第7話:通州大虐殺

 盧溝橋事件。今尚通州大虐殺同様支那現地政府の不誠実性および支那共産党の謀略として語られるそれは、紛れもなく帝国陸軍を引きずり込もうとする支那共産党の謀略であった。彼らは国民党軍に紛れて銃声を打ち込み、帝国陸軍を支那戦線へ引きずり込んだ!後に宇垣協定が結ばれるまで、支那国民党は支那共産党の謀略である旨に気づけなかったという。

 だが、肝心要の日本軍には、その謀略は三月みつきも経たないうちに判明したという……。


 突如として、河北を進軍中の日本軍が停止したのは、1937年7月中旬のことであった。彼らは万里の長城を越えないことでかろうじて支那との全面戦争に突入していない様相を見せたのだ。この支那事変が通称「北支事変」とも呼ばれるのは主に戦線が北支、即ち万里の長城や黄河流域よりも北で行われたからであり、その月に起こった通州大虐殺も北支那で起きたが故に、支那者はついに日本軍の姿も余り見なかったと証言したという。

 一方で目算が狂ったのは言うまでも無く支那共産党であったという。彼らは日本軍を引き込んで国民党の進退を極まらせることによってその貧弱な八路軍を増強しようとしたのだから日本軍が河北でうろうろしているのは想定の範囲外であった。

 そして彼らはその月の内に、鬼畜震旦たる本性を起こすことになる。冒頭でも書いたが、北京は通州に置ける凄惨極まる大虐殺である。


「通州で邦人避難民三百名殆んど虐殺さる」

 ~当時の新聞の号外記事


 1937年7月29日のことである。北京市内は通州に於いて、古今未曾有にして凄惨なる大虐殺が行われた。通称、「通州大虐殺」である。記述することも憚られるそれは、後に支那の戦争犯罪として裁かれる際に裁判長から「このようなことばかりしているから、支那は侵略されるのだ。北支事変は自業自得」とされる一件である。後に「鬼畜震旦」と称されるこの事件は、今でも支那が本朝に対して強く出られない外交カードとして機能することになる。

 本朝では当然、「暴支膺懲」の大合唱が始まったが、現地では進軍はついぞ行われなかった。それは、以下のような論理からであった。

 通州で古今未曾有にして凄惨なる大虐殺が起きた→その戦術的意義は何か→本朝を狂させて我々を進軍させ、国際法違反だと非難するつもりだろう→それに対して我々がすべき行動は何か→敵の罠に乗らず、河北を平定して一度軍勢を停止し、講和条約を呼びかけると同時に通州大虐殺の件は国際裁判で裁けば良い

 日本軍とは、後代の我々の想像より遙かに冷厳なる組織である。少なくとも、本土の狂した態度に比べ、現地の彼らは冷徹に現状を把握しつつあった。

 だが、マスコミが発達していることが、大日本帝国の不運とも言えた……。

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