第2話 ひとりじゃなかったら

「単身赴任だから、こういう店があると助かるんだよね」


藤崎さんが、ふとしたときにこぼした一言。


あの夜――私が“女”になった夜の、ほんの少し前の会話だった。


あのときは、あまり深く考えずに受け流してしまったけれど。朝になって、彼がいなくなったベッドの余熱を感じながら、その言葉だけが頭の中で何度もリピートされた。


(単身赴任って、どういう意味?)


一人暮らしのことを、冗談っぽく言っただけなのか。それとも、本当に……?


いやだ、こんな風に疑うなんて。せっかく、はじめて人を好きになれたのに。


だけど――


「おはよう、今日もよろしく」


開店前、店の厨房で準備をしていると、店長が明るい声で入ってきた。私は慌てて笑顔を作りながら、グラスを磨き始める。


カウンターに立っていると、不思議と落ち着くようになった。最初は、酔っぱらったおじさんたちが怖くて仕方なかったけど、今はもう慣れた。むしろ、常連さんたちのやりとりが、心地よかったりする。


でも――


(今日、来てくれるかな)


ふと、そんなことを考えてしまう。


誰かを待つ時間って、こんなにそわそわするものなんだ。


何杯もビールを注いで、何人ものグラスを洗って、時計を見て、またグラスを洗って……


そして。


「こんばんは」


あの声が聞こえた瞬間、心臓が一段跳ねる。


顔を上げると、藤崎さんが立っていた。昨日と同じネイビーのジャケット。けど、中のシャツが違ってて、それに気づいた自分が、ちょっと恥ずかしい。


「今日も、お疲れさまです」


「うん。凛花ちゃん、今日も元気そうだね」


その“ちゃん”付けが、くすぐったくて、思わずカウンター越しに視線を逸らしてしまった。


藤崎さんは、いつも通りビールを頼んで、いつも通り静かに飲む。


なのに――私の心の中だけが、嵐みたいに荒れていた。


(この人に、奥さんがいたら、どうしよう)


(この手で、家庭を壊してしまったら?)


まだ、たった一度、手が触れただけ。それなのに、もう後戻りできない気がしている。


(でも、知りたい。知っておきたい)


グラスを拭きながら、何度も言葉を探してみる。でも、うまく出てこない。聞きたいのに、怖くて聞けない。


――もし、「いるよ」って言われたら、その瞬間、私は何を選べばいいんだろう。


「……凛花ちゃん?」


「えっ、はいっ」


「さっきからグラス、同じとこばっか拭いてるよ」


「あ……ごめんなさい!」


頬が熱くなる。なにやってるんだろう、私。


「大丈夫。ぼーっとしてる顔も、かわいいよ」


え。


その言葉に、心臓が止まりそうになった。


藤崎さんは、照れる様子もなく、ただ淡々とそう言って、またグラスに口をつけた。


……ずるい。


その言い方、ずるすぎるよ。


でも、やっぱり――


(もっと、知りたい)


彼のことを、ちゃんと知りたい。


“好き”って気持ちに、正面から向き合うために。


私は、その夜、決めた。


次にふたりきりになれたら、ちゃんと気持ちを伝えようって。


そう思った瞬間から、私は、さりげなくでもいい――

藤崎さんとふたりになれるチャンスを、探すようになっていた。

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