第五章 はじめての”ありがとう”

24歳になった蓮は、アルバイトの転々とした日々に終止符を打とうと、職業訓練校に通い始めていた。


「スキルがないと、どこにも雇ってもらえないからな」

施設の職員がくれた助言を、胸の奥で反芻する。


毎朝6時に起き、コンビニの夜勤を終えた足で訓練校へ向かう。

眠気に襲われる日も、体がきしむように疲れた日も、蓮は一度も休まなかった。


半年後――。


「株式会社フロイント、現場管理補助として採用が決定しました」


通知を見たとき、手が震えた。

小さく「やった」とつぶやいて、誰にも聞かれないように笑った。

これが、人生で初めて自分の力で掴んだ“場所”だった。



新しい職場は、都心のビルの一室にあった。

書類を扱いながら現場とのやりとりをし、現場に足を運んでは工程管理を手伝う。


右も左も分からないまま、怒鳴られ、叱られ、でも逃げなかった。

「またすぐ辞めるんだろ」

そんな目で見られても、蓮は黙って仕事を続けた。


ある日、工事現場で仮設トイレの設置ミスがあり、大きなクレームが発生した。

責任者は不在。だが、蓮は逃げずに取引先に頭を下げ、対応に奔走した。


「…なんでお前がここまでやるんだ?」


現場の親方にそう言われたとき、蓮は言った。


「僕は、ここにいたいんです。やっと見つけた場所だから」


その一言が、誰かの胸に響いたらしい。


数日後、同じ親方が蓮に缶コーヒーを差し出した。


「悪かったな。助かったよ」


蓮は言葉を失った。

そして、小さく「ありがとうございます」と頭を下げた。


“ありがとう”――。

それは、自分が人の役に立てた証だ。

生まれて初めて、自分を肯定された気がした。



その夜、蓮は公園のベンチに座って空を見上げた。

雲の合間から星が一つ、こぼれていた。


「……ちゃんと生きてるよ、母さん」


心の中でそうつぶやいた。

どこかにいるかもしれない母へ。

見ていてくれると信じたい、もう一人の自分へ。

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