第二話 休息を忘れて
全てが0になって、初めて理解した。
雨の中、傘を手に持つのに差さない男。
彼の周りへの苦悩の演出は、誰にも気づかれない。
布と皮膚の間の不快な蒸れ。
都会の雨は、心地よいBGMにもならない。
コンクリートの化学的な臭いと、雨特有の泥臭い香り。
雨で、視界のピントが合わない。
「チッ」
下校中の高校生を見て、舌打ちをする彼。
ビニール傘を手に持ち、引き摺る。
目はどこでもない、なにもない場所を向いている。
家に帰ったら何をしようか。などと考えるほど、気楽じゃない。
家に帰ったらすぐに湯船に浸かって寝て、疲れをとろう。
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彼は、白い塗装に塗られていたであろう外観の、小さなアパートに向かっていた。
アパートの手摺には、住み着いた燕のフンがところどころに落ち、清潔感を微塵も感じない。
彼はアパートの一階の室の扉を開ける。ただいまという相手もいない。
彼はすぐさま服を脱ぎ、そのまま床に投げ捨てる。
「あちい」
エアコンも扇風機も付けていない。暑いのは当然だ。
風呂場の扉を開ける。
「チッ、なんだよ」
風呂が沸いていないことに気づいた。
風呂の栓が開いたまま。
男は仕方なく、シャワーを浴びる。
水が、体に染みて心地よい。
「あぁ______」
声が溢れるほど。
温度差の快楽に浸っていると、車のクラクションが突然風呂場の窓の外から、聴こえた。
突然の音に肩をびくりと震わせる。
冷や汗が溢れる。
暑さの汗ではない。
身体からの、精神の汗。
「もうやめてくれ」
独り言。
ただ、その声はただの独り言とは思えぬほど重く、暗く、何かを蝕むようだった。
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自転車を強く漕ぐ。
追い風に押されて、心地よい。
雲一つないあおぞらは、何か今日が良い一日になり得るような、そんな希望と期待を俺に少し、感じさせてくれた。
あの一日目から、沢山の友達が出来た。
学校生活は順調に。
初めはもう出来ないのだろうかと、不安だったけれど、その不安も今や昔の話。
あの謎のプライドも、どこかにいってしまった。
時間が最良の薬というのは本当だ。
今日の教科は、数Iと体育くらいしか覚えていない。
数Iは意外と簡単だった。体育は先生が中学と比べて怖くなったくらいで。
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「お、優、おはよう」
「おはよう」
騒がしい教室に入ると、田村静也が目の前にいた。
静也は俺の左斜め後ろの席のやつ。
二日目か三日目に、初めて話しかけた。
静也を見ると毎回、顔よりも先にセンターパートの髪型に目がいってしまう。その髪型が静也に似合ってるのか、似合っていないのか、俺にはよくわからない。
「てかどこ見てんだよ〜」
「髪型気になっちゃう」
「変?」
そう静也は言って、両手で髪を弄り出した。
「変じゃないよ、気になるだけ」
「なんで気になんだよ〜」
「なんとなく…?」
相変わらず、女子とはほぼ話せていない。
横の女子と一回話したきりだ。壁があるように見える。
俺は席に座り、カバンから今日の荷物を取り出す。
そうこうしている内に、俺の周りにはいつの間にか人が集まっていた。
「堀谷遅くね?」
「そう?」
スマホを弄りながら話すのは、松井。
最近流行りのゲームをやっているそうだが、俺はあまりゲームをしないので、よくわからない。
「いつも堀谷何時に家出る?」
「んー七時くらい?」
「一時間で着くんだな」
「そうそう」
「そんな遅いの?!俺六時半に出てるわ」
「松井何時に出てるん」
周りの三、四人の男子も一緒になって会話に参加している。この光景は久しぶりだ、いや初めてかもしれない。
中学のときは、参加する立場だった。
嬉しさと同時に、「この流れが終了したら」、「立場がなくなったら」なんてことを考えて、怖いほど不安になる。
少し無理をしてみるのも策だと、最近理解した。
「そろそろチャイムじゃない?」
俺のその声かけで、周りは時間に気づき、席に座り始めた。
「おはようございます、今日の体育は保健になるらしいので、視聴覚室に集まってください」
はーいと疎らな声。
だが一人だけ、「はい!」と異様に声の大きな奴がいた。
そいつの名前は確か、石山元気。名前の通り元気な奴だと思う。まだ一度しか話したことがないので、よくわからない。
「じゃあ終わります、挨拶」
「起立、礼、着席」
女子のホームルーム委員の挨拶で、この時間は終了だ。
ホームルームが終わると、俺は左後ろ向いて、静也と話し出す。
話していると、松井を中心に何人も集まってくれるので、賑やかになる。
「みんな何部に入るの?」
俺はそう聞いた。最初に口を出したのは松井だ。
「俺は野球、」
次に静也が「俺は卓球部だよ」と言って、いつの間にか話題の内容は下ネタのオンパレード。
静也は言葉遣いも悪いわけじゃないし、気が合う感じがする。ネタも通じる。
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四時間目の保健の時間。
元々体育だったので、運動神経のいいらしい松井は誰よりもがっかりしている様子だった。
「元気出せって松井〜」
俺は苗字で呼んでいるが、皆は下の名前の「秀吾」と呼んでいる。最近はシュウちゃんとも呼ばれている。
俺は初対面からの癖でずっと、松井と呼んでしまう。
「保健なんてつまらんわ」
相槌で静也が話に入る。
視聴覚室にはいつの間にか着いていた。
余りにも厳ついショートの髪の体育教師、荒井銀次。
彼は部屋の外にも聞こえるほどの声で、二つのクラスに指示を出す。
「出席番号で座れえ!!」
