第39話 悪意
──オーク側・バルド視点──
目前にそびえるのは、敵軍の本陣だった。
幾重にも打ち付けられた木柵が堅牢な壁となり、その向こうに濃色の天幕が林立している。旗幟が風にたなびき、前方では騎士たちの白銀の甲冑が鈍く光る。
槍兵、重装歩兵、弓隊、クロスボウ隊――整列は急造ではあるが隙はない。こちらに向いた槍先が、わずかに震えている。視線には恐怖と混乱、そして抑えきれぬ敵意が混じっている。
千騎の突撃。
その威容が与える心理的圧力は尋常ではない。戦に慣れた者でも、あの波の前では息を飲むしかない。だが敵もまた迎撃の構えを取っている。
俺たちは正面から叩きにいかない。あれでは奴には届かないのだ。
狙いは、敵戦線の要――第一騎士団。橋掛け部隊の背面だ。
マグ=ホルドの防衛線へと密かに迫る脅威を、今、完膚なきまでに叩き潰す。
「急速反転!」
咆哮とともに、空気が変わる。号令が飛び、アク―バとザルグが即座に号令を繰り返して隊列へ力を注ぐ。
千騎の流れが、砂嵐の風向きを変えるかのように整然と反転する。旗印が舞い、鉄の蹄が地を打つ音が戦場の鼓動となる。
【ユニークスキル:戦域支配】
その技能の下で、すべての隊が指先一つで繋がっているかのように制御される。馬体は瞬時に曲がり、隊列は流麗な弧を描いて向きを変える。精度は機械的で、狂いはない。
「突撃を……やめた……!?」
「反転……!?この数で……!」
「なんだあの操馬は……!」
敵陣から悲鳴めいた驚きが走る。
先行するオーク・ライダーたちはその混乱を尻目に、冷静に統制を保っていた。誰一人として動揺せず、動きは正確そのもの。黒光りする鎧が波のようにうねり、後続を導く。
「反転急げ!」
その時、視線の端に、ひときわ鋭い眼差しを感じた。
天幕の奥から、ゆっくりと姿を現すひとりの老人。
白銀の薄くなった髪、深い皺の刻まれた顔。
高齢によるものか、一歩は遅い。だが、その背筋は一切揺らがない。
あれが──
「……“亜人殺し”ゴドリック」
俺の心が無意識に名を呼んだ。
初めて見るその男に、俺は既視感のような確信を抱いていた。
この戦場において、最も手強い壁。人族の誇る英雄。
「……“レーウェンの黒鬼”か」
その眼と、俺の眼が、陣を隔てて交錯する。
刹那、静寂。
旗が揺れる音すら遠くなった。
互いに剣を交えぬまま、刃の意志をぶつけ合った感覚だけが残る。
「将軍!!弓の一斉射撃来ます!」
一斉に放たれた矢の群れが、黒い雨のように降り注いぐ。
だが──
「分かっている!スケルトン、展開!」
俺の命令と同時に、両翼の外周に配置したスケルトン兵とスケルトン・ホースたちが前進し、盾となる。
白骨を覆う鎧が、矢の猛攻を弾き返し、味方を守る盾となった。
クロスボウの鋭矢すら、彼らの斬撃耐性と刺突防御を貫けぬ。
「……橋掛け部隊か」
ゴドリックの口元がわずかに動いた。
風に乗ってその声が届いた気がした。
──狙いに気づいたか。
だが遅い。
敵兵たちは標的を見失い、一瞬の間に混乱が走った。
「将軍!全騎、旋回確認!」
その隙に、俺たちは列を立て直し、背後──マグ=ホルドの橋梁設営部隊へと旋回する。
地を打つ蹄が、山鳴りのように戦場を揺らす。
「目標、橋梁設営部隊!オークの誇りを刻め!」
咆哮と共に、俺たちは再び駆け出した。
黒い鉄の奔流が、戦場を裂き、轟音とともに標的へ突き進む。
これはただの反転ではない。
オークたちの誇りと技量が結実した、千載一遇の一撃。
それが今、敵の心臓を背後から穿たんとしていた──!
