フェイクフェイス・シンデレラ
☆ほしい
第1話
私の名前は、彩崎莉緒。私立星奏学園高等部一年。クラスでの役割は……たぶん、空気。
ざわめきが満ちる放課後の教室で、私は息を殺す。机に突っ伏したまま、みんなが教室から出ていく足音を数えていた。一人、また一人と賑やかな声が遠ざかっていく。お願いだから、誰も私の存在に気づかないで。
「ねえ、今日のカラオケ、駅前のとこにしよ!」
「あ、賛成! 最新機種入ったって!」
すぐ近くで弾むような会話が交わされる。明るくて、キラキラしていて、私とは違う世界に住む女の子たちの声。彼女たちの視界に、きっと私は入っていない。背景の一部、壁のシミ、そんなものと同じ。それが私の日常であり、私が望んで手に入れたポジションだった。
別に、いじめられているわけじゃない。ただ、存在感がないだけ。長い前髪で顔を隠して、いつも少し猫背気味。制服のリボンはきっちり一番上まで締めて、スカート丈も校則通り。優等生、というよりは、誰の記憶にも残らないことを目指した結果のスタイルだ。
(今日も、完璧な空気……)
心の中でそっと呟いて、私は安堵のため息をついた。最後の生徒が教室のドアを閉める音がして、ようやく世界に静寂が訪れる。ゆっくりと顔を上げると、夕焼けのオレンジ色が差し込む教室は、まるで私だけの舞台みたいだった。
でも、この舞台の上で、私は決して主役にはなれない。
窓ガラスに映る自分の姿を見て、胸がちくりと痛む。重たい一重まぶた、低い鼻、ぱっとしない輪郭。雑誌に出てくるモデルさんみたいに、ぱっちり二重で、すっと通った鼻筋だったら。そんな「もしも」を、もう何千回考えたか分からない。
幼い頃、何気なく言われた一言が、ずっと私を縛り付けている。
『莉緒ちゃんって、なんか地味だね』
悪意なんてなかったんだろう。子供の素直な感想。でも、その言葉は呪いのように私の心にこびりついた。それからだ。私が人と目を合わせるのが怖くなったのは。自分の顔が、大嫌いになったのは。
だから、私は見つけたんだ。この顔を捨てて、まったく別の誰かになれる方法を。
そっとカバンから取り出したのは、年代物の映画が特集された雑誌。ページをめくると、そこには現実とは思えないような怪物や、リアルな老人の顔をした俳優たちの写真が並んでいる。特殊メイクアップアーティスト。彼らは、粘土やシリコンを使って、俳優の顔をキャンバスにまったく新しい人格を創り出す。
(これだ……)
初めてその技術を知った時、雷に打たれたような衝撃が走った。自分の顔が嫌いなら、変えてしまえばいい。別人になってしまえばいいんだ。それは、私にとって唯一の希望の光だった。
それからの私は、まるで何かに取り憑かれたみたいだった。お小遣いをすべて画材と専門書につぎ込み、独学で特殊メイクの技術を学び始めた。最初は火傷の痕から始まって、少しずつ皺を刻む練習をして。失敗して、何度もやり直して。指先が接着剤でかぶれても、粘土の匂いが髪から取れなくなっても、やめようとは思わなかった。
だって、鏡の中で自分の顔が消えて、まったく別の顔が現れる瞬間。その瞬間だけ、私は息ができたから。
「……行こう」
誰もいなくなった教室に、私の小さな呟きが落ちる。向かう先は、旧校舎にある映像研究部の部室。そこが、私の唯一の『アトリエ』だった。
***
ギィ、と古びた音を立ててドアを開けると、薬品と埃の混じった独特の匂いが私を迎えた。雑然と機材が置かれた部室の奥。窓際のデスクだけが、まるで別世界のように整然としている。そこが私の聖域。そして、そこに座る先客が、ひらりと手を振った。
「よぉ、彩崎。今日も一日、お疲れさん」
