『Manners×Color〜花食の作法〜』

釜毒 傘子

『Manners×Color〜花食の作法〜』

「遵子、食事中ならナイフとフォークは常に八の字にしなさい。それと、よく噛んで食べるのよ」


 私の母は、マナー講師だ。マナー講師――世間一般的には、中々に好感を持たれにくい職業である。

 というかハッキリ言って、嫌われている分類に入るだろう。


 その理由は様々だが、私が思う一番の理由は、勝手なマナーを創造して人々の生活を束縛するからだと思う。だと思うだなんて曖昧な言い方をしたが、訂正させてもらおう。そうに違いない。絶対にそうだ。確信ももって、胸を張って断言できる。


 なんでそう言い切れるのか、だって?

 ううむ、そうだな……例を出したら、納得してくれるだろうか?

 徳利の注ぎ口は『縁の切れ目』を想像させるから使用は控えるべき、とか。

 高校生の私にとって、日本酒を呑む為に用いられる徳利というのは縁遠いけれど、それでも見た目程度なら分かる。

 あれは明らかに、注ぎ口を下にしたほうが注ぎやすいだろう。というか徳利を発明した人も、現在職人として徳利の製造に携わっている人も、そういう意図で注ぎ口を作っているに違いない。


 他にも、お賽銭は十円だと読みを変えて『遠縁』――『十円とおえん』になってしまうから縁起が悪い、みたいな。神様がお賽銭の値段によって願いを叶えるかどうか決めるのならば、噴飯ものというか、失望一直線な話だ。現金主義で拝金主義とか、千年の信仰もなんとやら、だぞ。


 ダメ押し。後は、上司に渡す書類に押すハンコはまるで部下が上司にお辞儀をしているように左斜めに傾けて押すなど――もう、意味が分からない。この話についてはもうやめよう。私が理解できる範疇を超えている。


 これらは、元々は存在しなかったマナーであり、その殆どがマナー講師によって創作された架空の礼法だ。

 どうしても忘れて欲しくはないので口を酸っぱくして言わせてもらうが、とりわけマナーというのはお互いが気持ちよく円滑にやり取りする為の作法である。


 しかし現在社会では、まるでマナーというものが自らの身を縛る窮屈な鎖として扱われている傾向にある。そのマナーをくだらない言葉遊びを用いて増やすマナー講師というのは、かなり嫌われているのだ。


 実際、私の母親もテレビで何度か炎上したことがあるし。実の娘としては、本当に複雑な気分だ。

 そんな性格なもので、当然の如く夫にも逃げられてしまった哀れな女性が私の母親――暁木あかつき挨佐あいさなのだ。

 マナー講師なのだから、娘にも厳しく指導すべきである――私の母親は、恐らくはそういった魂胆だ。テレビで御高説を垂れている分、私にもその教育を徹底しなければならないと思い込んでいるのだろう。ありがた迷惑でもなんでもない。意味不明なマナーにはただただ困惑の限りである。


 マナーが人々を縛る鎖なのだとしたら――私の母親は、既にマナーにミイラにされている。ミイラ取りがミイラになるのと同じく、マナー講師というものは妄執のチェーンに雁字搦めだ。


 それに理解こそ示すが、納得はしていない。私から言わせてもらえば、マナー講師という存在そのものをマナーモードにしてやりたいくらいには、マナーが嫌いだ。マナー講師のまなこをくり抜いてやりたいくらいに、マナーが嫌いだ。

 けれど、そんな事を正面から――女手ひとつで私を育て上げた母親に、そんな事を言えるほど私は面の皮が厚くなかった。


「……はい、お母さん」


 そう敗北宣言をして、即座に食べ終えて自室に戻ることが私にとって出来るささやかな抵抗だった。

 無抵抗こそが、母親に対する対抗である。

 もちろん戯言であるし、詭弁であるし、負け惜しみでもあるし、単なる遠吠えでもある。


「……はぁ」


 そそくさと自分の部屋に入り、席に着いた私は液タブを起動した。メーカーについて熱く語ってしまうと、思わずオタクの私が顔を出してしまうので詳しくは言わない。お小遣いとお年玉を併用して、背伸びして買った代物だ。無論、お母さんには内緒で。


