第18話

カナリアは、仲間の到着を待たずに、静かにゴブリンの巣穴へと近づいていった。冷たい湿気を含んだ空気が、穴の奥からじわりと吹き出してくる。その風に混じって、微かに人の声のようなものも聞こえてきた。

「カナリアー!」

背後から声がして、振り返るとグレンたち三人が駆け寄ってくるところだった。グレンはやや興奮した面持ちで笑みを浮かべていた。

「さっきの戦いで、カナリアが言いたかったこと……なんとなく分かった気がする。剣が軽くて、体の動きが素直に出る。今日の方が、調子いい」

「それはいい兆候だ。……じゃあ、残りのゴブリンたちも頼むよ」

カナリアの言葉に、グレンは真剣な顔で強く頷いた。

「……ゴブリンは狡猾な種族だ。おそらく巣の中には罠が仕掛けられている。ユリ、水を流せるか?」

唐突に名を呼ばれたユリは、一瞬ぼんやりとカナリアを見つめ返した。

「ユリ……?」

「……あ、うん、水ね。どのくらい?」

「指の一関節分程度の水位で充分だ」

ユリがそっと手をかざすと、魔法で呼び出された水が細い流れとなって巣穴の中へと静かに広がっていく。岩肌を伝って流れていく水は、ある地点でわずかに淀み、滞った。

「……あそこは怪しいな。罠用に掘られた地形は水が溜まる。足元に気をつけて、壁にはなるべく触れないように」

そう言って、カナリアは腰の松明に火を灯し、揺れる炎で前方を照らした。

しばらく進むと、どこかの横穴から、子供の泣き声が微かに聞こえてきた。

「カナリア、あっちに子どもがいるんじゃないか?」

グレンが声を潜めて言う。

だがカナリアは即座に、低い声で返した。

「振り向くな。あれは誘いだ」

「どうして分かる?」

「よく聞いてみろ。泣き声の中に、“殺さないで”って言葉が混じっている」

耳を澄ませば、確かに「お母さん」「助けて」「お父さん」「殺さないで」と、同じ言葉が繰り返されていた。

「“殺さないで”なんて、今まさに死の淵にいる人間が言う言葉だ。……恐らく、死者の最後の声をゴブリンどもが覚えて、鳴き真似している」

「……それでも、本物の子どもがいる可能性は?」

「否定はしない。だが、無警戒に近づくのは自殺行為だ。……試してみようか」

カナリアは横穴の方へ小石をひとつ投げ込んだ。

直後、無数の矢が壁の裂け目から一斉に放たれ、嵐のように通路を穿った。天井や壁に刺さった矢がピタリと止まると、どこからか数体のゴブリンが現れ、罠の犠牲を確かめるかのようにズルズルと這い出してきた。

「……やはり来たな」

カナリアが剣を抜きながら、静かに告げた。

グレンも剣を構えた。

弓を構えたゴブリンたちが、カナリアの姿を認めて目を見開く。だが、矢が放たれるよりも先に――鋭い斬撃がその場を駆け抜けた。

「――ッ!」

何が起こったのか、彼らが理解する暇もない。刹那、首と胴が別れ、濁った血が石床に跳ねた。ゴブリンたちの身体が、どさり、と重たい音を立てて崩れる。

「……っ、早っ……!」

背後でグレンが息を呑んだ。視界が追いつかない。剣が振るわれたことすら見えなかった。

カナリアは涼しい顔で松明を掲げ、壁に灯りを照らす。

「……ここは罠用に掘られた壁だな」

「どうしてそれがわかるんだ?」

「穴の大きさだよ。モグラの通路は幅が広くて、削り跡も粗い。ゴブリンの手が届く範囲で掘られた穴は、もう少し狭くて、綺麗に整ってる」

カナリアは一つ石を拾い、暗がりに向かって放る。数秒後、鈍い音と共に壁にぶつかり、床をコロコロと転がる音が響いた。

「この先は……行き止まりだ。子どもはいない」

「……すげぇな。音でそこまでわかるのか」

そう呟いたグレンの背後で、ロイとユリも目を見張っていた。カナリアの指示で、一行はその後も罠を避けながら慎重に進んでいく。

「でもさ、なんでそんなに罠の場所がわかるんだ?」

思わず漏らしたグレンの問いに、カナリアは少しだけ笑ってみせた。けれど、その目にはどこか遠いものがあった。

「……何度も繰り返してきたから。数えきれないほど」

カナリアは笑っていた。その声には静かな疲れが浮かんでいた。

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