気だるげな声。でも、その響きには確かな優しさがある。
「橘先輩……こんにちは」
橘圭吾(たちばな けいご)先輩。高校二年生で、この映像研究部の部長。色素の薄いサラサラの髪を無造作にかき上げながら、彼はいつもここで私を待っていてくれる。
先輩は、私が『RIO』であることを知る、たった一人の理解者だ。
『RIO』。
それは、私がネットで活動する時の名前。私が創り出した特殊メイクの作品を、顔を隠した状態で動画にして公開している。老人、怪物、アンドロイド。私が「変身」する姿を、橘先輩が撮影し、編集してアップしてくれるのだ。
「これ、見てみろよ。前回の『ゴブリン』、海外からのコメントがすごいことになってるぞ」
先輩がノートパソコンの画面をくるりとこちらに向ける。そこには、英語や、見たこともないような言語のコメントが溢れていた。
『クレイジー! 本物かと思った!』
『この肌の質感、どうなってるんだ? 天才か?』
『RIO、あなたは神だ!』
(すごい……)
胸が、ドキドキと高鳴るのが分かる。私の技術が、顔も知らない、遠い国の人たちに届いている。地味で、空気みたいな私じゃない。『RIO』としての私が、世界に認められている。
「ま、これだけのクオリティなんだから、当然だけどな」
先輩は自分のことのように、少しだけ得意げに笑った。
「彩崎の指は、魔法の指だ。どんな人間にだってなれるし、どんな化け物だって創り出せる」
「……魔法なんかじゃ、ありません」
私は小さく首を振った。
「これは、ただの技術です。計算して、設計して、積み重ねるだけの……現実的な、作業です」
そう。魔法なんかじゃない。これは、私の血と汗と涙の結晶だ。コンプレックスから逃げるために、必死で磨き上げた私の武器。
「はい、これ。頼まれてたやつ」
先輩が足元から段ボール箱を持ち上げる。中には、私がネットで注文していた特殊メイク用の材料がぎっしりと詰まっていた。医療用のシリコン、肌に直接使える接着剤、血糊用の塗料。どれも高価で、簡単には手に入らないものばかりだ。
「いつも、すみません。バイト代、すぐにお渡しします」
「いいってことよ。出世払いで」
ひらひらと手を振る先輩に頭を下げて、私は箱を受け取った。ずしりとした重みが、腕に、そして心に広がる。これが、私のすべて。
「それで? 今日のテーマは決まってるのか?」
先輩の問いに、私はこくりと頷いた。
「はい。今日は……『自分』を創ろうと思います」
「自分?」
不思議そうに首を傾げる先輩に、私は持ってきたスケッチブックを開いて見せた。そこに描かれているのは、私、彩崎莉緒とは似ても似つかない、一人の少女の顔。
大きな瞳には、強い意志の光が宿っている。少しだけ吊り上がった気の強そうな眉。すっと通った鼻筋と、きゅっと結ばれた唇。私がずっと憧れてきた、理想の顔。
「……別人、か」
先輩がぽつりと呟いた。
「ああ。いいんじゃないか。お前が創る『お前』か。面白そうじゃん」
「はい」
私は自分の席に着くと、長い髪をヘアゴムできつく縛り上げた。前髪もピンで留めて、普段は隠しているおでこを出す。鏡に映る、いつもの地味な顔。
(さようなら、今日の私)
心の中で別れを告げ、私は作業に取り掛かった。
まずは、自分の顔の型から取った石膏モデルに、油粘土を盛り付けていく。理想の輪郭を、ミリ単位で調整しながら。指先に全神経を集中させる。鼻の高さ、頬の丸み、顎のライン。スケッチブックの少女が、少しずつ立体になっていく。
この時間が、好きだ。誰にも邪魔されず、ただひたすらに「理想」を追い求める時間。教室にいる時の、あの息苦しさなんて微塵も感じない。
