馬に首はない。
それでも、その存在は“欠落”ではなく“完全”だった。
筋肉質な漆黒の首無しの胴は、
光なき神殿の柱のように静謐で、
断面は冥府へ続く門扉のように不気味だった。
王を戦場へ載せるためだけに存在する影の器。
その八脚は、地を踏むのではない。
空間そのものの踏み越える。
蹄が振り下ろされると、空気が震え、黒霧が低く嗚咽する。
“虚無”は語っていた。
──頭はいらない。
思考し、命じるのはただひとり。
皇帝だけだ。
――
その躯は黒霧を纏いながらも、どこか神聖だった。
黒い隕鉄の鎧は、夜の海に沈む星の殻のように静かに輝き、
群青と黒の輪郭は、まるで現世の境界を曖昧にするように揺れている。
俺と魂の鎖で繋がれた、冥界の獣。
それは不気味なまでに静かで、同時に――どの聖獣よりも崇高だった。
──── STATUS ────
【魔馬】
【称号】 《戦神の軍馬》
└ その疾駆は、冥界・人界・魔界の境界を踏破する。
【ユニークスキル】
◆
常時、黒霧を展開し、敵軍の精神抵抗を侵蝕・低下させる。精神抵抗が0になった敵は、“恐慌”状態となる。
霧中での攻撃は威力を減衰し、命中率を奪う。
◆
霊核より発せられる嘶き。
範囲内の“恐慌”状態の生命を即死させる。
その嘶きは冥府の鐘声、死者の行進を告げる音。
──────
スレイプニルの黒霧が俺の周囲に広がり、石畳の上を這う。
兵たちの脚甲に纏わりつき、鎧の継ぎ目から熱を奪っていく。
それでも誰一人、震えなかった。
彼らは恐れていなかった――この夜の下で戦うことを。
鉄の匂いと血の記憶が、胸を満たす。
俺の視界に映るものすべてが、異様なまでに鮮明だ。
石の割れ目、鎧の錆、兵の瞳に映る黒い太陽。
全てが俺の支配の内にある。
「……征くぞ」
その声は低く、だが戦場全体に響いた。
空気が震え、空がたわむ。
膝を折る兵が続き、槍の列が微かに揺れた。
命じてはいない。
だが、すべての心臓が――俺の鼓動に従っていた。
黒い太陽が、遠くで一度だけ“脈”を打つ。
それが合図だった。
グル、テルン、シャドリク、アクーバ、ムルガン、シャマルク。
名将たちの影が、俺の背後に並ぶ。
その眼には、恐れではなく渇望があった。
“マグ=ホルドの完全開放”という、戦士の矜持。
俺はゆっくりと巨人の剣を掲げた。
隕鉄の穂先が黒日の光を弾き、帝国旗に炎を灯す。
その火は幻ではない。――誓いの焔だ。
「――最終決戦だ!奪う者として、奪われた歴史に終止符を打つ!諸君らの闘争は、
声が城壁を震わせた。
槍が一斉に掲げられ、地鳴りのような鬨が夜を裂いた。
「ザイン! ザイン! ザイン!」
大地が応え、空が共鳴する。
黒い太陽が鼓動を返す。
俺は言葉を重ねた。
「よろしい!ならば、我らが夜を教えてやれ!黒き日輪は諸君らの背を祝福するだろう!」
跨ったスレイプニルが嘶く。
八脚が地を蹴り、黒霧が巻き上がる。
石畳が軋み、鎧の列が動く。
「――オルクザイン帝国、出陣!」
黒鉄の門が軋み、開いた。
闇が割れ、風が哭き、焔が唸る。
全軍が一歩、前へと踏み出す。
地が鳴動した。
夜が揺れた。
そして黒日が、脈動した。
この十四日目の夜――
マグ=ホルド攻囲戦。
“帝国の反攻”が、最終決戦が、いま始まる。
♦
──人間側・ ロダン視点──
黒日が昇ってから、四日が経った。
それでも――奴らは、一度も攻めてこない。
奇襲も、魔術も、挑発もない。
ただ沈黙だけが続いていた。
その“静けさ”こそが、確信となった。
――あの男、《黒鬼》が、“魔王”となったのだ。
天幕の中、ロダンは報告書を机に置き、深く息を吐く。
外では風が止まり、焚火の赤だけがゆらゆらと揺れている。
昼も夜もない世界。空は黒い太陽を抱えたまま、沈黙していた。
(……この戦は、もはや神話の領域に入りつつある)
だが、地図の上ではまだ戦が続いていた。
紙の上に引かれた線を指でなぞる。
指先が擦れる音が、唯一の現実だった。
力を得た者は、すぐにでもそれを振るいたくなる――それが常だ。
だが、奴は違う。
四日間、不気味な程に“待っている”。
こちらの陣が疲弊し、恐怖に蝕まれ、理を崩すその瞬間を。
奴は、人間を知りすぎている。
亜人を知るゴドリックのように、
黒鬼は人間を“理解しすぎている”のだ。
恐怖が極まる瞬間を見計らい、心を折る。
怒りでも衝動でもない。
理解による殺戮――それが、あの男の戦い方だった。
(……一寸の先も見通せぬ闇、我らはどうやって攻略する?)
