本朝千夜一夜 〜堕神の末裔は呪われた王子へ捧げられる〜

二枚貝

第1話

誰かがうめくような、低い、苦しげな声がした。

 緋色の衣をまとった男が、おのれの胸元を掴み、息を荒げている。

『…………い、……しい…………くる、しい……』

 その様子があまりに苦しそうで、その声があまりに悲痛な響きを帯びているから、助けなければ、なんとかしなければと思った。

 だから駆け寄って手を伸ばした。なのに、男に振り払わられる。

『近づくな……お前は…………』

 悲しかった。彼に拒まれた理由がわからないことも、自分では彼を助けられないことも、彼が苦しみ続けていることも。

 とてもとても、悲しいと、そう思った――。


 * * *


ハッと目が覚めて、そのおかげで淡雪は、いましがたの光景が夢であることに気づいた。普段はほとんど夢など見ないこともあり、また状況はわからないながらに強い悲しみを夢の中で抱いていたこともあり、なんだかひどく気に掛かる夢だった。

 寝床から身を起こすと、背は汗でぬれていた。まだ春のはじまりの時期だというのに。淡雪はちいさく、ふぅ、と息をつく。

(……また、誰かの悲しみを拾ってしまったの、かしら)

 白の御神の末裔である淡雪は、他者の悲しみや苦しみといった感情を無条件で察知してしまったり、影響されてしまうことがある。自分では制御できない以上、どうしようもないことだとわかってはいるが、まだ若い淡雪はこの体質を時折重荷に感じることもあった。

 淡雪は目を閉じ、意識を澄ませてみる。身近なところ、すくなくとも屋敷の敷地内には、誰かの苦痛の感情の気配はない。

「よかった……」

 淡雪は無意識に、安堵の息を漏らす。

 屋敷の離れに寝ついている病身の叔父が苦しんでいるのではないかと心配だったのだ。だが、その様子はない。

(じゃあ、ただの不思議な夢だっただけね)

 淡雪はそう結論づけて、枕のそばに置いた箱のなかからちいさな鏡を取り出した。

 彫刻もなにも施されていない鏡はひどく高価で貴重なものだが、淡雪の家には魔除けの効き目があるからと代々受け継がれている。

 手のひらほどの大きさの鏡に、まっすぐな黒髪とその名の通り雪のように白い肌、ぱっちりと大きくて見る者に幼い印象を与えがちな黒い目をした淡雪自身が映っている。

 もしも魔のものや、よくないものが取り付いていればこの鏡に映るという。見慣れた自分の顔以外になにもないことを確認し、満足のちいさな笑みを浮かべてから、淡雪は身支度をするために起き上がった。

 

手早く身支度をすませると、淡雪はいつものように薬草摘みに出た。

淡雪の暮らすこの里は山がちな土地にあり、栄えているとは言い難いが、土はよく肥えて作物や薬草がよく育つ。病がちな叔父のために朝露の残る瑞々しい薬草を摘むのを、淡雪は日課にしていた。

 屋敷近くの山に入って戻ってくるため、薬草摘みも小一刻(2時間)ほどがかかる仕事で、けして楽なものではない。

 だが淡雪は、毎朝のこの役目を楽しんでいた。清らかな沢のせせらぎ、風に揺れる木々のざわめきは心地よく、胸が澄み渡るような気持ちになる。

 今日も順調に通り道を行き、薬草を見つけた。必要な分だけを切り取ってから、淡雪は神々への感謝を口にする。

「大地の神、白の御神に感謝いたします。この薬草が、叔父さまを助けてくれますように」

 そして薬草を腰に結んだ小袋に入れてから、踵を返す。来た時よりも足速に戻るのは、薬草をすこしでもみずみずしさの残っているうちに刻んで煮立てた方が効き目があるような気がするからだ。


 いつもならば、屋敷に戻った淡雪は自分で薬草を煮て薬湯をつくる。

 だが。この日は違った。

「雪さま! やっとお戻りですか!」

 小走りで出迎えた使用人の言葉に、淡雪は首をかしげる。

「やっと……? 何かあったの?」

「長老のところからお使いが来て! 急いで雪さまを屋敷に来させろって言うんです」

そして使用人は、信じられないような一言を口にした。

「都から使者が来るんだとかで!」

「!」

 息をのんだ。みるみる血の気が引いていくのが自分でもわかった。

(都から――帝の、使者が!)

