しまなみブルー ー風のWITCHー 〜伝説のジムカーナ女王が再びバイクに跨ったら、仲間に出会ってしまなみ海道で友情も絆も恋ももう一度取り戻していく件〜

TAKA☆

第1話 『プロローグ・魔女、風を思い出す』

■しまなみの魔女と呼ばれた日々


 ――風が体を突き抜ける。

 昼下がりの二輪車交通公園。そのアスファルトの上に張り付いたように、私のバイクは加速と減速を繰り返す。思考するよりも先に体が動き、ラインは路面を切り裂くように描かれていく。ジムカーナのパイロンが次々と視界を過ぎ去り、タイヤが刻む音と、エンジンが吐き出す回転音が鼓動と混ざり合った。


 「あと0.1秒……」

 自分にだけ聞こえる呟きが唇から零れる。ほんの一瞬の遅れやためらいが、タイムを失わせる。だが逆に、そのわずかな瞬間を研ぎ澄ませば、私は誰よりも速くなれる。


 会場の観客たちは、最初こそ物珍しさで私を見ていた。女が、しかも後発で始めた私がここまで走れるなんて誰も思っていなかったのだろう。だが、気づけば彼らは私の走りを見守るようになっていた。真剣に、時に驚きとともに。


 「しまなみの魔女――」


 ある日、今治在住の私を誰かが冗談めかしてそう呼んだ。最初は照れくさかった。けれど、その呼び名が広まるにつれて、私はほんの少しだけ誇らしく思えるようになった。私の走りは、誰かの心を動かしているのだと。


 ――あの頃は、風も、時間も、すべてが味方だった。

 完璧に決まったターンの後、観客席から歓声が沸き起こる。拍手の音は波のように広がり、私はそれを全身で浴びながら「まだ速くなれる」と心の中で笑った。

 頭上にはどこまでも広がる青空。瀬戸内の陽射しが照りつけるなか、汗が流れても、視界の先にある風はいつまでも私を誘っていた。


 私はその風を掴もうと、ただ夢中で走り続けていた。



■バイクを降りた日


 そんな私の前に現れたのが、後に夫となる人だった。

 彼との出会いは実家である松井家が段取りしたお見合いからだった。

 だけど、素朴で誠実な彼の性格に私は段々惹かれていった。


 やがて私たちは何度も会うようになり、いつしか一緒に笑い、支え合う存在になった。

 彼は私の走りを面白がりながらも、時折不安そうに表情を曇らせていた。


 「志保さん、僕はバイクの事はよく知らないけど、君がとても危ない事をしている事だけは分かる。僕は君がとても心配だ……だから、危ないことはもうやめてくれないか?」


 その声は真剣で、温かかった。命を心から案じてくれるその想いに、私は迷わなかった。

 ――守りたい人ができたから。


 バイクを降りることに後悔はなかった。

 彼と過ごす日常は、風のない日々でも十分に幸せだったからだ。

 バイクを教えてくれた師匠はとても残念がっていたが、最後には私の幸せを心から祝福し見送ってくれた。


 その事が、私にとってはとてもありがたかった。


 結婚して、やがて子供が生まれた。

 母になった私は完全にバイクから離れた。魔女は眠りにつき、ただ一人の母親としての人生を選んだ。


 休日には夫と息子と三人で公園へ出かけ、息子の笑顔を見守りながらお弁当を広げた。些細な会話が愛おしく、何気ない日常が宝物になっていった。

 私はあの頃、本当に「風の止まった日々」を幸せだと思っていた。



■そして、すべてを失った日


 その日は家族旅行を兼ねたキャンプの帰り道だった。

 アウトドア好きの夫の運転する車の助手席に座り、私は窓の外に広がる瀬戸内の夕景を眺めていた。オレンジ色に染まる海面がきらきらと輝き、後部座席では幼い息子が小さな寝息を立てている。


 「帰ったら温かいお風呂に入りたいわね」

 何気ない私の一言に、ハンドルを握る夫が笑う。

 「志保は本当にお風呂好きだな」

 その声音は、日常の何気ない幸せそのものだった。――だが、それが最後の会話になった。


 トンネルを抜けた瞬間、前方から強烈な光が迫ってくる。

 ヘッドライト。逆走車。


 夫の短い叫び。

 私の悲鳴。

 そして、息子のかすかな声。


 世界は衝突と共に暗転した。



 目を開けると、車内は静まり返っていた。

 ハンドルに突っ伏す夫の姿。後部座席でぐったりとした息子。呼びかけても、返事はなかった。


 「……うそ、でしょ……?」


 シートベルトを外し、震える手で彼らの体を揺さぶる。何度も、何度も。

 しかし、夫の温もりはもう失われ、息子の小さな胸も二度と上下することはなかった。


 私だけが、傷一つなく生き残っていた。


 なぜ私だけが――?

