第3話 早期退職と異世界への招待 -3
リルルに促され、健一は森の中を進んだ。
疲労しているはずにもかかわらず、足取りはどこか軽やかであった。
澄んだ空気と草木の香りが心地よい。
鳥たちのさえずり、風に揺れる木の葉の音、全てが彼の心を癒していくようであった。
森の道は獣道のように細く、時折、見慣れない光を放つ植物が足元を照らした。
その光景は、彼がこれまで生きてきた世界とは全く異なる、神秘的な美しさに満ちていた。
やがて、苔むした岩壁に寄り添うように建つ、素朴な木の小屋に到着した。
「ここが、当面の間、健一様の拠点となります。創造神様からの、ささやかな贈り物です」
リルルの言葉に、健一の心に温かいものが灯る。
「これは…簡素ではあるが、温かみがあるな」
健一は小屋の扉を開けた。
小屋の中は土間と板張りの床、小さな暖炉があるだけの質素な作りであったが、清潔で静謐な空気が漂っていた。
隅には、簡素な寝台と机、椅子。
簡素ながらも、すべてが健一を穏やかに受け入れているようであった。
窓からは、森の緑が鮮やかに見え、心地よい風が吹き抜ける。
この小屋が、彼の新たな生活の出発点となることに、彼は静かな喜びを感じていた。
リルルが、小屋の傍らに生える見慣れない植物を指差した。
「この実は食することができます。食料は、ご自身で調達していただくことになります」
「前世においては、全てが金銭で賄えた」
健一は心中で呟いた。
「しかしここでは…。自給自足か。だが、家庭菜園で培った知識が多少は役立つかもしれないな」
健一は、新たな課題に直面しながらも、前向きな気持ちを感じていた。
彼の几帳面な性格が、この未知の世界での生活を計画し始める。
まずは、食料の確保と、最低限の生活環境の整備が急務であると判断した。
彼は、総務部で培った問題解決能力を、この異世界でのサバイバルに活かせることに、かすかな期待を抱いていた。
健一が机上の木材に何気なく触れると、手のひらから淡い光が発せられ、木材の表面がわずかに滑らかになった。
「それは創造魔力。健一様にお与えされた、地味ではありますが便利な力です。素材を加工したり、道具を作るのに役立ちます」
リルルの説明に、健一の目は輝く。
その光は、彼の心に新たな可能性の扉を開いた。
「これは…興味深い。これならば、何かを製作できるかもしれないな」
総務部での「何でも屋」としての器用さや、日曜大工の趣味が脳裏をよぎり、新たな可能性への期待が膨らんだ。
彼の心に、忘れかけていた「ものづくり」への喜びが蘇る。
この力があれば、この世界で様々なものを生み出し、生活を豊かにできるかもしれない。
それは、前世で感じていた無力感を打ち消す、新たな希望の光であった。
小屋の窓から二つの月が差し込み、幻想的な光景が広がった。
暖炉に火を熾し、薪がパチパチと爆ぜる音を聞きながら、初めて異世界で一人きりの夜を過ごした。
静かに燃える炎を見つめながら、健一は深く息を吐いた。
「前世の私は、何かに追われ、常に完璧を要求され、疲弊していた」
彼は独白する。
「もはや、あの頃のようにはなりたくない。もはや、誰も私を評価することも、私に期待することもない。ただ、自身の為に生きる…」
彼の表情には、安堵と、かすかな期待が浮かんでいた。
それは、彼が長年探し求めていた心の平穏の兆しであった。
「明日から、私の第二の人生が始まる」
健一は静かに決意を固めた。
「完璧な人生など、どこにも存在しないのだ。それでも、この世界で、少しでも穏やかに、心安らかに生きることができれば…」
彼はさらに続けた。
「もはや、誰かの評価のために生きる必要はない。ただ、自身の心が満たされることを追求しよう」
健一は、暖炉の火を見つめながら、静かに目を閉じた。
明日からの生活への不安もわずかにあるが、それよりも、全てから解放された清々しさと、ささやかな希望が彼の心を占めていた。
外では夜の森の音が響き、健一の小さな小屋だけが、穏やかな光を灯している。
彼の新しい人生の扉が、ゆっくりと、しかし確実に開かれていくのであった。
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