別に怒っているわけではないのだろうが、この先生が言うとなんでも怒られているように感じてしまう。
俺はそそくさと席に座る。
横も後ろも女子、後ろに男子もいるが、あまり絡んだことのない男子だ。
ただ、目の前に、あまり他の奴とも話していない男子がいる。静かなタイプなのだろうかと俺は考えた。
「挨拶しろ」
チャイムも鳴っていないのに、荒井の一言で直ぐに授業は始まった。
保健の授業はとてもわかりやすく、どの教科と比べても周りが静かだ。教師の力はすごい。
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「周りと交流しろー」
授業も後半戦。
生活の質がなんちゃらを交流しなければならないらしいが、何も聞いていなかった。
「ねえ、荒井なんて言ってた?」
「あ、ごめん俺も聞いてなかったわ」
俺は前の席のやつに話しかけた。
こちらを向いた彼は、意外と顔が整っている。
「名前なに?」
「谷山優太郎。谷山でいいよ」
「よろしく、谷山」
「君は?」
「堀谷優。優でいいよー、」
「おお、じゃあ優って呼ぶわ」
意外と話しやすい人だ。
なんでこれまで、あんなに他のクラスメイトと話してこなかったのか疑問なくらい。
「どこ中?」
谷山が聞いてきた。
「上島中。谷山はどこ中なの」
「下賀谷中。上島中って結構遠くね?なんで来たの」
「公立落ちてさ」
「そういうことか、」
少し言いづらい気もしたが、公立に落ちたことを初めてクラスメイトに言った気がする。
「谷山は?単願?」
「いや、落ちた」
俺と同じ境遇に驚いた。
「どこ受けたの?」
「上島高校。当日点数480でさあ絶対行けたんだけど、内申点が足らなくて」
上島高校。
この辺りの地域では、最も偏差値の高い高校だ。
しかも480。満点の500に近い。
「結構すごくない?内申なんでそんな低いの?」
「窓ガラス割ったりしてたから」
「なにそれ…」
もっと根暗な性格を想像してたので、まさかこんなにもヤンチャなタイプだとは驚いた。
「他になんかやったりしたの?」
冗談混じりに聞いてみた。
俺はもっと谷山について知りたくなってきた。
「えーああ夜3時までカラオケ行ってた」
「警察には?」
「もちろん補導されたよ」
「ええ」
話が盛り上がってきたところで、交流の時間は終了。
楽しい時間だった。
荒井が、突然話を始めた。
「じゃあ発表してもらおう、堀谷。」
「え」
荒井が発表を指名したのは、正真正銘俺だ。
「生活の質を上げるには…早く寝て早く起きることが大事だと思います…」
自信のない声。
どうせまた何か言われるだろうと、確信。
「いい答えだ。座れ」
荒井は満足したようで、他のクラスメイトを当てる。
俺は安堵の息を漏らした。
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「それがさあ、谷山ってやつ、めっちゃ面白い」
俺はクラスに戻る途中、静也と松井に谷山の話をした。
二人とも驚いていて、今度話しかけてみようなんて言っていた。
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今日の夕飯の匂いはしない。
置かれた書きかけのメモに、静かに目を向ける。
『今日はお父さんの病院に行っているから、帰りが遅くなり詳しいことは帰ってから話すから、冷凍しょくひんでも食』
母さんとは思えないほど、汚く、乱雑で、荒れた文字だった。ところどころ書きかけのようで。
俺はリビングの明かりをつけて、スマホをいじる。
まだお腹は空いていないので、いつもの岡部に電話をかけた。
数十秒経って、繋がる。
『一週間ぶりだな』
「だね」
内容は部活の話に。
『部活とか決まったの?』
「いやまだ。岡部は?」
公立高校は部活が既に始まっているのか、気になった。
『まだだよ。というか、いつメンとかできた?』
「できた!結構楽しんでるよ」
これは本心だ。
『まじか!女子はどう?』
「まあまあ?俺は、あんま話してない」
『そっか距離ある感じか』
「そうそう」
『というかさ、堀谷さ一人称変わった?』
「えー」
『変わったよな?なんで?』
冗談混じりに、岡部は聞いてきた。
「うーん高校デビュー?」
そう言って笑う。
『あんま無理すんなよ〜?』
「無理してないでーす」
無理しているつもりはなかったけれど。
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『そろそろご飯』
「じゃあまた今度」
『じゃあなー』
電話の切れる、音。
切った直後の、この物寂しさに慣れるのはいつだろう。
「母さ_____」
そうだった。
今晩はいない。
父さんが病院に行った。
俺が知り得るのはその情報だけ。
悪い予感しかしない。
冷凍食品を食べる気にもならない。
先に風呂に入ろうと、服を脱ぐ。
服を入れるカゴに投げ捨てて、風呂場のドアを開けた。
「あ」
いつもなら母さんが、風呂を入れてくれるのだけど。
いや、さっきまでお湯を入れているときのマークが、外のリモコンに付いていた。
風呂場の栓がしっかり閉まっていない。
それに、風呂場の側に泡がまだ、ついている。
急いで洗ってくれたのだろう。
不安になって来た。
そんか不安を紛らすため、シャワーを浴びる。
湯船に浸からないのは久々だった。
何故だかすっきりしない気分。
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冷凍のビビンバを食べて、俺は自室に戻る。
ベットに寝転がれば、いつの間にか意識は別世界。
すっきりしない眠りだった。
後悔の筋道 飛鳥 @kushimi
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