 その問いに答える者は、どこにもいなかった。



 それからの日々、心の時計は完全に止まった。

 広すぎる家は冷たく、時計の針の音だけが虚しく響く。台所に立っても、食卓を囲む笑顔はもう戻らない。洗濯物を干しても、小さな服が揺れることはなかった。


 私は酒に逃げ、夜ごと涙に溺れ、時には街をさまよった。

 ある日、自分を罰するように、行きずりの男性に身を委ねてしまった。ホテルの白いシーツに横たわりながら、どうしてこんなことをしてしまったのかと後悔し、声を殺して泣いた。


 「……私、何て事してしまったの……ごめんなさい……あなた――」


 ――その時、思わず口をついて出たのは、亡き息子の名前だった。


 隣にいた男性は一瞬驚きながら、自分も息子と同じ名前だと打ち明けた。そして、自分もまた先日大切な親友を癌で失い、もう一人の親友が喪失感から抜け殻みたいになってしまった事が耐えられず、自暴自棄になってしまったのだと、ぽつりぽつりと語り始めた。互いの素性も知らないまま、ただ痛みを抱えた者同士として。


 その夜、彼が言った言葉が私の胸を深く打った。


 『これだけの事故があって、あなただけが生き残ったのには、きっと理由があるはずだ。だから、その理由を探すことを生きる目的にしてみてはどうですか』


 ――雷に打たれたようだった。


 それまで、自分はただ「生き残ってしまった」だけだと思っていた。

 でも、もしかしたら違うのかもしれない。

 残されたことには、何か意味があるのかもしれない。


 その言葉をきっかけに、私は立ち直ろうと決めた。

 夫と息子の分まで――私は生きなければならないのだと。



■着付師としての再生


 家族を失っても、家や財産は残された。けれど、それだけでは心も生活も守れなかった。

 むしろ、あの広すぎる家は空虚さを際立たせる檻のようで、夜ごと押し潰されそうになった。


 ――何かを始めなくては、このままだと私は壊れてしまう。


 そう思って、私は実家で習った着付けを学び直すことにした。

 最初はただ、生活のために。けれど、仕事を重ねるうちに「人を整える」という行為そのものが、自分を救ってくれるようになっていった。


 結婚式、成人式、地域の祭り。

 華やかな着物を纏った人々は笑い合い、写真に収まる。

 「志保さんのおかげで素敵な一日になりました」

 その一言が、どれだけ私を支えてくれたか分からない。


 気がつけば私は、日常でも自然と着物を纏うようになっていた。

 街では「上品な着付けの先生」と呼ばれ、誰もが私を“そういう人”として見ていた。

 けれど、私の心の奥にはまだ――風を切って走る“魔女”が眠っていた。



■悠真との日々


 そんなある日、母方の姉から電話がかかってきた。

 「志保、お願いがあるの。悠真を、少しの間預かってもらえないかしら」


 三浦みうら悠真ゆうま

 彼はトランスジェンダーであることから、家族とうまくいかず、居場所を失いかけていた。


 私は迷わなかった。

 ――守れなかったものがあるからこそ、今度こそ守りたい。

 その思いだけで、彼を迎え入れた。


 最初の頃、悠真さんはとても遠慮がちで、食卓でも口数が少なかった。

 けれど日が経つにつれて少しずつ笑顔が増え、学校の出来事や友達の話をしてくれるようになった。

 その声が、止まっていた私の時間を再び動かしてくれた。


 静まり返っていた家に、また温もりが戻ってきたのだ。



■少女の決意


 そんなある夕暮れ。

 学校帰りの制服姿のまま、悠真さんは真剣な表情で私に向き合った。


 「志保さん……ボク、バイクに乗ってみたいんだ」


 胸の奥で何かが揺れた。

 彼女は私が"しまなみの魔女"だった事を知らない。

 ――なぜ今、この子がそんなことを言うのか。


 私は深呼吸をして、あえて穏やかに尋ねた。

 「どうして、そう思ったの?」


 「……自分を変えたい、そう思ったから。ボク、もっと強くなりたい」


 その言葉は真っ直ぐで、不器用で、それでいてとても眩しかった。

 私がかつて夢中で風を追いかけていた頃の気持ちを、ほんの少し重ねてしまった。


 私は微笑み、ただ一言。

 「そう……なら、気をつけてね」


 ――この子は私の知らない未来へ、自分の足で歩こうとしている。

 その背中を見て、私は少し誇らしくなった。