「言えるわけが無いよなぁ……」


 私はそう独りごちた。

 私の名前は遵子。法令遵守の遵に、君子危うきに近寄らずの子で、遵子だ。

 将来の夢は――イラストレーターである。

 しかし私は自身の夢を、お母さんに言えずにいた。そりゃあそうだ。イラストレーターなんて、優れた実力がないと食っていける訳が無い。それに、あのお母さんだ。マナーどころか、世の中全てに等しく厳しいお母さんが、私の夢を後押ししてくれるとは到底思えない。


「マナー、か」


 私は液タブにペンを走らせながら、一人思考の海に落ちていく。

 試行する思考回路の、バミューダトライアングルに、一人飲み込まれていく。


「マナーって、なんだろうなぁ」


 マナー。

 私にとって身近すぎて、よく考えたことがなかった。マナーとは、なんだろうか。

 聞けばトウモロコシにだって食べ方のマナーがあるらしい。面倒臭い話だ。自由に広がる草原に柵を設置するが如くの所業である。別にいいじゃないか、決まってないものを無理に決める必要はないだろう。


「じゃあ、花だったら?」


 これも、例えばの話。とうもろこしだと少し日常感が溢れるので、もっと身近なもので異食のマナーについて考えよう。

 なぁに、簡単な事だ。マナー講師の娘らしく、架空マナーの創作をするだけである。


 ふむ、花を食べる時のマナーならどうだ?

 本当に例えばの話なのだけれど、『花』はどうやって食べれば良い?

 よく供えられたり、祝いの際に用いられたり、路端に咲いていたりする花だったら?

 私達にとって身近で、日常に彩りを加える花ならばどうだろうか。


 ……これだけだと難しいな。状況を作ろう。

 私は椅子に腰を下ろしていて、眼の前にはテーブルがある。服装は何でもいいが、とりあえず制服ということにしておこう。制服を着ていれば、自分が何者か証明する必要がないからだ。


 テーブルの上には、皿があり、皿の上には花がある。花の側には、ナイフとフォークが添えてある。花の見た目は……ここに拘る必要はないか、ではパブリックなありふれた花でいい。


 ……いや、この世に雑草という草がないように、ありふれた花なんてこの世にはないのか。じゃあ、赤い花で大きな花弁が何枚か付いていて、茎があって、雄しべや雌しべがあることにしよう。


 そんな名も無い花を思い浮かべよう。


「……いただきます」


 私は目を瞑って、そう言った。想像した景色に没入する。

 では、ここで問題だ。


 私が持っているのはナイフとフォークで、皿の上に置かれている花を一体どうやって食べれば良い?

 まず花弁を切り分けるのが正解か?

 雄しべや雌しべを取り除くのが正解か?

 それとも食べやすいように茎を最初に切り離すのが正解か?

 そもそも、花を食べることが間違っているのか?


 分からない、故に、自由。

 それに枷を嵌めるのが、マナー講師だ。

 世間というものから嫌われて、嫌厭されて当然である。


「……なんだ、この絵」


 そう考えながら乱雑にペンを走らせた画面を見ると、私は意味不明なラフ画を書いていた。線はぐちゃぐちゃで、とてもではないが、常人には理解が及ばない絵だ。……今日はもう寝るか、多分疲れている証拠だろう。


 私の今日は、ここで終わりだ。お風呂に入って、歯を磨いて、ベッドに入って、そこで終わり。

 私の夢の事は……いつか、いつかお母さんに言おう。


 言える時機が来るまで、息を潜めて待とう。

 それがもう来ない事を、私は知らずに一日は過ぎていった。

 

――――――――――


 人生において突然な事とはよく有ることで、むしろ人の一生なんてものは偶発と突発の連続だと言われても否定できない程に、人間という個体は永劫に賽を投げ続けて生きている生命体である。その事についての反論は私には無く、いまさらその現実が受け入れられないほどの子供ではない。しかし、けれど私はいつも背筋を伸ばして正しくあろうとしている訳ではない。欺瞞を愛すし、虚偽を憎む。そこには相反する二律背反があるんじゃないかと叱責される事も覚悟の上ではあるものの、もし常に現実を見つめ続けられる人間がいたら、そいつはきっと人間以上に化物だ。


 第一、考えてもみてほしい。現実が充実していて、何もかもが常にハッピーな人間が、絵を描くか?

