潮汐

薮 透子

潮汐




 不意に涙が滲むのは、体の真ん中にある心というものが締め付けられて苦しいから、その痛みに耐えるためだと、歌はいっていた。


 友人が亡くなったというメッセージが、友人とのメッセージボックスに、友人の姉だという人から届いた時も、体の真ん中が締め付けられて、だから私は、心が苦しがっているから涙を滲ませた。


 既読をつけてからどれくらい経ったか分からず、それが本当に友人の姉なのかも分からず、そもそも友人に姉がいたのだということを初めて知り、友人には共に暮らす家族がいたのだと認識した。私が、弟と祖母と暮らしているのと同じように、友人が暮らす家にも誰かがいる。友人の面影がぱっと脳裏に浮かんできて、笑みを浮かべていなかったのにそれはひどく眩しくて、視界が滲んだと思ったら涙が頬を流れ落ちていた。


『亜湖と仲良くしてくれてありがとう』


 句読点のない友人の姉からのメッセージ。数日前まで交わしていた友人からのメッセージには、絵文字やエクスクラメーションマークが使われていて、まるで目の前に友人がいるようだったのに、不思議と友人の姉からのメッセージは、一目見てすぐに、友人ではないということだけは分かった。






 山下さん、亡くなったんだって。


 教室はいつもより静かで、ぽつりぽつりと聞こえてくる会話には友人の名前が浮かび、命を落とした人に使われる言葉が付け加えられる。会話から耳を背けても別の会話が耳に入り、そこでも友人の話がされている。会話が膨らむ度に友人の存在が消されていくようだった。友人がいなくなったこと、もう登校してこないこと、言葉にされる度にそれが本当なのだとクラスメイトの中で偽りのない事実になって固まった。自分が見聞きしたものよりも誰かから聞いた話の方が信じられるのに、友人の死は私の中でぼんやりとしたままだった。


 SHRで担任が教卓に立ち、友人がいなくなったことを告げて、またその事実が本当であることを形作ってしまう。二度と登校してこない、友人の姿を見ることも、声を聞くこともできない。ぎゅっと心が苦しくなって、しかし涙は滲まなかった。


「山下さんってどんな子?」

「さあ、去年クラス違ったから分からん」

「眼鏡掛けてなかった? 重めの黒髪やったような」

「覚えてそうやのになあ」

「去年からあんまり来てへんかったよ。ね、結城さん」


 急に話を振られたけれど、全部聞いていたから、「そうやね」と返事をする。女子三人のじっとりとした視線が絡み付いてずどんと刺さった気がするけれど、汚れたレンズがフィルターになって痛くなかった。「ね」と話を振ってきた女子が顔を戻す。三人の視線が真ん中に寄せられて、もう、誰も私を見ていなかった。少しだけ声が聞こえづらくなった。


 視線を窓際へ移すと、こちらを見ていた男子と目があった。なにか聞きたそうに、机に腕をついて前のめりになっている。

「去年、山下さんと同じクラスやったん?」

「うん」

「仲良かったん?」


 最後に友人の声を聞いたのは去年の秋頃で、学校に来なくなってからはメッセージだけのやり取りだった。手のひらサイズの長方形の端末だけが私と友人を繋ぐもので、果たしてそれだけの繋がりで、仲が良いと言っていいのだろうか。


「山下さんって、なんで……?」


 私の返事を待たずに言葉を続けた男子は語尾を濁した。くいと眉を上げた男子に、分かってくれと言われた気がする。こういう時にしか話しかけてこない男子の何を分かれと言うのだろう。ひどく悲しげに目尻を下げているけれど、瞳ははっきりと丸くて、黒くて、好奇心に見つめられているような気がした。


 私は首を横に振った。「分からん」

「連絡とかしてたん?」

 私は首を横に振った。「してへん」

「なんで学校に来てなかったん?」

 私は首を横に振った。「分からへん」

「山下さんって、どんな子やったん?」

 私は 私は 私は……


 首を横に振った。






 最終回、見た?

 入力したメッセージに誤字がないか確認もせずに送信ボタンを押した。亜湖が退会しました、と出たのは一昨日。「なんか」と付けられたグループ名の横には数字の一が両かっこに挟まれて窮屈そうにしている。このグループには誰もいません、なんて嘘、だってまだ私がいる。


 いつもならすぐにつく既読がつかない。しばらく画面をじっと見つめていると窓を叩く雨音が聞こえ、やがてバケツをひっくり返したように激しくなった。エアコンもつけずに開けていた窓から入り込んできた雨が頭に触れるとひんやりと冷たくて、友人の手に似ている気がした。友人に頭を撫でられたことなんて一度もないのに、そもそもその手に触れたこともないのに、友人の手に似ている、と思ってしまった。だから窓は閉められなかった。友人を拒絶することはできなかった。


 雨音が静まり、残り香のような雷の音が響いている。窓から入り込んだ風が濡れた頭皮を撫でて体に染み込んでくる。これは友人の手ではなかった。友人はもっと温かくて冷たい手をしているから。知らないはずなのに、どうして私は、友人のことばかり。


 追いメッセージを送ろうとして、最近見たアニメの話にしようと思った。バトル物はシーンの切り替えが早く迫力があるから三十分もあっという間に終わってしまう、と打ったところで、果たして友人はこれを気に入るだろうかと疑問が浮かんだ。そういえば友人はどんなものが好きなのだろう。友人が学校に来なくなってからも連絡を取り合っていたのに、私は未だに友人のことをほとんど知らない。それなのに、手の温かさだけは分かってしまう。