 ■凛との再会、結との出会い


 やがて悠真さんは、たちばなりんという少女と出会った。

 背筋を伸ばし、凛とした名の通り強さを感じさせる眼差し。

 けれど、笑ったときの柔らかさは、まるで冬を照らす陽だまりのようだった。


 「志保さん、紹介するね……ボクの恋人です」

 少し照れながら悠真さんが差し出した手を、凛さんはしっかりと握っていた。


 私はその姿に胸を打たれた。

 誰かを愛し、誰かに愛されることで、人はこんなにも力強くなるのだと。


 「はじめまして、悠真くんの……恋人です」

 緊張を隠さずに告げるその声。

 そして、真っ直ぐに私を見据えるその目。


 ――あぁ、この子を私は知っている。

 ずっと昔、私が“魔女”と呼ばれていた頃。ジムカーナ会場に見学に来ていた女の子。

 その子が、こんなに立派に成長して、悠真の隣に立っているなんて。


 けれど彼女は、私のことに気が付いていないようだった。

 それでいい。魔女の記憶は過去のもの。今の私はただの志保でいいのだから。



 そしてもう一人――瀬戸せとゆいさん。

 彼女は悠真を守るため、義兄であり悠真の父・慎一郎しんいちろうに立ち向かった少女だ。


 初めて会ったとき、その姿に目を奪われた。

 小柄で、華奢で、だけど花のように可憐な女の子。

 けれどその瞳だけは、嵐に立ち向かう灯火のように強かった。


 「はじめまして。瀬戸結と申します。今日は……お話があって、伺いました」


 その声に、私は眠っていた心を揺さぶられた。


 守るために立ち上がる少女。

 かつての私と重なるその姿は、まるで吹き抜ける風そのものだった。


 ――この子たちは特別だ。

 悠真、凛、結。そして彼女たちの仲間「しまなみブルー」。

 彼女たちとなら、私はもう一度走り出せるかもしれない。



■ 風を掴む決意


 夜の静けさに包まれた水野邸。

 部屋の灯りを落とし、私は一人、物置の前に立っていた。手には古びた鍵。指先がかすかに震えているのは、夜気の冷たさのせいか、それとも――胸の奥から込み上げるもののせいか。


 ギィ、と小さく音を立てて扉を開く。懐かしい匂いが鼻を掠めた。埃の混じった油の匂い。かつての「私」がそこに眠っている証。

 薄暗い物置の隅、厚手の布に包まれた黒い影。そっと布を払うと、それは年月を経ても形を失わぬままに佇んでいた。ジムカーナ時代に羽織った、革のジャケット。

 ――しまなみの魔女、と呼ばれた日々の象徴。


 私は無意識に袖へ手を伸ばしていた。指先に伝わる革の感触。少し硬くなっているが、それでもまだ私を拒まない。

 腕を通す。重みが肩にのしかかる。あの頃は軽やかに羽織れたのに、今は胸の奥にまで響くような重さを持っていた。だが不思議と、その重さが心地よかった。まるで「おかえり」と語りかけられているようで。


 鏡に映った自分を見つめる。

 着物の時には「上品なお姉さん」と呼ばれる姿。けれど今そこにいるのは――風に挑む、かつての私。


 「……まだ、終わってない」


 胸の奥から自然に言葉が漏れる。


 星空を見上げる。無数の光が夜空を散りばめ、あの日のジムカーナ会場で見た青空と重なる。観客の歓声。コーンをかすめる感触。タイヤが路面を掴み、世界がひとつになるあの感覚――。

 あのすべてが、今も私の中で生きている。失ったものもある。でも、まだ守れるものもある。


 悠真を守りたい。あの子がこれからも前を向いて歩いていけるように。

 結や凛、彩花、琴音……しまなみブルーの子たちと一緒に風を掴みたい。彼女たちの無垢な瞳に宿る希望を、絶やすわけにはいかない。


 ――私は一度、すべてを失った。夫も、息子も、私の世界も。

 でもだからこそ、今度こそ大切なものを守り抜く。私の命ごと燃やしてでも。


 夜風が頬を撫でた。柔らかいのに鋭く、私の背を押す。


 「しまなみブルー……面白そうじゃない。うふふ」


 自然と笑みが零れる。心臓が高鳴り、身体の奥から熱が湧き上がる。魔女は――再び目を覚ましたのだ。


 革の袖を強く握りしめ、私は囁いた。


 「風は……まだ、止んでいない」


 その声は夜の静寂に溶け、まるで遠い未来へと続く道を示す合図のように響いた。


 To be Continued...

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