「そうですよねえ、びっくりしますよね、こんな里に都からお使者なんて」

 ことの重大さをまだ知らない使用人は、滅多にないことですよねと言いながら淡雪の手を引いて屋敷へ戻ろうとする。

「急いで着替えて、長老の屋敷に行かないと、皆さんほとんど揃ってるみたいです」

「……そう、ね、お待たせするわけにはいかないわね」

 淡雪は薬草の入った小袋を使用人に渡し、これをお願いねと告げる。そして、ちいさな手のひらを真っ白くなるまで強く、握りしめた。

 

長老の屋敷に到着する頃には、都からの使者の話は里中に広まっていた。

 里に不釣り合いなほど華やかな一行は、先頭には都の貴族が乗っているのかと思うような立派な牛車、その後ろには、不必要なほどきらびやかな装束を身につけた侍たちが、厳めしい顔つきで付き従っているのだとか。

 里の者たちは、その異様な光景に息を呑み、不安と恐怖の色を隠せない。こんなちいさな里にわざわざ都からの使者が来るなど、普通ではありえないと皆がわかっている。

 

 淡雪もまた、胸騒ぎを覚えながら、うつむきがちに広間の隅へと位置取った。

 すぐに、ひとめでそうとわかる使者が広間に入ってきた。この里では見たこともないような清潔できらびやかな衣装、帯に吊るした佩刀の鞘にはいろとりどりの石がはめ込まれている。

使者は冷ややかな眼差しで広間に集まった里の者を一瞥すると、帝の勅命を伝えるべくやってきた、と告げた。

 その言葉に、里の長老たちの顔色はみるみる青ざめていった。

 そして使者がが告げたのは、信じがたい内容であった。


「畏れ多くも帝の勅命である。白の一族より一人の娘を差し出し、帝の第二皇子殿下との婚姻を結ぶべし、とのこと」


使者の言葉は丁重であったが、その声には有無を言わせぬ響きがあった。婚姻。それは表向きの言葉に過ぎないことを、淡雪も、そして里の者たちも瞬時に理解した。

 白の一族――都の貴族たちは、淡雪たち一族のことをそう呼ぶ。

 もっと別の、侮蔑に満ちた呼び方をされることもある。堕神の末裔……そう呼ばれ、白の一族は長らく迫害されてきた。

 

 帝の一族は、白の一族を堕神の末裔と呼んで忌み嫌いながら、代々形式的な婚姻を交わしてきた。

 それは堕神の力を監視し、制御するためという名目ではあったが――いままで白の一族から何人もの男女が都へ差し出されたが、そのほとんどは戻って来なかったし、ごくまれに生きたまま戻って来た者がいたとしても、到底もとの姿のままでとは言えない状態だった。

 都に行けば、生きては戻ってこられない。死んだ方がマシという目に遭わされる。

 白の一族は皆、そのことを知っている。


長老たちは顔を見合わせ、重い沈黙が里を包んだ。誰がその役目を引き受けるのか。誰もがその問いを口にせずとも、その視線は一人の少女に集まっていた。

(まさか…………)

 怖くて顔を上げられなかった。だが、見なくてもわかる――淡雪は、その視線が自分に向けられていることを悟った。彼女は、白の神の末裔である白の一族の中でも特に神の血が濃い。周囲の人間の痛みや苦しみを感知してしまうことが、その証だった。