 太宰治は、本を読まないということはその人間が孤独でない証拠とか何やら言っていたが、そんなのは他の創作芸術もそうだ。十把一絡げに、芸術とは孤独と密接である。


 ああ、何が言いたいのか分からないみたいでゴメンなさい。悪いとは思ってないけど、一応形式上の謝罪だけは済ませておきます。


 じゃ、そろそろ単純明快にして快刀乱麻に言い切ってしまう事にしよう。


「…………」


 お母さんが、死んだ。


 死因は、交通事故らしい。


 それは警察から直接聞いた。


 電話での、報告であった。


 なんでも、テレビ局に向かうまでの道中で、飲酒運転のトラックに轢かれたらしい。


 死んだ。轢かれた。死んだ。終わり。私の母親は、終わった。生命が、命運が、人生が、未来が、展望が、仕事が――意識が記憶が感情が夢が感覚が経験が想像が感性が関係が時間が欲望が意志が個性が習慣が責任が痛みが目標が物語が、命が命が命が命が命が命命命命命命命命命命命命命命命命命。


 死んで、灰に。ああ、遺灰に。塵芥のように、烏有に帰す。


 これで、終わりだ。

 私とお母さんの関係は、轢き逃げされてお終いである。死神は、身構えていても身構えていなくとも、そんなの不確定に来るものだ。

 お婆ちゃんを除いて、私に親族はいなくなった。


 血縁上はいるが、しかし何もせずにそこにいる“だけ”の人物を、親族とは認めたくなかった。少なくとも親しい一族ではない事は、確かである。


「……あ」


 暫くの間、私は放心状態だったが――とある事に気付いた。

 気付いて“しまった”。自分でも目を逸らし続けてきた事実に、直面した。

 私は、動悸がした。心臓が速いテンポで、早鐘を打っていた。心臓が痛い。苦しい。楽にしてほしい。早く殺してほしい。

 そう、死神に懇願してしまうほどに。


「本当に、最悪だ」

 

 想起すれば。

 当日、お母さんは私の昼飯の食べ方についてマナーを説いてから行ったのだ。

 その時は多分、ブロッコリーの食べ方についてだったと思う。指摘されている時の私は、ブロッコリーのマナーとかどうでもいいって思ってたっけ。説教にも近いマナー講座が終わるのには十分ほど掛かった。


 お母さんは十分ほど、私に対して懇切丁寧に教えてから出かけたのだ。

 本来ならば生じる事のなかった十分間。その原因は私であり。お母さんが轢かれたのは、その後の事だ。


「え……」


 それは、もしや。

 お母さんが死んだのは――私のせい、なのか?

 バタフライエフェクト――蝶の羽ばたきが、巡り巡って台風を起こしうるかもしれない事をさす。要は、運命の分岐点だ。


 もし、お母さんがすぐに出掛けていれば……若しくは、遅れて出発していれば。

 ならば。

 お母さんの生死の分水嶺は、私にあったのではないか?


 となれば、お母さんを殺したのは――。

 ピンポーン。チャイムが鳴った。

 思考が一瞬止まった私は千鳥足でドアに向かっていき、解錠すると――そこには、お婆ちゃんがいた。


「……遵子、大きくなったねぇ」 


 県を三つ跨いで来たお婆ちゃんの第一声はそれだった。他に言いたいことも沢山あっただろうに、頑張って呑み込んだのだろう。


「背、伸びてないよ」


 私も辛うじて言い返せたのは、それだけだった。私は薄情な人間だ。

 こうして少し時間が経って冷静になるだけで、私は取り繕える。本当の私は、お母さんが――母親が死んでも、悲しんですらいないのだから。どれだけ血も涙もない人間なんだ、私は。当然か、母親を殺したのは――私なのだから。


「後の事は、お婆ちゃんに任せておきなさい」


 葬式の手筈は、お婆ちゃんが整えてくれることになった。それからは自分でも驚く程に、トントン拍子で進んだ。身辺整理もしなければならないため、物品だったりのイザコザは中々に骨が折れたが、それ以外の事はスムーズに終わりを迎えた。