背後から衣擦れの音がした。
振り返ると、天幕の隙間から老将が入ってくる。
「まだ起きておるか、ロダン」
ゴドリックだった。
両手に木の盆を持ち、湯気を立てるカモミール茶を二つ運んでいる。
炎に照らされた白髪が、雪のように光っていた。
「夜更けの茶など、久しいだろう?」
彼は地図の端を避けて、茶を卓上に置いた。
湯気が立ち昇り、天幕の内側を霞のように包む。
「……眠れぬのです」
ロダンは呟いた。自分でも驚くほど、声が掠れていた。
「眠れぬのは、将の証だ」
ゴドリックは静かに腰を下ろし、茶を手に取る。
「だが、戦場で茶を飲めるうちはまだ生きておる。違うか?」
短い皮肉。老将らしい言葉だった。
ロダンも黙って茶を口に含む。渋みと柔らかな香りが舌に残り、胸の冷えがわずかに溶けていく。
しばらく、二人の間を湯気だけが流れた。
やがて、ゴドリックが茶を卓に置いた。
木の音が、夜の中に沈む。
「ロダン。卿に、任せたいことがある」
その声は静かだった。命令ではなく、祈りのように響いた。
「……王都ハルデンシュタインへ戻れ」
「……は?」
ロダンは顔を上げた。
「戻れ……と、今おっしゃいましたか?」
「そうだ」
ゴドリックは地図を一瞥する。
「この黒日の下で起きていることを、王に報告せねばならん。
この異界の戦は、もはや一軍の範囲を超えている。
それを伝えられるのは、卿しかおらん」
「……しかし閣下!」
ロダンは立ち上がる。
「私はまだ戦えます! 剣も取れます、指揮も執れます!
それに閣下こそ、王都へ戻られた方が――」
「やめよ、ロダン」
老将の声が、焚火の音すら止めた。
怒鳴りではない。
しかし、戦場を千度越えた男の声だった。
「命を無駄にするな。卿の死に場所は、ここではない」
ロダンは唇を噛む。
「ですが……このまま退くことなど、できません。
閣下こそ、奴を討てるお方です。私が戻るよりも、閣下が生きる方が……!」
ゴドリックは小さく笑った。
その笑みは寂しく、そして穏やかだった。
「……病なのだ」
「え……?」
「もう、長旅はできそうもない。
この身は、戦場の風を吸いすぎた。
今さら王都までなど、到底もたんだろう」
沈黙。
ロダンは拳を握る。
ゴドリックの手が、彼の肩に置かれる。
骨張った掌は温かい。
「生きて伝えろ、ロダン」
老将の声は低く、だが確かに響いた。
「この夜が何であるか。
この戦が何を意味するのか。
そして――“オークの魔王”が生まれたことを」
「……閣下。私は……」
ロダンの声が震える。
「必ず、お伝えいたします。陛下に、すべてを。
ですが……どうか、どうか閣下も生きてお戻りください」
ゴドリックはわずかに首を振った。
「約束はできん。
だが、卿が語るならば、それでよい。
語る者がいなければ、勝利も敗北も、ただの犬死にだ」
外で蹄の音が遠く鳴る。
王都に向けた出立部隊だろうか?
松明の光が、天幕の布越しに滲んだ。
沈黙の中で、ゴドリックは腰の剣に手をかけた。
鞘から抜かれた刃が、ランプの淡い光を受けて鈍く光る。
幾度の戦場を越えた証として、刃には無数の傷が刻まれていた。
その一つひとつが、歴史だった。
ロダンは息を呑む。
この剣を知っている。
ゴドリックが“第一騎士団長”に任じられた日、
前国王陛下の御前で授けられた、叙任の剣。
“この剣を持つ者こそ、人の剣にして、王の盾なり”と宣言された聖遺物だ。
黒日の陰影を押し返すように、刃が一条の白を返した。
老将は鞘ごと両手で持ち上げ、静かに言った。
「名を《黎明の剣アルシオン》という。
この剣は、前王より儂に託された。
そして今、私の務めはここで終わる。
ロダン……卿に、継がせる」
「な……なりません!」
ロダンは即座に頭を下げた。
「その剣は、陛下より直接賜った御剣。
私などが手にするなど――!」
ゴドリックは首を振った。
その仕草には、戦場の塵が降り積もるような静かな重みがあった。
「王がこの剣を授けたとき、こう言われた。
“この刃は、人界を守るために抜け”と。
……今、その言葉を託すのはロダン、お前しかおらん」
「……行け、ロダン」
老将は剣の鞘をロダンの胸に優しく当てる。
「卿の生こそ、我らの勝利の道だ」
ロダンは深く頭を垂れた。
茶の香りが、微かに残っている。
それが、別れの香のように思えた。
「……御意に。必ずや……約束を果たしましょう」
「……ああ」
拳を胸に当てた瞬間、
黒日の光がまた一度、夜を照らした。
――その光は、決意と別れを同時に告げていた。
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