 淡雪の家は白の一族のなかでもとくに白の神の血が濃く残っているといわれ、白の一族のなかでもとくに多く、都への贄に差し出されてきた。


「淡雪よ、お前が……」


長老の一人が、苦しげに言葉を絞り出した。淡雪は、その言葉を聞きながら、胸の奥底で渦巻く感情が溢れ出さないよう、必死で耐えていた。恐怖、怒り、そして、諦め。


脳裏に浮かぶのは、病みやつれて起き上がることもできない叔父の姿。

 叔父はかつては物静かに笑う、しかし好奇心の旺盛な学者だった。物知りで、どんな悪戯をしても笑い飛ばしてくれる大好きな叔父だった。

 だが皇女の契約結婚の相手に選ばれ、都へ行って数年後に戻ってきた時には変わり果てた姿になっていた。いまでは一日のほとんどを眠って過ごし、たまに起きている時でも表情はうつろで、話しかけても滅多に反応もない。


(わたしも、あんな風に……?)


怖くないはずがない。都でどんな恐ろしい目に遭うのかもわからない。行きたくないし、叔父をひとり残していきたくもない。

それでも、淡雪には拒否するという選択肢などなかった。


(わたしが都へ行けば、叔父様の……薬が手に入る……)


 叔父は、里へ戻ってからはすこしずつ状態は回復しているものの、さまざまな薬に頼り切りの状態だ。

 なかでも一番よく効き目がある薬は、都でしか手に入らないーーこれまでは行商の者に頼み込んで手に入れてもらっていたが、それもいつまで続けられるかわからない。

 薬を手に入れるには対価が必要だ。いままでは先祖の残してきた宝飾品や、いつか淡雪の嫁入り装束にと両親が用意してくれていた衣装を売り払いなんとか工面してきたが……お金は、使うほどに減ってゆく。いつかは薬を手に入れられなくなると、わかっていた。


 淡雪がここでうなずき、都へ行けば、帝から黄金が下賜される。どれほど忌み嫌われる白の一族であろうと、形式的な結婚とはいえ皇族の伴侶でいる限りは毎年黄金が支給されるようにもなるという。その黄金があれば、贅沢をして暮らせるとは言わないが、叔父の薬代には一生困らないはずだ。

そして何よりも、一族の安寧、一族のために。もし淡雪がこの婚姻を拒めば、帝は兵を差し向け、力ずくで白の一族を引きずってゆくだろう。人間が太陽の恵みを得ずしては生きられないように、太陽神の末裔である帝一族に楯突いて、この国で生きていくことはできない。里は焼き払われ、人々は皆殺しにされるかもしれない。そんな未来を想像すると、淡雪の心は締め付けられた。

 (行きたくなんかない⋯⋯でも、わたしひとりのわがままで、皆の立場を危うくさせるわけにはいかない⋯⋯)


「……承知、いたしました」


震える声で、淡雪は答えた。その声は、静まり返った広間の静寂のなかに吸い込まれていくようだった。

 (大丈夫。ひと月もかからないで戻って来れる。これはただの契約、儀式としての婚姻だから⋯⋯)

 過去、淡雪の一族からは何人も皇族へ形式的に嫁いだ者があった。だからこそ、この契約結婚がどういうものか、淡雪もよく知っている。

 白の一族から選ばれた男女は都で皇族と結婚の儀式を行う。だが、本当に結婚するわけではなく、あくまで形ばかりの輿入れの儀式をするだけだ。

儀式そのものは十日間で終わる。儀式の前後の準備期間や、都への往復の時間を考えてもひと月ほどで終わり、里へ戻って来られる。

 そのはずだ。


使者たちは満足げに頷き、婚礼の準備を進めるよう言い残して去っていった。残された里の者たちは、皆、悲しげで気まずそうな顔で淡雪を見つめていた。

 しかし、誰も彼女に「行くな」とは言えない。

 重たい空気を払拭するように、あえて淡雪は明るく笑ってみせた。

「長老さま。わたし、都へ行ってまいります」

「ああ……。淡雪、そなたにはすまないことをさせると、思っておる……」

「いいえ、むしろ、ありがたいと思います。わたしが都へ行けば、下賜金で叔父の薬が買えます」

 淡雪は微笑む。里の者たちが誰ひとりとして、心苦しい思いをしなくて済むように。そして告げる。

「わたしを都行きに推薦してくださってありがとうございます、皆さま。こころより、お礼申し上げます」

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