フグは夢を見るか
たんすい
第1話:花火の夜、涙を舐めた犬
小学生の頃、僕にはルカという名の犬がいた。
茶色い毛並みが愛らしい雑種のメスで、
太陽の下で遊ぶのが好きな、
人懐っこくて賢い相棒だった 。
家族の中でも、
ルカはとりわけ僕に懐いていた。
学校で嫌なことがあって
一人で膝を抱えていると、
言葉もなくただ静かに寄り添い、
頬を伝う涙を温かい舌でそっと舐めてくれる、
そんな優しいやつだった。
嬉しいことがあれば、
まるで自分のことのように
全身で喜びを表現し、
ちぎれんばかりに
尻尾を振って飛び跳ねてくれた 。
ルカは、いつも隣で
僕の心を分かち合ってくれる、
かけがえのない存在だった。
言葉なんて交わさなくても、
心は確かに通じ合える──
幼い僕は、それを疑いもしなかった 。
しかし、永遠に続くと思われた
穏やかな日々は、
あまりにも突然に終わりを告げた。
ある日、あれほど元気だったルカが
急に体調を崩したのだ。
ぐったりと伏せ、
苦しそうに浅い呼吸を繰り返す
ルカが何を訴えたいのか、
どこが痛いのか、
僕にはまるで分からなかった 。
いつも隣にいて、
ルカのことなら何でも
分かっているつもりでいた。
それなのに、その自信は
もろくも崩れ去り、
結局何もしてやれないまま、
ルカは動物病院に
預けられることになった 。
「また明日ね、ルカ」
ぐったりとした
頭を撫でながら、
僕はそう声をかけた。
明日になれば、
また元気に会えると、
信じて疑わなかった 。
八月の、
むせ返るような熱気が残る、
花火大会の夜だった 。
遠くで腹の底に響くような音が鳴り、
夜空が刹那的に明るくなるのを、
僕は、部屋の窓からぼんやりと眺めていた。
ただひたすらに、
ルカの帰りを待ちながら 。
やがて階下で電話が鳴った。
受話器を取る母の背中を、
僕は息を殺して見つめる。
やけに静かな声が、
部屋まで届いた 。
「はい、わかりました。
……ありがとうございます。
今から、伺います」
その言葉を聞いた瞬間、
僕はベッドから飛び起きた。
きっと、ルカの病気が治ったんだ!
喜びが全身を駆け巡り、
僕は玄関へ走りながら叫んだ。
「母さん、早く!
ルカを迎えに行こう!」
夜道を急ぐ間も、
空には次々と
大輪の花が咲き乱れていた 。
けれど、僕の心は
ルカでいっぱいで、
夜空の祝祭を
見上げる余裕なんて、
ひとかけらもなかった 。
──診察室で、
白いタオルに包まれたルカを見た時、
世界から音が消えた 。
「元気になる」と、
心の底から信じていた。
「また会える」と、
何の疑いもなく思っていた 。
それなのに、
その願いが叶うことは
二度となかった。
冷たくなったルカは、
僕がいくら呼びかけても、
もう何も答えてはくれなかった 。
家族の誰もいない場所で、
誰にも看取られることなく、
たった独りで逝ってしまった小さな体 。
あれほど、
待ち焦がれていたはずの花火の音も、
それを楽しむ人々の歓声も、
その日を境に、
僕の中から永遠に意味を失った 。
いや、違う。
消えたのではない。
あの夜を祝福するかのように
鳴り響いていた、
腹の底に響く重低音と、
夜空を焦がす光の全てが…
ただひたすらに、
苦しいだけの記憶へと
塗り替えられてしまったのだ 。
それ以来、
僕は八月の夜空を
見上げることができなくなった。
あの美しいはずの光が、
大好きなルカを独りにした夜を
思い出させるからだ 。
僕は、花火が嫌いだ 。
あのとき、
もしルカの“声”が聞こえていたら──。
そう思わなかった日は、
一日としてない 。
だからこそ、
僕は統合動物認知研究所(IACI)を
目指した。
言葉を持たない命たちの“心”を、
科学の力で言葉に変える場所。
そんな夢物語のような研究が、
ほんの少しだけ、
現実になるかもしれないと思えたからだ 。
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