コーヒー小説「コスタリカ フローラルハニー」
山野三条
コーヒー小説「コスタリカ フローラルハニー」
幽霊が出てきたので、コーヒーをふるまったという話。
喉がカラカラになって、目が覚めた。
四時十分。まだ闇に包まれた夏の夜だ。たくさん嫌な汗をかいていた。
キッチンに行って、水道水を一気に流し込む。
ダイニングにふと目を向けると、椅子が引いてある。
ん、椅子に誰か座っているのか?
ああ、嫌だ。変なこと考えちまった。
眠気はもう飛んでいってしまった。俺はコーヒーを飲むことに決め、豆を冷凍庫から取り出した。冷蔵庫が唸り声のようなモーター音を響かせた。
ちらりとダイニングに目をやると、そこにはちゃんと不機嫌そうな女の幽霊が座っていた。ずっとテーブルを睨んでいる。頼む、こっちを見ないでくれ。
その時、バタンと玄関のドアが音を立てた。俺は反射的に廊下に振り返る。
もう一度、女の幽霊の方を見ると、テーブルに身を乗り出して、見開いた眼で俺を見ていた。
「ヒッ」
俺は情けない声を上げてしまう。コーヒーミルが、床へと転げ落ちた。俺が床を見た隙に、その幽霊はテーブル上で四つん這いになり、こちらに近づいてきていた。
瞬きをするたび、その幽霊が少しずつ距離を縮めてくることがわかった。
お湯が沸き、電気ケトルが音を立てる。しまった、俺はまた幽霊から目を離してしまったことに気づく。
前を向いた時には女の顔が目の前にあった。女の眼球にはいくつも黒目があった。
幽霊は尻もちをついた俺に乗り掛かり、その顔は目の前数センチというところまで近づく。こんなに自分の背筋が冷たくなるなんて知らなかった。
「コーヒーを淹れますよ!」
俺は叫んだ。なんでそんなことを言ったのか、今でもわからない。
すると、その幽霊はスッと目の前から消えた……わけではなく、元の椅子に戻っていた。
チラリとスマホに目を向ける。四時三十分。
コーヒーを淹れなければいけない。俺はできるだけゆっくり豆を挽き、準備を始める。コーヒーミルを回すたびに、女の顔が奇妙に回った。
なんとか、なんとか朝日が入るまで粘らなければ。朝になれば、幽霊は消えるはずだ。真夏の朝っぱらに幽霊がコーヒー飲んでいるなんて話あるものか。
幽霊がこちらに近づいてこないかをチラチラ横目に確認していると、眉の傾きでだんだん苛立ってきているのがわかった。身体中にねばっこい汗が噴き出た。
俺はマグカップをテーブルに置いた。
幽霊は一口飲むと、こちらをじっと見つめている。
おそらく、幽霊は納得していないのだ。
「酸っぱいって言う人が多いですね。ちょっと浅煎りですから…」
俺は間に耐えきれずに話し出した。
「少し口に含んで飲んでみてください。……どうですか。チョコレートのような感じがするでしょう。ほら、その後に酸味が遅れてきますよ。朝顔のように花開くんです」
俺は裏声のような高い声で早口に捲し立てる。
幽霊はもう一口飲むと、こちらへ身を乗り出してきた。
「ちょっと、ちょっと待ってください。冷めたら甘みが増します」
俺は気が狂ったように叫んでいった。
どのくらい時間が経ったかわからない、三十秒だったのか、三十分だったのか。
幽霊が再びコーヒーに口をつけた。
「どうです。シロップのような甘み。そして、チョコレートのような苦味が心地よく流れます」
再び、幽霊はカップを傾ける。
「俺はですね、これを飲んだら麦畑を照らす夕日を思い出すんです。はじめて齧った甘くないチョコレートみたいだと思いませんか」
俺はもう何を言っているのか、自分でもわからなかった。
朝日が近づいてくるのを感じる。俺は、涎を垂らす牛のように、鼻水と涙を流し続けている。
部屋が明るくなると、やはり幽霊は消えた。俺は勝ったのだ。
次の夜、俺は安心して眠りにつく。幽霊とは何も話さなかったが、彼女が満足したのはわかった。おとなしく成仏できたのかもしれない。
しかし、夜中の二時半に三人の男の幽霊に起こされ、空のカップを差し出された。
「フローラルハニーで」と三つの口が同時に動いた。
コーヒー小説「コスタリカ フローラルハニー」 山野三条 @ichi_ni_san
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