第12話:悠斗の支えと白紙の誓い

給料日前の極限状態と、作画監督からの理不尽な修正の嵐に晒され、美咲の心身は擦り切れる寸前だった。アパートの部屋に戻っても、疲労困憊の体に安らぎはない。電気代を節約するため、暗闇の中で冷たい毛布にくるまる日々。食事はレトルトの残り香が部屋にこびりつき、美咲の心を一層沈ませた。朝は鉛色の空気に包まれた部屋で重い体を起こし、夜は会社の蛍光灯の冷たい光の下で、赤ペンで埋め尽くされた原画と向き合う。美咲の指先は常に痛み、腱鞘炎の兆候は悪化する一方だった。鉛筆を握るたびに、神経に響くような痛みが走り、美咲の集中力を奪う。栄養不足による頭痛と吐き気が慢性化し、美咲の身体は常に微熱を帯びたような倦怠感に包まれていた。肉体的な疲労よりも、心が先に限界を迎えているのを美咲は肌で感じていた。美咲の心は、深い霧の中に迷い込んだように、出口が見えなかった。まるで、この暗闇の中で永遠に彷徨い続けるしかないのかと、美咲は絶望しかけていた。


「楽しいって、何だったっけ?もう、思い出せない…」


美咲の口から、無意識のうちにその言葉が漏れた。その声は、震えており、美咲自身の耳にもか細く響いた。絵を描くことへの喜びは完全に失われ、ただ与えられたタスクをこなすだけの作業員のようになっていた。美咲は、自分が何のためにここにいるのか、何のために絵を描いているのか、その意味すら分からなくなっていた。美咲の内部では、「モチベーション低下」「自己肯定感の損失」「現実逃避欲求」といったネガティブな情報が、まるで洪水のように蓄積され、「論理と感情の矛盾」が激しく衝突している状態が続いていた。美咲の心は、エラー表示の連続で、正常な思考ができない状態だった。このままでは、自分が壊れてしまう。もう、終わりにするべきなのではないか。美咲は、初めて真剣に「アニメーターを辞めること」を考えた。その「思考」は、美咲の内部システムの「最終警告」のようだった。諦めてしまえば、この苦しみから解放される。疲労と絶望に苛まれた体と心は、その誘惑に強く引き寄せられた。美咲の脳内では、「辞める」という選択肢が、唯一の「解決策」として提示され始めていた。まるで、システムが自己破壊プログラムを起動しようとしているかのようだった。


しかし、美咲の心の奥底には、かすかな光がまだ灯っていた。それは、瀕死の状態で病院に運ばれた時、悠斗が差し入れてくれた缶コーヒーの温かさ。母親が電話口でかけてくれた「美咲、頑張っているね」という優しい言葉。そして、美咲自身が、アニメを見て心を震わせた、あの純粋な感動の記憶だった。これらの「価値観」の残滓が、美咲の「思考」を微かに動かす。「ここで終わっていいのか?」「本当に、このまま諦めてしまうのか?」。美咲の内部システムは、この絶望的な状況から抜け出すための「最適化された知性」として、かすかな可能性を模索し始めていた。美咲の「フィルタリング型」の知性が、ネガティブな情報の中から、わずかなポジティブな要素を必死に抽出する。それは、砂漠の中で一滴の水を求めるような、切実な試みだった。


締切が目前に迫る中、美咲は会社のデスクで、真っ白な紙を前に鉛筆を握りしめた。手は震えるが、美咲の瞳は紙に釘付けになっている。一向に鉛筆は動かない。美咲の目からは、とめどなく熱い涙が溢れ出す。ポロポロと頬を伝う涙が、美咲の震える指先に落ちていく。涙で視界が滲む中、美咲の脳裏には、初めてアニメを見た時の感動、専門学校で悠斗と切磋琢磨した日々、そして母親の優しい笑顔がフラッシュバックする。彼らの顔が、美咲の心に温かい光を灯した。


「私…まだ…描きたい…!こんなところで…終われない…!」


美咲の口から、か細い、しかし確かな声が漏れた。その声は、美咲自身の心の奥底から絞り出された、魂の叫びだった。絶望の淵から、美咲は再び「描くこと」と真剣に向き合うことを選ぶ。それは、単なる作業ではない。美咲の「価値観」そのものだった。美咲の内部システムは、この「描く」という「価値観」を、全システムをかけて守るべき最優先事項として再認識した。まだ先は見えない。しかし、美咲は涙を流しながらも、無我夢中で筆を動かし始める。その線は、か細いが、確かに美咲の意志を宿していた。美咲の心は、この苦しみを乗り越えた先に、きっと何かがあるはずだと、美咲の心の奥底が叫んでいた。


夜が明け、朝日が窓から差し込む頃、美咲の机にそっと置かれた温かい缶コーヒーがあった。その湯気から、微かな甘い香りが漂う。美咲は、ふと顔を上げた。見ると、悠斗が眠そうに目を擦りながら、美咲の隣のデスクで黙々と作業していたのだ。彼もまた、美咲と同じように徹夜で絵と向き合っていた。美咲は、自分一人だけが苦しんでいるわけではないのだと、初めて強く実感した。悠斗は、美咲の顔を見ると、何も言わずに美咲が描いたばかりの動画用紙をそっと覗き込んだ。彼の視線は、美咲の描いた線に集中している。そして、微かに頷くと、小さく、しかし確かな声で言った。


「……いい、線になったな」


その一言が、美咲の心に、まるで乾いた大地に恵みの雨が降ったかのような衝撃を与えた。悠斗は、美咲の絵を認め、その努力を見ていてくれたのだ。孤独な戦いだと思っていた美咲の心に、温かい光が差し込んだ。それは、美咲の「違和感」(孤独感)が解消され、「感情の膨張」(安堵と喜び)へと繋がる瞬間だった。美咲の瞳に、再び微かな光が宿る。それは、真っ暗なトンネルの先に、わずかに見える出口の光のようだった。美咲は、この光を信じて、もう一歩、足を踏み出すことを決意した。たとえそれが、どんなに小さな一歩であったとしても。美咲の描く手は、震えながらも、止まることなく動き出した。その線は、か細いが、確かに美咲の意志を宿し、未来へと続いていくかのようだった。美咲は、悠斗に小さく微笑みかけた。その笑顔は、これまでの苦難を乗り越えた者だけが持つ、確かな強さを秘めていた。

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