第2章 死体と継ぎ目の研究所

 翌日、ロンドンの空は重たい雲に覆われていた。

 朝刊には記されていなかったが、昨夜ベイカー街に現れた青年――「名もなき者」は、夜明け前に姿を消した。


 「彼が出ていった理由は明白だな、ワトソン」


 ホームズはいつものように朝の紅茶に口をつけながら言った。


 「自分を追っている何者かの存在を察した。巻き込みたくなかった。あるいは、単に逃げ慣れているのかもしれん」


 「……彼が言っていた“創られた存在”という言葉が、頭から離れない」


 「だからこそ、我々は調べねばならない」


 ホームズは立ち上がり、書棚から一冊の古い地図帳を取り出した。

 ロンドンの衛生局によって描かれた、地下水路と都市構造の詳細図だった。


 「昨夜の青年の靴底に、石灰と泥の混合痕があった。ロンドン中心部ではまず見られん組成だ。加えて、右靴のかかと部分には、焦げた亜鉛の粒子……」


 「……つまり?」


 「彼は、旧カナン病院の解剖施設跡地を出入りしていた」


 私は驚いた。


 「旧カナン……十年以上前に閉鎖された解剖研究所じゃないか。非公式の死体解剖が行われていたと噂された場所だ」


 「その“非公式”が鍵さ。記録に残らない実験は、しばしば“人間を超えた何か”を生む」



 その日の午後、我々は南ロンドン郊外、ブリクストンに向かった。

 旧カナン病院はすでに廃墟と化していたが、ホームズは手際よく鉄格子の隙間から侵入経路を見つけ、私も後に続いた。


 瓦礫を踏みしめながら、我々は地下階段へと降りた。

 そこには、かつての解剖室が広がっていた。


 錆びついた器具。割れた瓶。床に染み付いた黒い痕。

 すべてが、生と死の境界を実験室に持ち込もうとした者たちの残骸だった。


 「この場所は……生理学の神殿ではない。死体の工房だ」


 私は震えながら呟いた。


 そのとき、ホームズが壁の一部を見て足を止めた。

 石造りの壁に、不自然な“目隠しされた本棚”があった。ホームズは指で埃を払い、慎重に棚を動かした。


 「ここに……何かがあるな。隠し戸棚か?」


 カチリ、と軽い音がして棚がわずかに開いた。


 中には――古びたノートが三冊と、ガラス管に密閉された細長い羊皮紙が保管されていた。


 「……フランケンシュタイン」


 私はノートの表紙に刻まれたその名を見て、息を呑んだ。



 持ち帰ったノートには、詳細な死体の再生記録が記されていた。

 電流、縫合、移植、拒絶反応の抑制……。


 だが第3冊目に至って、記述の内容は変わる。



「我が子は目を開けた。言葉を話し、歩いた。だが――魂を持たぬ。

愛を知る器官は、肉体のどこに宿るのか。

それを探して、私は“心臓のない子”を創った」



 「……彼は、“子”を造っていた」


 「心臓を持たぬ者……」


 私は、昨日の青年を思い出した。

 聴診器を当てた時、確かに“拍動”がなかった。

 だが彼は、確かに思考し、話し、哀しみの感情を持っていた。


 「これは……倫理の外だ。人間とは何かを問うどころか、神の模倣を超えている」


 「いや、ワトソン」


 ホームズは手にしたノートを閉じ、静かに言った。


 「これは“人間の業”だ。生命を創るなどという神のふりをしても、結局は孤独と後悔に満ちた者が残る」


 私は机に手をついて立ち上がった。


 「彼を放ってはおけない。きっと、また追われているはずだ。――どこかで」


 「そうだな。彼はもう一度、我々の前に現れるだろう」


 そのとき、外の通りから叫び声が響いた。


 窓から顔を出すと、向かいの小路で複数の男たちが争っている。

 中央には、昨日の青年――名もなき“彼”の姿。


 そして、銃を構える黒服の男たち――政府の特殊部隊と思しき追跡者たちが、包囲していた。


 「来たか……!」


 ホームズが立ち上がり、すでに拳銃をコートに忍ばせていた。


 「ワトソン。今夜は、医師の出番ではない。“命”を奪わせぬために、我々が動く」

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