ぜろ

久保隆@2分で読める怪談ライター

第1話 ぜろ

会社へのアクセスは乗り換え1回、片道30分と悪くない。


乗り換え駅は有楽町線と日比谷線が乗り入れているので、ラッシュ時に混み合うことがストレスだ。


しかし、改札へ向かう途中にトイレがあるのがありがたかった。


帰りに駅のトイレで用を足し、洗った手をハンカチで拭きながら出ていく時にエアータオルが目に入った。


よくある小ぶりなエアータオルだ。

その側面にマジックで小さく文字が書かれている。


「───10秒、以上、使わないで、ください、…彼女…、入…んで、…ます」


後半は掠れていて読めないが、10秒以上使うなということは分かった。


なぜ?


どうせ誰かのいたずらだろうと思い、それ以降特に気に留めもしなかった。


それから何度か、同じトイレを使ううちに、その注意書きも視界の隅で慣れていった。


ある日、トイレを出てホームで電車を待っている時、スマホに通知が来た。


動画の撮影が、ずっと続いている。

ポケットに入れたまま録画ボタンを押していたらしい。


またいつもの誤操作か、と苦笑しながら録画を止める。


ワイヤレスイヤホンを耳に装着し、興味本位で再生してみた。


画面にはただ真っ暗な映像が映る。───自分のポケットの中だ。

ガサゴソと聞こえるのは衣擦れの音をスマホが拾っているのだろう。


しかし、耳に届いたのはポケットの中のガサゴソ音だけではなかった。


しばらくはガサゴソと衣擦れの音が続く。

自分が用を足す音を聞くのは気持ち悪かったので、少し飛ばした。


また衣擦れの音。


そして、「ゴー……」というエアータオルの作動音に混じって、妙な音声が入り込んでいた。


「……じゅう……きゅう……はち……」


カウントダウン。女の声。機械の音のように、抑揚のない声だった。


映像の中の自分は気づく様子もない。エアータオルの作動音がやけに耳障りなのに、女の声は聞こえる。


「……よん……さんんー……」


カウントダウンの声に次第に含み笑いが混ざってくる。

意地悪な子供がいたずらをしているような、そんな悪意のあるカウントダウン。


「にぃぃ……ひひ……いちぃぃー」


次の言葉を発するために「すぅー」と息を吸う音が聞こえる。


突然の静寂。エアータオルを使い終えた瞬間だった。

そして、衣擦れの音に混じって、低く、憎悪に満ちた舌打ちが響いた。


「チッ……」


おかしい。トイレには自分しかいなかったはずなのに。


動画を見終え、イヤホンを外した。


───3番線、〇光子方面行、電車が参ります。


電車のアナウンスとともに、地下鉄特有の少し酸っぱくて淀んだ空気が頬をなでる。


ホームの奥、穴倉の奥からうめき声のような低いうなり声が響く。


雑踏が、喧噪が、「ゴー……」という地鳴りと、金属のこすれ合う音の暴力にかき消されていく。


轟音の主───地下鉄がホームに滑り込んできた。


そのとき、








「——ぜろ」




心の底から愉快そうな女の声だけが、まるで耳元で囁くかのように響いた。

やけにはっきりと。


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