 結局既読がつくことはなくて、画面はふっと暗くなってしまった。私の顔が反射している、濡れた髪がぺたんと肌に張り付き、雨を浴びたのか汗にまみれているのか分からない。






 高校一年生の夏、学校祭の準備のために作られた班で、メッセージグループが作られた。その方が連絡が取りやすいから、と事務的な存在だったけれど、学校祭が終わってからは雑談に使われるようになった。


『三浦さんの今日の髪型やばなかった?』

『高校生にもなってツインテールはありえん』

『自分のこと可愛いと思ってるんやろ』


 分かる、とか、うける、とか返せば良かったのだと思う。でもその日の私はメッセージを送る気にはなれなくて放置してしまった。しばらくしてからスマホを見ると通知が貯まっていて、ノリ悪くね? という最新メッセージが表示されていた。


『私は可愛いと思ったよ』

 未読メッセージの中に友人のアイコンが浮かぶ。

『あんまり悪口言わない方がいいよ』


 そこからの彼女らの攻撃は強かった。冗談じゃん、本気じゃないし、てかいつもノリ悪くね? 三人からの言葉がしばらく続く中に友人の言葉はなかった。やがてグループからひとり減り、ひとり減り、ひとり減り、私と友人だけになった。


『気にしなくていいよ』続けて送る。『ありがとう』

 言葉が足りなかったかもしれない、と思い画面をフリックしている時、先程私が送ったメッセージが押し上げられる。


『うん』


 翌日から友人は学校に来なくなったけれど、私はいつもと変わらずメッセージを送り続けた。どうしたのとか、何かあったのとか、そういうことは一言も送らず、共通の趣味の話に花を咲かせていた。好きな小説家の最新作を買ったこと、話題の映画を見に行ったこと、久しぶりにスマホゲームを開いたらいつの間にか朝になっていたこと。学校のことも、勉強のことも、私は何も聞かなかった。友人も変わらない様子でメッセージを返してくれた。


 友人が学校に来なくても私は友人と会話ができたし、学校生活に支障があるわけではなかった。だから、友人がいなくても通学できていることに気づくのに時間が掛かった。私は友人がいなくても学校に通える。けれど友人は、私がいても学校には通えなかった。


 グループから抜けた彼女らと話すことはなくなった。元々彼女たちの口の悪さには辟易していて、クラスが変われば自然と離れていくだろうと思って放置していたら、友人の一言で簡単に切れてしまった。何もせずとも切れてしまった糸は手の届かない場所へ飛んでいく。けれどその糸は、ずっと私を見ているかのように近付いてくるのだから、煩わしい。

 ね、結城さん……






 友人の家は最寄り駅から三つの場所にあった。担任づてに友人の家族から連絡が入り、私は友人の家を訪れた。白い壁が綺麗な一軒家には黒い車が止まっている。山下という表札を確認してからインターホンを押すとしばらくして、玄関の扉が開いて若い女性が現れた。亜湖の? という問いに頷くと、どうぞ、と促され友人の家に足を踏み入れた。他人の匂いがする。


 玄関を入ってすぐの和室には机と座布団が二つ、対面になるように置かれている。

「亜湖と仲良くしてくれてありがとう」

 机にお茶を置いて腰をおろすと、女性は儚げな笑みを浮かべてそう言った。わずかに震えた声に目を見張ったが、涙を浮かべているわけではなさそうだ。


「学校に行かなくなってからも連絡を取り合っている子がいることは聞いていたの。何度も学校に行こうとしたけれど、どうしても行けなくて。あなたがいるから行きたいっていつもがんばっていたわ」


 私は何も言えなかった。言わなければならないのに。私はあなたの娘さんのことを何も知らない。


「いつもメッセージを送ってくれるって喜んでいたの。ご飯の時間もスマホを気にしちゃうくらいにね。だったら亜湖から送ったら? って言ったら、迷惑になるかもって気にするのよ。ようやく送ったメッセージに返信がきた時は大喜びで──……」


 女性が言葉を詰まらせる。口元を押さえ、漏れる嗚咽を抑え込んだ。俯く、背中を丸める、女性のつむじが見えて、泣き声がはぜた。


 女性の背後の、黒光りした真新しい仏壇に視線を移す。小さな写真立ての中で友人が笑みを浮かべている。そんな笑顔を浮かべている友人を、私は見たことがなかったから、一瞬、誰なのか分からなかった。


 やがて女性は落ち着きを取り戻し、顔を上げる。


「あなたは亜湖の支えでした。本当にありがとう」


 眉を寄せて嗚咽を飲み込む女性の顔は、ひどく苦しそうに見えた。


 友人が手を汚したことで切れた糸を繋ぎ止めることもなく、友人に手を差し伸べることもしなかった私を、これ以上惨めにするのは、友人だけでよかった。






 不意に目に涙が滲むのは、体の真ん中にある心というものが締め付けられて苦しいから、その痛みに耐えるためだ、といった歌を作った人が、亡くなったらしい。文字だけで終わりを告げたその人の死はひどく静かで、母親の泣き声で埋め尽くされた友人の死を思い出すと、心が締め付けられた。ようやく、寂しい、と思えた。

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潮汐 薮 透子 @shosetu-kakuko

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