【進歩】人類はもうこれ以上進歩しなくてもいいのではないか?

晋子(しんこ)@思想家・哲学者

今の私たちは「あの頃」よりも幸せになっているのか?

「人類はもうこれ以上進歩しなくてもいいのではないか?」


そんな思いが頭をよぎる瞬間がある。科学技術は十分に発達し、医学も延命と回復を実現し、どこにいても誰とでもつながれる時代が来た。それでもなお、私たちは「もっと」「さらに」と、なにかに追い立てられるように前へ前へと進もうとしている。


しかし、この「進歩し続けなければならない」という強迫観念は、本当に真理なのだろうか?

それはただの時代の流行や幻想ではないだろうか?

進歩よりも、「維持」や「管理」にこそ、本当の文明の成熟があるのではないか?


そう考えることは、決して怠惰ではなく、むしろ人類が辿り着くべき一つの境地であるように思う。


人類は長い間、「昨日より今日」「今日より明日」を信仰してきた。産業革命も、情報革命も、AI革命もすべて「より良くなること」が前提だった。だからこそ、それに乗り遅れることは“悪”とされ、現状に満足することは“停滞”だと見なされてきた。


だが本当にそうなのだろうか。


進歩は華々しい。しかし維持や管理は、地味だがはるかに難しい。

例えばインフラ。道路、橋、電線、水道——これらを作ることよりも、それを「壊さずに保つこと」の方がよほど長期的で知的な仕事である。自然環境との共存、少子高齢社会への対応、地域コミュニティの存続、戦争の防止。どれもが「進歩」ではなく「維持」や「調和」に関する課題である。


成熟した文明とは、壊しては創り、また壊しては創ることではない。

むしろ、壊さずに済むように「整える力」こそ、真に知性のある行為なのではないか。


また、よく「進歩には痛みが伴う」と言われる。


たしかに新しい価値観や技術を受け入れるには、ある種の混乱や摩擦があるだろう。しかし、あたかも痛みや犠牲がなければ進歩できないという価値観には、どこか暴力的な匂いがする。


進歩は「闘争」ではなくてはならないのか。

苦しまなければ価値がないのか。

努力と苦痛があるから成長できる、というのは本当か?


実は「痛みを伴わない進歩」もあるのではないか。

「壊さなくてもできる革新」「誰も傷つけない学び」「疲弊しない発見」もあるのではないか。


私たちは、痛みに耐えてでも進むことを“美徳”としてしまっている。しかしその背景には、「痛みに意味を与えたい」「苦しみを正当化したい」という感情も潜んでいる。本来、痛みは回避すべきものであり、あえて美化すべきものではない。


ここで「足るを知る」という言葉が思い出される。仏教における知足の教えだ。


今あるものを「これで充分」と認識すること。

家がある。食事がある。安全がある。仲間がいる。

それで、もう充分なのだと気づく感性は、ある意味では“究極の進歩”ではないだろうか。


なぜなら、どこまでいっても「足りない」と感じてしまう精神は、永遠に満たされることがない。逆に「もうこれでいい」と思える心は、そこで初めて本当の意味での“幸福”に到達できるからだ。


文明の進化とは、「もっと欲しがること」ではなく、「満ちていることに気づくこと」なのかもしれない。


進歩しないことは、決して後退ではない。

それは、今あるものを深く見つめ、尊重し、壊さず、育てていくという知的な態度である。


無理に前へ進むのではなく、いまこの場を「本当に良い状態で保つ」こと。

誰かを追い越すのではなく、誰もが倒れないように支えること。

傷つきながら突き進むのではなく、傷つかない道を探すこと。


それこそが、これからの人類の課題であり、可能性ではないだろうか。


人類は、もうこれ以上進歩しなくても良いのかもしれない。

むしろ進歩しようとするあまり、自らを壊してしまう未来のほうが恐ろしい。


維持にこそ、価値がある。

管理にこそ、賢さがある。

そして、「もう充分だ」と言える人間にこそ、成熟が宿る。


人類がその地点に立てたとき、「進歩」という言葉は、ようやく休息を許されるのかもしれない。

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