♦
「黒鬼!俺様は右から行く!そっちは頼むぞ!」
「ああ!」
アク―バの声が風と共に跳び、隊列が分断を始める。
千の騎兵が二手に割れ、俺とアク―バ、それぞれ左右から回り込む構えを取る。
心拍が高まる。
背後を振り返れば、敵本体もゆっくりとこちらへ進軍していた。
槍列を整え、重装兵を携え、その歩みは重厚だ。
だが――その歩調では、我ら騎兵の速度には到底ついてこれまい。
(……数分で終わらせる。それだけあれば十分だ)
胸の奥で呟く。敵騎兵部隊が編成される前に、目の前の敵を討つ。
視線を前に戻すと、赤きサーコートを羽織る――
三騎士群が視界に入る。
第一騎士団。ゴドリックの信頼厚き精鋭たち。
彼らは濁流近く、すでに進軍拠点を築く態勢に入っていた。
(重装歩兵の速度では、本陣と挟み撃ちできない。だからこそ、橋掛けに専念したというわけか……)
「本陣を信頼してのその選択。しかし、誤りだったな」
俺は両手を軽く上げ、声を轟かせる。
「突破せよ!背後から!無慈悲に戦列を裂け!」
右手のアク―バ部隊が疾風の如く迫る。
「ヒャハハハ!!!ジャハン士族!俺様に続けええ!!」
鋼鉄の蹄音、鎧の擦れ、風圧。
瞬時に敵の右翼に斬り込む。
「オルク=ガル、粉砕せよ!」
左手の俺の部隊は、静かに、だが驚異的な速度で迫る。
矢の雨をかいくぐり、盾の壁の隙間を縫うように隊形を保って進む。
橋掛け部隊も必死に応戦する。工兵が資材を守ろうと刃を振るい、歩兵が盾で応じる。しかし勢いは既にこちらにある。二手の突撃が背後を割り、混乱を拡大させる。
「守りながらじゃ無理だぜェ!ハルバードの錆になりやがれェ!!」
アク―バの部隊が右から斧槍を振るい、盾を破る。
俺の部隊は左から縦深に突き込む。
「オラぁあああ!!!」
ザルグの肉厚の大剣が、敵の首を刎ね、ライダー達の槍が鎧を穿つ。
橋梁の材木を運ぶ荷車は横転し、工兵が慌てて資材を放り投げる。
そこに無慈悲に火炎瓶を投擲。木材が弾け、車輪が砕け、煙と炸裂音が飛び散る。
千騎の波が一つ目の守備隊を蹂躙した。
剣が跳ね、槍が折れ、盾が砕け、敵兵が崩れ落ちる。
「こんなものかァ!第一騎士団!」
「次だ!速度を落とすな!」
その殲滅の余勢を駆って、すぐに二つ目の橋掛け部隊へと突入する。
勢いそのまま、次の目標へ向かおうとしたとき――
俺は違和感の様なものを感じた。
「抵抗が……異様に少ない……?」
盾を高く掲げる歩兵列はあったが、非常に消極的に映る。
武具は重厚、槍先は鋭利、だが、その動きがぎこちない。
なぜか味方後列のクロスボウ兵に震えている様な者までいた。
この違和感は何だ?
ザルグが大剣を振り上げ、敵陣を切り裂いた。
その刃先の向こうで、初めて視界の異変に気づいた。
「お、おい!なんだよ……コレ!?」
転がる首、覗いた肌の色。
牙の形。皮膚の緑。
オークだった。
──同胞。
一瞬、時間が止まった。
耳に届くはずの蹄の音も、風のざわめきすら遠のく。
まるで魂ごと凍りついたように、俺はその場に立ち尽くした。
同胞のオークが、無理やり人族の鎧を着せられていたのだ。
まるで鉄の檻に押し込められた獣のように、自由を奪われ使役されていた。
「攻撃を中断しろ!!」
「ッチ!」
アク―バが振り上げた斧槍を途中で止める。
その刃先の前で、兵士の瞳が揺れていた。
オルク=ガルの剣先が揺らぎ、瞳が曇った。
その鎧の下に、まぎれもなく我らと同じ血を流すオークがいた。
鎧を纏った兵士たちは、怯える目で我々を見つめる。
盾を握る手が震え、涙を溜めていた。
自由も、誇りも、すべてを縛られた同胞たち。
「た……助けてくれ……」
風に乗って、かすれた声が届く。
震える声だった。
怒りとも、悲しみともつかない感情が胸に満ちる。
感情では収まらない、毒のような何か。
──悪意。
俺たちは、国を持たない。
だが、同族は家族だ。
血を分けぬ兄弟であろうと、同じ“部族”として迎える。
敵はそれを知っていた。
その絆を“毒”に変え、“罪”にする方法を知っていた。
「ゴドリック……!」
名前を呼ぶと、口の奥が焼けるようだった。
「ゴドリック!貴様、ここまで穢れた手を使うか!」
この刃を、かつての仲間に振るわせるつもりか?
俺たちの誇りを、汚れた罠に沈める気か……!
怒りが、喉からほとばしる。
「これが、貴様の軍略か!!」
その時だった。
──影が、落ちた。
何の前触れもなく、昼の戦場に夜の幕が垂れたかのように。
激高の瞬間を狙ったかのように。
ザルグの叫び声が戦場に反響する。
「族長!!逃げろおおお!!」
空を見上げるより早く、巨大な鉤爪が振り下ろされた。
──遠くで老人の嗤う声が聞こえた。
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