 特筆すべきものは、二点を除いてない――お婆ちゃんは神妙な顔をしながら、私に手招きした。


「遵子、これって……」


 お婆ちゃんが指を指した先は、お母さんが私の前で開けることのなかったタンスの二段目。鍵付きタンスの中には、二封の封筒が入っていた。

 私はそれを見て、少しだけ顔を歪める。


「……うん、多分――『遺書』だね」


 二封の封筒には、表面に大きく筆ペンで文字が記されていた。

 片方には――『死後について』と書かれており。

 もう片方には――『遵子へ』と書かれていた。


「じゃあ、コッチの方を読んじゃいましょうか」


 お婆ちゃんが手に取ったのは、『死後について』の方だった。


「ソッチの方は、遵子のタイミングで読みなさい」


 そう言いながら、お婆ちゃんは封を切る。

 私は複雑な表情をしながらも、私宛の遺書を手にとって懐に仕舞った。


「あら……」


 『死後』の方の遺書を読んでいるお婆ちゃんはなんとも困った顔をした。

 もともと垂れていた目が、更に皺を刻んで垂れたようにも見えた。

 私も気になって覗き込んでみると、即座に苦虫を噛み潰したような表情になる。そこに書かれていた文言はこうだ――。


【焼香は右手の親指と人差し指と中指で抹香を摘むこと。

 その時に数珠は左手に掛けること。

 合掌の際は手と手の指をピッタリと合わせて、胸から少し離すこと。

 そして傾ける角度は45度を意識すること。

 服装は黒のスーツに、黒い靴を着用すること。

 マスクの色もなるべく黒を意識すること――】


 こんな感じの葬儀のマナーが、つらつらと綴ってあったのだ。

 私は思わず呆れた。死んでからも、どうやらマナー講師を続けるつもりらしい。


 この分では、私の方も何が書いてあるか分かったもんじゃないな。手紙の締めくくりには、財産を全て私に譲渡する旨と、口座のパスワードや、日付、その他諸々がしっかりと記してあった。私はこれを“遺書”だと思っていたけれど、ちゃんとした“遺言書”だったらしい。


 日付を確認すると――私がこの世に生まれた日だった。


 ……馬鹿だなぁ。子供が生まれてから、自分が死ぬことを考える親がどこにいるんだよ。

 それで娘に殺されるんだから、愚の骨頂だ。


「……」


 やはり涙は零れない。

 こんなことじゃ、私は泣けない。

 涙腺が刺激されることなんて、ない。

 この込み上げてくるものの正体は――怒りだ。生憎、それ以外の感情を私は持ち合わせていなかった。


――――――――――


 葬式当日。

 意外と、というのは大いに失礼だが、母親の葬式には沢山の人が来た。


「遵子ちゃんだよね? お母さんの事は辛かったね……」


 数多もの知らない人に話しかけられた私は、「はぁ……」だとか、「はい」だとかの返事を朧気ながら返した記憶がある。

 全員知らないし、お母さんの仕事についても興味はなかった。

 必然的にそこで生じる関係性についても、無知である。私はそれを嘆くつもりはない、心残りもない。自分で殺しておいて、それは虫が良すぎるだろう。


「……憂鬱だ」


 私はお母さんの言いつけ通りに、喪服に身を包んでいた。喪に服す。なので、喪服である。

 葬式が本格的に始まる前に、私はお母さんと会った。身体に体温が無くなったお母さんと対面した私の表情は、同様に冷えていた。


 棺桶に入っているお母さんの表情は、穏やかだった。もっとバラバラになった死体を想像していたものだが、いや実際はかなりの重症だったのだろう。ところどころ、布の下に膨らみがない。


 顔は無事だったみたいだが……それにしても死に化粧とはこうも人を美しくするのか。

 家では私に対していつもピリピリしていたお母さんの顔つきは、実に安らかであった。

 お母さんの周りに添えられた花は、淡い赤色をしている。

 恐らくは、造花だろう。架空のマナーを勝手に捏ねて想像していた母親には、お似合いである。そして、その娘にも。


「……哀れだ」


 哀れ――私は、そう思った。

 マナー講師であった母は、結局のところマナーに殺されたも同義だ。

 マナーについて説く収録に向かって、その結果死んでしまうのだから。


 ――殺したのは、私なのにか?