粘土の原型が出来上がると、その周りを石膏で固めて雌型を作る。粘土を取り除き、空洞になった部分に、肌の硬さに調合したシリコンを流し込んでいく。気泡が入らないように、慎重に、慎重に。
それはまるで、新しい命を吹き込む儀式のようだった。
「……よし」
数時間後。薄いシリコン製のマスク――プロテーゼが完成した。それは、もう一枚の「顔」。
自分の顔に、専用の接着剤を薄く塗り広げる。ひんやりとした感触。そして、プロテーゼを慎重に貼り付けていく。肌との境目を、パテで丁寧になじませて。
最後に、メイクを施していく。ファンデーションで色を整え、アイラインを引いて、シャドウで陰影をつける。鏡の中の私が、少しずつ、別人へと変わっていく。
地味な彩崎莉緒が、消えていく。
そして――。
すべての工程を終え、私が顔を上げた時。
鏡の中にいたのは、スケッチブックに描いた、あの強い瞳の少女だった。
「……すごいな」
隣で息を飲んでいた橘先輩が、感嘆の声を漏らした。
「本当に、別人だ。これじゃ、誰も彩崎だって気づかない」
私は、鏡の中の『私』をじっと見つめた。この顔なら、堂々と前を向ける。誰の目も、怖くない。
(これが、私)
きゅっと唇を結ぶと、鏡の中の少女も同じように唇を結んだ。強くて、綺麗で、自信に満ち溢れた、偽物の私。
胸の奥が、ズキリと痛んだ。
その時だった。
「きゃあああああっ!」
「嘘でしょ、本物!?」
廊下から、突然、けたたましい女子の悲鳴が聞こえてきたのは。何事かと、私と先輩は顔を見合わせる。
「なんだ、騒がしいな……」
先輩が訝しげに呟きながら、部室のドアに近づいた。私も、無意識のうちに立ち上がっていた。
廊下のざわめきは、どんどん大きくなっていく。それは、まるで何かのパレードのようだった。熱狂と、興奮と、信じられないというような囁きが混じり合っている。
そして、一つの名前が、何度も何度も繰り返されるのが聞こえた。
「神木玲矢くん……!」
「なんでここに!? 映画の撮影!?」
かみき、れいや……?
その名前を聞いた瞬間、心臓がどくんと跳ねた。知らないはずがない。テレビを見ない私でさえ、知っている名前。
今、最も人気のある若手俳優。主演映画は次々と大ヒットし、その完璧なルックスと爽やかな笑顔で、世の女性たちの心を鷲掴みにしている、国民的王子様。
そんな人が、どうしてこんな学園の、しかも旧校舎に?
好奇心に負けて、私はそっとドアの隙間から廊下を覗き見た。人だかりの中心に、その人はいた。
夕日を背にして立つ、長い手足。雑誌で見るよりずっと小さい顔。色素の薄い髪が、スポットライトを浴びたようにキラキラと輝いている。周囲の熱狂を、まるで心地よいBGMのように受け流しながら、彼は完璧な笑顔を浮かべていた。
「……うわ、ガチの芸能人じゃん」
橘先輩が呆れたように呟く。
でも、私の目は、別のものに釘付けになっていた。
(え……?)
神木玲矢の、顔。
完璧な王子様の、その笑顔。
キラキラと輝く、その表情。
なのに、なぜだろう。私の目には、それが、まるで――。
(この人の顔、なんだか……すごく精巧にできた、『仮面』みたい)
ぞくり、と背筋が震えた。
私の創り出した、この偽物の顔と同じ。彼もまた、何かを隠すための『顔』を被っている。
私の目にだけ映る、完璧なアイドルの、完璧な『嘘』。
夕焼けの光の中で、神木玲矢がふとこちらを向いた気がした。
ドキッ、と心臓が大きく跳ねる。
違う。気のせいだ。彼は私なんて見ていない。私のこの「顔」に気づくはずがない。
でも、私の目は、もう彼から逸らすことができなかった。
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