 私の周りに強烈にトグロを巻いた蛇が、舌をちろちろと出して威嚇をする。

 蛇――蛇蝎の如く蛇足の感情が、私を締め付けた。


 今の私は、マナーというものに責任転嫁をしようとしてないか?私が普段から、マナーをキチンと修めていればこんな事は起きずに済んだのではないか?

 私の胸を、ナタのように鋭い刃物が切り裂く感覚が襲う。ずたずたに寸断して、決して癒えることはない傷。喪服を着ず、裂かれる傷。それよりも上等な気遣いはいらない。そうも、思い上がって。私は、一体。


 葬式は、瞬く間に終わった。私にとって、それは永久にも思えたけれど。


――――――――


「じゃあ、明日荷物を纏めてからコッチに来るわね」


 葬儀のゴタゴタが終わってから、お婆ちゃんはそう言った。

 本当に申し訳なかったが、未成年の私は大人の手を借りなくては生きていけない。

 葬儀まではなんとか出来たが、重要な手続きとかはそうも言ってられないのである。


「うん……ばいばい」


 お婆ちゃんに別れを告げてから、私はリビングへと戻った。

 ……もう夜だ。

 食事をしなければならない。少なくとも、母親がいた頃はそうしていた。

 葬式の後に食事をしたからお腹は空いていないが、生活リズムを乱さない為に食事を摂ろう。

 そう思い立った。


「カップ麺くらいしか無いな……」


 いつも母親が食事を作っていたし、仕事で忙しい時は作り置きをしてくれていた。

 その有難みに、死んだ後に気付くとは思いもよらなかった。

 思えば生きていた時に、ちゃんと感謝すべきであった。

 お湯を沸かす、注ぐ、待つ。

 カップ麺はこの手頃さが魅力的だ。


「いただきます」


 誰も居ない暗いリビングで、私はラーメンを啜った。

 今はもう、誰も私のマナーを注意する人はいない。

 箸の持ち方も、麺の口への運び方も、何も言われない。

 響くのは咀嚼音のみ。咳をしても一人ならぬ、食事をしても一人。

 それが少しだけ、寂しかった。


「ごちそうさまでした」


 食べ終わってから、ゴミを捨てて、箸を洗った。

 幸いにも、明日は忌引で休みだ。

 風呂を湧かすのも手間だし、明日の昼にでも入ればいいだろう。

 今日はもう、寝たい。

 でもその前にやらなければならないことがある。


「絵を描いてから、寝るか……」


 母親が死んだとしても、日課である絵の練習はしなければならない。

 それが自己を持たない私の、たった一つのアイデンティティだからだ。

 自分の椅子に腰掛けると、眼の前に『遺書』が置かれていた。


 そうだ、前の私がここに置いてから、手を付けていなかったんだ。

 ……どうする? 読むか?


「……今、読まないとずっと読まないままだよなぁ」


 これがきっと、最後のチャンスだ。今日見なければ、私はずっと見ないままだろう。中身を見るのは、正直怖い。

 禁忌の祠にドロップキックをするような気分だ。私は勇気を出して『遵子へ』の遺書の封を切った。

 手紙を取り出して、お母さんが書いた文字を読み始める。


【遵子へ――――。

 これを見ているということは、私は死んでしまったのね。

 お母さんらしい事をしてあげられなくて、ごめんなさい。

 厳しい事も、沢山言ってしまったと思ってるわ。

 許されたいとは思っていないけれど。

 それでも、あなたの事はずっと愛していたわ。

 嘘っぽく聞こえるかもしれないけれど、本当よ。

 ごめんね。

 私の子供に、生んでしまってごめんなさい。

 口座のお金は、自由に使って貰って構わないわ。

 それと――イラストレーター、とても素敵な職業だと思うわ。

 頑張ってね。

 お母さんは、ずっとあなたの事を応援しています。

 願うことなら、天国で再開を。

                 ――――暁木挨佐より】


「……ぅぁ」


 書かれた日付は一年前の先月頃。

 手紙を読み終わった私の喉から漏れたのは、それだけだった。


 言葉にもならない言葉。

 絵にもならないラフ画。

 芝居にもならない演技。

 それだけの言葉の螺旋。


 それでも、言いたいことがあった。


「なんだ……私の将来の夢、知ってたんだ」


 お母さんは人知れず、私の夢を応援してくれていた。

 その事実が、私の胸を打つ。


「ああ、もう……嫌だなぁ」


 呟く。

 音は、反響せず。


「マナー違反だマナー違反だ、って……本当に馬鹿みたいじゃん」


 マナー違反。

 お母さんがよく言っていたその言葉を借りるのなら――。


「“さようなら”も言わずにいなくなるのが……一番のマナー違反じゃん」


 マナーに、違反している。ママが、一番違反している。

 勝手に娘を置いて逝く事が、一番のマナー違反だろう。

 母親としての、最大のマナー違反だ。

 ああ、クソ。

 なんで、今なんだよ。


「泣きたく、ないのに……」


 涙が、手紙に零れた。一体、誰の涙なのだろう。

 私は知らない。自分の顔は、自分じゃ確認出来ない。

 顔がない私は、のっぺらぼうでいい。

 今はそれでいい。


「……絵を、描こう」


 私は気づけば、液タブを起動していた。

 お母さんが死ぬ前に描いていたラフ画を選択する。

 私は、この絵を完成させて見せる――そう固く決心した。


 天国にいるであろう、母親の為に。絵を描くというのは、孤独な作業だ。

 だけど今の私は違う。この絵を完成させるまで、絶対にお母さんは見守ってくれている。

 そんな確信があった。


 全体的な完成図の絵を描く。

 全体の輪郭の線を書く。

 絵を描くというのは自由だ。

 かいてならないものなど、画竜点睛くらいである。


 私とお母さんの全てを詰め込め。

 一緒にいた人生の時間を、拾い集めろ。


 母親との過ごす時間を失った事を表す時計は背景に。

 蝶――バタフライエフェクトを表す蝶も描こう。

 中央の人物は、制服を着た私だ。

 涙は、空中に散らしておこう。


 食べ方のマナー。皿の上には、お母さんの側に添えられていた赤い花を。

 私はそれを、ナイフとフォークで切り分けよう。

 それをブラッシュアップして、ブラッシュアップして、ブラッシュアップして――。


「……あさ?」


 チュンチュン。

 気が付けば、外で小鳥が囀っていた。

 どうやらもう朝らしい。

 出来たイラストは、私の中で最高傑作と呼べる程の完成度であった。


「タイトルは、どうしようかな……」


 完成したイラストを、私は眺めていた。

 このイラストは、私からお母さんに送る鎮魂歌ならぬ鎮魂画だ。

 題名をつけるとすれば……そうだな。


「――【献花】」


 私とお母さんは仲良くなかったし、とてもじゃないが親子仲は良好だなんて言えなかった。そう、思い返せば喧嘩ばかりの日々だった。喧嘩。けんか。発音を同じくして、献花。死者の霊前などに花を供えること。また、その花の事。ああ、今の私にピッタリな言葉じゃないか。


 見ていますか、お母さん。

 私は、夢を追ってみたいと思います。

 それがどれだけ険しい道であっても。

 清く正しくマナーを守って、生きていきます。

 だからどうか。

 どうか――私の事を、ずっと見ていてください。


――――――――――


 これが所謂、十五年前の話。

 今の私はもう三十路に突入してしまった。

 時間の流れとは早いものだ。この分ならお母さんの年齢だって、すぐに追い越せそうである。


 あれからどうなったの?

 とか。

 夢は叶ったの?


 とか、訊きたい事は沢山あるだろうが、それはまた今度に話そう。

 今は少し、それを語るよりも大切にしたい時間があるのだ。語るに落ちる程の、愛おしい現在が。


「ママー! 今日もママが作るご飯、すっごく美味しい〜!」


「おいおい、礼華れいか。そりゃあ当たり前だろ。なんていったって俺の奥さんなんだからな!」


 私はそれを聞いて朗らかに笑った。まったく、ウチの子は本当に褒め上手で困ってしまう。


 手を止めて、振り向き。

 ゆっくりと歩み寄り、食事中の自分の娘の頭を静かに撫でた。

 そして、言った。


「よく噛んでから、食べるんだぞ」


 あの日、お母さんが私に言ったように、私もそう言った。


 さて、ところでアナタは花をどうやって食べる?

 私はそうだなぁ、まずは――。

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『Manners×Color〜花食の作法〜』 釜毒 傘子 @gayama

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